第10話 中央区銀座の握り寿司(後)
(さあ、次はどう出る。安易に大トロか。それともウニか、イクラか)
ガリを食べて口直しをしてもいいが、あえてそれを避ける。どのタイミングでガリを食べるか、それは客の気分次第なのだ。そんなものを大前提にコースを組み立てるようならばいずれにせよ失格と見なす。
ワクワクしているヴァルアリスの目の前に置かれたのは、小鉢に入った色とりどりの野菜。胡瓜、人参、大根の漬物である。
「すっ、寿司じゃない!」
思わず叫び声を上げたところに、大将が穏やかに応じた。
「こちらは皆様にお出ししております。お寿司は、あと四貫握らせていただきます」
(……しまった!)
ヴァルアリスは己の失策を悟った。寿司を五貫握ってくれとは言ったが、寿司以外のものを出すなとは言っていないのである。前提条件の粗を突かれた!
しかもガリとは違って、小鉢に入れられ目の前に出されては食べないわけにもいかない。しぶしぶ胡瓜の浅漬けを齧ると、それは店内に響き渡るようなパリッという音を響かせた。
「んん!」
その塩加減はまさに絶妙な漬かり具合。人参も大根も野菜の味がしっかりと感じられ、確かな歯応えは食物を噛むという行為の楽しさを再認識させてくれる。
(誤算。寿司屋の漬物がこれ程とは……!)
この漬物は寿司とは全く方向性の違う美味さを提供する事で、中トロの与えた衝撃を残しつつ次なる攻撃への繋ぎ役として機能している。
さらに、気がつけば大将はいつのまにか次の寿司の準備に取り掛かっている。何かに漬け込んでいたネタを取り出し、握りを始めるつもりだ。今度は見逃すわけにはいかない!
ヴァルアリスは
地球の自転速度や地軸の傾きまで精密に考慮しなければ、停滞した空間が高速移動し大破壊を引き起こす。そのため、この魔法はごく僅かな者しか扱えないのである。
恐るべきは
魔法の効果範囲外に居た女将は、突然スローモーションで寿司を握り始めた大将を二度見した。
しかし、声をかけるような出過ぎた真似はしない。何か深い理由があるに違いないと己を納得させた。銀座一等地に構える寿司屋の女将たるもの、大将への全幅の信頼を持たねば務まらないのだ。
一方のヴァルアリスは大将の握りの様子をじっくりと観察する。
溝呂木はお櫃から
ネタに山葵を付け、
その動作はあまりにも速い。時間の流れを遅らせているにも関わらず、一瞬でも気を抜けば見落としてしまいそうであった。それでいて乱暴さは微塵も無く、再度くるりと寿司が回転すれば見事に握りが完成している。
これが、職人の間で"
優れた握り寿司とは、持ち上げても崩れないが口の中ではらりと解ける、という一見矛盾した性質を実現する。溝呂木の握りはまさしくその究極の到達点なのである。
戻り行く時間の流れの中で、寿司下駄の上に新たな握りが載った。
「
ごくりと唾を飲み込み、その制作過程を目の当たりにした握りを食す。
ヴァルアリスは、その小さな身から噛むごとにしっかりと旨味が染み出すのを感じた。一枚一枚は小さな
酢締めの具合も勿論抜かりはなく、酸味と塩味が心地よい。食した後にふわりと漂う華やかな余韻は、寿司酢に僅かに使われた柚子皮によるもの。
「うう……む……!」
唸らざるを得ない出来栄えであった。
ヴァルアリスは今回も無数の失敗を積み重ねているが、最大の過ちは寿司という存在そのものの認識である。
握り一つを完成させるために必要となる技術が、どれほどある事か。飯の炊き方、蒸らし加減。ネタの仕入れの目利き、はては、サクに包丁を入れる角度、掌からネタに伝わる温度まで、全てにおいて妥協は許されない。
それら全てを度重なる反復によって身体に覚え込ませ、更なる高みを追求し続けるのが寿司職人なのだ。
まして"水心"は江戸前寿司の名店。江戸前の寿司といえば、数ある寿司の中でもネタを加工する仕事の技術に重きを置いている。
「米を握って生の魚を載せたもの」などと侮ってかかれば、度肝を抜かれるのは当然の帰結であった!
