第25話 岩手県一関市のわんこそば(前)
まったくもって意味不明な事態であった。
魔界を去った母が、なぜ人界に居るのか。なぜ蕎麦屋で写真に写っているのか。わんこそば大食い記録とは何なのか。
放心状態のヴァルアリスに、着物姿でたすき掛けをしたきっぷのいい店員・三沢静子が声をかける。
「はいお客さん、いらっしゃい! お食事?」
「こ……これ、これは」
もはやまともに口も聞けず、震えながら母の姿を指差すヴァルアリスに、三沢静子はからからと笑いながら早口でまくし立てた。
「あ、この写真? わんこそば沢山食べだお客さんの記念撮影してんだげどねぇ。この人は昨日、百杯食べだったよ。女の人では珍しい方だなあ」
「わんこそば……百……杯……?」
「あら? ちょっとアンタ、この人と雰囲気似でるねえ。親戚の方?」
娘ですとは言い出せずに、ヴァルアリスはただ呆然と目の前の写真を見つめるのみであった。
やはり間違いなく母、ニルファナスはこの店で食事をしたのだ。わずか一日の差でここを訪れていたのだ。
「お嬢ちゃんも挑戦すっが、わんこそば! 百杯食べだら、記念手形プレゼントするよぉ!」
木製のプレートを手にしてヴァルアリスに笑いかける三沢静子の前に、ようやく店内に踏み込んだオルガナインが素早く立ちはだかった。
「結構です。知らないのも無理はありませんが、こちらのお方は高貴なご身分。そのような遊戯に興じるつもりは」
「ある」
「あ、ある……のですか……?」
ヴァルアリス本人に割り込まれ、立場を失ったオルガナインは空いた口が塞がらなくなった。
一般的な魔族の感覚では、人界の食物を口にすること自体が奇異な事。
ましてわんこそばなどという謎の行事に挑むなど理解の外なのだ。
「あるとも。私は、食べるぞ。わんこそばを!」
ヴァルアリスの目に炎が燃えていた。
自分は母の足跡を辿ってここに来たのでは無く、
「あいよ! わんこそば一名、お二階どうぞぉ!」
店員、三沢静子の声が高らかに店内へ響き渡る。調理場ではその声を耳にした職人が静かに動き始めた……!
岩手県南部、名店・八見庵にその人ありと謳われた蕎麦打ちの名人、松登志夫。
いつでも確実に美味しい蕎麦を打つというのは容易なことではない。
同じ蕎麦粉を使ったとしても、その日の湿度、温度によって蕎麦粉に加える水の量、蕎麦粉を練る力加減、かける時間に微妙な調整を必要とするのだ。
名人・松登志夫はその微妙な調整を、指先に伝わる感覚、水を加えた粉のまとまり具合によって判断する。
実に繊細な作業である。
しかし実際のところ、わんこそばの味に高いクオリティを求める客は多くない。何杯食べられるかを競うイベントとしての印象が強いからだ。
たくさん食べることが目的であり、味は二の次……家族連れや仲の良いグループ、あるいは気ままな一人旅の思い出になる事を考えれば、それも決して悪くはない。
悪くはないが、松登志夫はそこに妥協することができなかった。
練り上げた蕎麦粉を畳んで伸ばし、太さをそろえて断つ。
大鍋の中、煮えたぎる湯の中で蕎麦が踊る。目を細めてその様を観察していた松登志夫は突然くわっと開眼し、蕎麦を引き上げた。
この蕎麦を冷水でしっかり締め、麺の命ともいえるコシを出すのだ。
松登志夫を突き動かすのは、料理人としての、そば打ち名人としての、岩手県民としてのプライドである。
イベントのための料理であっても、味はいつでも真剣勝負。岩手の蕎麦は良い味だったと、そう記憶して帰ってほしいのだ。
故に八見庵では、わんこそばのための蕎麦を手打ちの打ちたて、茹でたてで用意する。客を待たせてしまう時間は長いが、それに見合うだけの美味しさを提供できるという自負があるのだ。
その自慢の蕎麦が今、人類を滅ぼさんとする魔族の姫との戦いに向かう!
