第9話 中央区銀座の握り寿司(前)
霧雨の夜であった。
傘を広げるヴァルアリスは、常とはがらりと変わって大人びたパンツスーツスタイル。紅を引き、シンプルな
これはTime(時)、Place(場所)、Occasion(場合)に応じた装いである。
ここは銀座。古くは江戸幕府直轄の銀貨を扱う役所名であり、現在は日本を代表する繁華街の一つ。
大通りには高級ジュエリーやファッションブランドのショップが立ち並び、全国でも有数の画廊が集う。他にもレトロな老舗の喫茶店、文豪が愛した洋食店やバーなど、見所は尽きない街である。
だが、此度のヴァルアリスの目当てはそのどれでもない。
"水心"という名の一軒の寿司屋であった。
高級路線に狙いを変えたヴァルアリスは、庶民にとって憧れの的となる料理を探った。
入念なる調査の結果辿り着いたのは、"ザギンデシースー"。
それは、銀座という地に構えられた店で、寿司という料理を食す意味の言葉。これこそ、人類の中でも限られた身分の者に許された贅の極みであるという。
誰もが認める不動の地位。ならばそこには、必ず堕落と腐敗が生まれているはずとヴァルアリスは睨んだ。おそらく、寿司というものにそこまでの実力はない。
ヴァルアリスは決して油断をしているつもりはない。ただ、米を握って生の魚を乗せたものがそこまで美味い筈がないと高を括っているだけである。
世間一般的には、それを油断と言う。
「七時から予約した、春だが」
「春様ですね。ようこそいらっしゃいました、こちらへどうぞ」
愛想の良い笑顔を浮かべ、女将が店内へと案内する。春ありすという偽名での予約が通っていることに、ヴァルアリスはほっと胸を撫で下ろした。
何しろWEBから予約をするのは初めてだったのである。というよりも、飲食店の予約をすること自体が初めてである。予約完了メールが届いていることは何度も確認したのだが、万が一という事もある。
戦う事もできずにすごすご帰るという最悪の事態は避けられた。第一の関門、クリアである。
席に着いたヴァルアリスと入れ違いに退店する客が、ご馳走様、と女将に声を掛けた。
ヴァルアリスは内心これをくだらない行為と蔑んだ。店と客の間には既に金銭での契約関係が成立しているのである。対価を支払って供された物に対し、ことさら感謝の意を示す必要はない、というのが彼女の考えであった。
見渡す店内にさほど広さはない。眩しすぎないほどに明るく、居心地の悪さを覚えない程度に静かで、殺風景に見えない程度に質素であった。極力無駄を廃し、食事に集中できる空間を作り出していると言えよう。
「ようこそ、お越しくださいました」
慎ましく挨拶をする水心の大将を、ヴァルアリスはつぶさに観察する。
老兵という印象であった。白い和帽子から僅かに白髪が覗き、同じく白い眉は下がり眉。顔に刻まれた皺は深い。ツケ場に立つその姿は、いかにも小さく頼りなく見えた。
指で突けばそのまま後ろに倒れ込みそうである。
その頼りなさに無能な父の姿が重なり、なんとも言えないむず痒さを感じると共に、勝利の予感は益々強まった。
「お飲み物は如何致しますか」
「茶でいい。それから」
すかさず、本題を切り出す。主導権は与えない。
「寿司を五貫握り、コースを作って欲しい。ネタは任せる」
眼光も鋭く、ヴァルアリスは言い放った。
これがヴァルアリスの策であった。事前の調査で、この店のお任せ握りコースが全十二貫の握りを提供することは知っている。それは、長らく変わりのないこの店の伝統だという。
ヴァルアリスは、その数を半分未満に抑えて新たなコースを構築してみせよと言っているのである。
このように職人の腕を試す行為は失礼と取られても仕方がないが、もしも断られれば別の店を当たるのみ。
「かしこまりました」
大将は快諾した。第二の関門、クリアである。この大将の名は、溝呂木辰。奇しくもこの勝負は、竜をも屠る魔族の姫と、竜の名を持つ寿司職人の戦いとなった。
溝呂木が包丁を手にする。
ふと卓上に視線を落としたヴァルアリスは、そこに置かれているのが最初から二つに割れた箸である事に気がつき、これは評価に値すると感心した。
(しかし、肝心の寿司がお粗末では話にならんぞ。最初の一手で勝負が決まることも十分にあり得る)
手で口元を覆い、密かにほくそ笑んだ、その時であった。
「中トロです」
「何!?」
ヴァルアリスは、思わず声をあげた。
眼前、寿司下駄の上に、サシの入ったピンク色の身。それは控えめな灯りの中で浮かび上がるように輝いていた。
ヴァルアリスの意識が一瞬逸れたその合間に、この寿司を握ったというのか。
否、それよりもこの男は今、中トロと言ったのか。
(初手、中トロだと……!?)
ヴァルアリスは、
この魔法は、ありとあらゆる事象について世界の垣根すら超えて記録を引き出すものである。稀に不要な情報の混入を招くことこそあるものの、誤差の範囲内。
現にヴァルアリスは、中トロがマグロという魚の一部位であること、脂のりが良く人気のネタであること、マグロという魚がたとえ死んでも標的を仕留めるまで泳ぎ続ける恐るべき魚であることなどを知っているのだ。
故に、不審に思うのである。中トロは最初に出すネタとしてはあまりに強烈すぎはしないだろうか?
このまま人気のネタを五つ立て続けに出し、コースを成立させようというのならば、あまりに浅慮。
優れた将を並べたところで、それは優れた部隊とはなりえないのである。
ともあれ。
(この一貫を食べなければ始まらん)
既に煮切り醤油が塗られた寿司は、何も手を加える必要がない。意を決したヴァルアリスは箸でつまみ、そのまま口に運ぶのみである。
「……ッ!」
刀を持ったマグロが鮮やかに駆け抜けた。捉えきれぬ一閃はヴァルアリスの首を断っている。
そのような
何よりも驚いたのは旨味の速度。口に入れた途端、あっという間に中トロの脂がとろけて口いっぱいに広がるのである。
加えて、小ぶりに見えたその身から旨味が溢れて弾け、見た目の何倍にも長く感じられるほど味わいが続く。続いているうちに酢飯の粒とも合わさり、混ざり合った美味の頂点はいつまでも続くようであった。
ヴァルアリスはツンと鼻に抜けるという山葵の辛さを警戒していたが、それも微かに爽やかな風味を齎すに留まっている。
感嘆の溜息をついた。
実に見事な握りであり、思わず頬が緩むのを止める手立ては無かった。
(だ……だが、しかし!)
どう考えてもこの中トロは失策である。初撃としてはあまりに強烈過ぎるのだ。
この後に続くとあっては、いかなるネタも見劣りは必至。
さりとて、旨味で上回るネタを出し続ける事もインフレを引き起こし、不可能。
この寿司職人は予期せぬ難題に焦り、墓穴を掘ったに違いない。
(……寿司、破れたり!)
いよいよ勝利を確信したヴァルアリスに対し、大将・溝呂木辰は不気味に微笑んだ。その手は未だ次の寿司を……握っていない!
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