わんこそばの提供の仕方には様々な形態があるが、八見庵のわんこそばは客一人につき一人の給仕が付き、一杯を食べ終わったら次々とおかわりを提供するスタイルである。
ずらりと並んで椀に入った小分けの蕎麦をお盆に乗せ、三沢静子が声を張った。
「さあ、準備はいいがい!」
「……とうにできている!」
お膳の前で座布団の上に正座し、応じるヴァルアリスの声もまた気迫に満ちている。お昼時もとうに過ぎた八見庵、畳敷きの座敷に客はヴァルアリス一人だ。
オルガナインも同席しているが、わんこそばに挑戦することはなくただ見守るのみである。
ヴァルアリスの目の前の盆には、味に変化をつけるための小鉢料理が数種類。
決意の眼差しで赤い漆塗りのお椀を手に取る。
「ようし。そいじゃ、始めるよぅ!」
手持ちの椀に投入されるわんこそばの最初の一杯……しかし、ふわりと漂ったその蕎麦の香りを嗅いだ瞬間、ヴァルアリスの意識は時を遡った。
「母上!」
城の中を駆け回りながら、母を呼ぶ。
ヴァルアリスの踏み出す足は小さく、見上げる景色は何もかもが大きい。
城内のあちこちを探し回っても母の姿はなかなか見つからず、やがてヴァルアリスは息急き切って調理場へと辿り着いた。
「母上!」
幼いヴァルアリスは、ようやく見つけた母、ニルファナスの腰に勢いよくしがみついた。辺りには何やら甘い匂いが漂っている。
「母上、何してるの?」
しがみついたまま背伸びをしてテーブルの上を覗き込もうとすると、母は苦笑してヴァルアリスを抱きかかえた。
調理台の上には四角形や丸型、菱形の小さな焼き菓子が並んでいる。
「蕎麦粉のクッキーを焼いたのよ」
「そばこ?」
初めて聞く単語に、ヴァルアリスは目をぱちくりさせた。魔界では聞いたことのない単語だ。
「……そろそろ粗熱も取れたかしら。食べてみる?」
ニルファナスはクッキーを一枚つまみ上げ、ヴァルアリスに渡した。
恐る恐るかじってみると、それは素朴に甘くて、初めて食べる物なのにどこか懐かしいような、不思議な味わいだった。
「おいしい! こんなおいしいの、はじめて食べた!」
ヴァルアリスは驚いて大声をあげていた。
食事に喜びを感じたのは、それが初めての事だったのだ。
夢中でクッキーをかじるヴァルアリスの髪を撫で、ニルファナスはにこやかに微笑んだ。
「本当は蕎麦粉を使って、細長い麺を作るの。でも、魔界には作れる人が居ないからね……」
「それも食べてみたい!」
撫でられながら元気な声を上げるヴァルアリスに、ニルファナスは頬を寄せて呟く。
「そうね。いつか……食べさせてあげたい」
何を思っていたのか、その時のニルファナスの声にはいつもと違う響きが感じられた。
しかし幼いヴァルアリスにはその意味がわからず、目の前の大量のクッキーの方がよほど興味を引いた。
「ヴァルアリス……全部食べてはいけませんよ。ヴァルアリス。私の分も残して、ヴァルアリス! ヴァルアリスーッ!」
「姫様。どうなさいました?」
オルガナインの声に、ヴァルアリスの意識は唐突に現在へと引き戻された。
今見ていたのは、間違いなく過去にあった出来事だ。ねつ造された記憶ではない。
人界の食物を口にした最初の記憶であり、自分の
それが、蕎麦の香りによって思い出された。
何故、自分はこんなに重要なことを今まで忘れていたのか。
理由はわかっている。覚えていたくなかったのだ。
自分の元を去っていった母の優しい思い出など覚えていても辛いだけだと、自ら封をしていたのだ。
だが、今になってみればわかる。
確信の持てなかった一つの事実が浮かび上がってくる。
あの時、自分は間違いなく母に愛されていた。それは間違いないことだった。
ヴァルアリスは素早く指先で目元の雫を拭った。
卓上の割り箸を手に取り、勢いよく左右に開く。
ぱきっという心地よい音とともに割り箸はきれいに割れた。
両手を合わせたヴァルアリスは、高らかに宣言した。
「いただき……ます!」
勢いよく蕎麦を啜る。
しっかりとした、コシのある蕎麦を噛みしめる。歯が麺を断つたびに蕎麦粉の風味がふわりと立ち上がり、麺がするすると喉を通っていく感覚も心地よい。
小さな椀に注がれた一口分の蕎麦は、あっという間になくなった。
「はいっ、じゃんじゃん!」
一杯の蕎麦を食べ終えると掛け声とともにすぐさまおかわりの一杯が投入される。給仕である三沢静子の、客の呼吸を読む熟練の動きだ。
再び、カツオの風味が効いた甘辛いつゆをたっぷりと蕎麦に絡め、啜る。
それでも豊かな蕎麦の香り、甘みがしっかりと感じられる。
一啜りごとに心が洗われていくような、自然と背筋が伸びるような、そんな真っすぐな味わい。
「はいっ、どんどん!」
椀が空になった瞬間を見逃さず、再び蕎麦が滑り込む。
つゆに浮かんだ麺を箸ですくい、啜る。しこしことした食感、清涼な風味とのど越しの良さを味わう。
「はい、もう一丁!」
「ほら、まだまだ!」
「さあ、わっしょい!」
次々と掛け声が上がり、食べ終えた蕎麦の椀が瞬く間に積みあがっていく。
この美味な蕎麦ならば、何杯でも食べられる気がする。もちろん、百杯など余裕だ。
(母上……)
その時ヴァルアリスは、何処の空の下にいるともしれない母と、何かが繋がった気がした。
そんなヴァルアリスの内心を知るはずもないオルガナインは、わけもわからず少し離れた場所で途方に暮れていた。
この店には魔界から消えた王妃の写真があり、姫は放心状態になったかと思えば猛然と人界の食物を食べている。
そんな状況で何の説明もなく放置されては、混乱するのも無理はない。
しかし不意にその表情が険しくなり、オルガナインは立ち上がって窓際へと近づいた。
「姫様」
「何だ!」
一心不乱に蕎麦をすするヴァルアリスに、危機察知能力に優れる
「敵襲です」
見上げるその先には、空を赤く染める巨大な爆炎。全てを砕かんとする膨大な破壊の力が地表へ迫りつつあった。
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