なんとか平静を取り戻そうとお茶を啜るヴァルアリスに、畳み掛けるように次のネタが襲いかかる!
それは雪のように白く輝く、美しい握りであった。
「
イカ。ヴァルアリスはこのネタについても事前の調査を怠っていない。
十本の腕を持ち、口から黒色の液体"スミ"を噴出して空を飛び、鳥を捕食する。巨大なものは潜水艦なども捕らえて食べる……魔界ではありふれた生物ではある。
寿司ネタとしてのイカは好みが分かれるところであるらしい。いつまでもくちゃくちゃと噛みきれず、山葵の味ばかりが際立つということが多々あるようだ。
(しかしおそらく、この店にあっては)
ヴァルアリスの予感は的中した。隠し包丁を入れられたイカの身はさっくりと噛みきれ、それでいて噛むごとに歯を押し返すような弾力を持つ。
ともすればしつこく口の中へ残りそうなねっとりとした甘み、だがそれをきりりと引き締めているのは、
また、イカの白い身の美しさを際立たせるという意味でも正解である。
「う、ううむ」
またしてもヴァルアリスは唸った。頭の中ではこの寿司を評する言葉を色々と並べ立てようとしているのだが、あまりの旨さに深刻な語彙の低下を招いている。
そうこうしているうちに、大将は奥の焼き場へ引っ込み何やら次の作業に入っている。ヴァルアリスは思わず身を乗り出して覗き込みそうになり、はしたなさに気がついて自粛した。
やがて、茶色いツメが塗られた新たな寿司が姿を現す。
「穴子です」
皮目の香ばしい香りが否応無しに期待を煽る。恐る恐る頬張ると、最高の加減で焼かれた身はふわふわと柔らかく、かつしっかりと脂がのって、口いっぱいに広がるボリューム感がたまらない。
熱で活性化された魚の旨味は、今までの三貫には無かったものである。それは濃厚なツメと合わさっても消え去ることはなく、むしろ互いに競り合い、高い地点で融合を果たしていた。
感無量となっているヴァルアリスは、この後に待ち受ける運命に薄々気がついていた。この店に限り、油断や慢心などあり得ない。
大将の姿を無能な父と重ね合わせてしまったことさえ、今は恥じた。
「これで五貫目。
玉子!
ああ、よりにもよってここで玉子である。
カレーの辛味からヴァルアリスを救い、ラーメンの上でヴァルアリスを魅了したあの玉子が、いま三たびヴァルアリスの前に現れたのである。数奇な運命を感じずにはいられない。
(いや、しかし……ここで玉子、なのか?)
不意に疑問が湧いた。
その玉子からは甘い香りが漂っている。こうした甘い味付けの玉子寿司を最後に出す場合、それはデザートのような扱いであることをヴァルアリスは知っている。
甘いツメの塗られた柔らかな穴子を食べたばかりで、更に甘く柔らかい玉子を出すのはどういうわけだろう。
思わず大将の様子を伺う。表情からは何の感情も読み取ることができないが、その目が僅かに寿司下駄の上を眺めたように感じられた。
(……ああ!)
気がついてしまった。答えはそこにある。寿司下駄の端っこで、花の形に重ね合わせられている。
ガリ。薄切りの生姜の甘酢漬けである。その強い辛味は寿司の口直しとして使われるものの、ヴァルアリスは使用を拒み、そのまま手付かずとなっていた。
ヴァルアリスはしばし黙考する。
ここですぐに玉子を食べれば、コースの流れとしては竜頭蛇尾。彼女の勝ちである。
だが、ガリを食し口の中を一度さっぱりとさせてからならば、きっとこの玉子の味を存分に味わうことができる。勝敗の鍵は今やヴァルアリスの手中にあるのだ。
(ならば、私は……)
ヴァルアリスの心は決まった。
寿司の値段は決して安くはないが、正当な価格であった。
厳選した素材を匠の技で調理したのである。どんな魔法を使っても再現することなど不可能な代物である。例え倍の値段であったとしても、ヴァルアリスは支払いに応じたことだろう。
精算を終えたヴァルアリスは傘を手にふらふらと店の外へ出ようとし、ふと思い立って大将へ声をかけた。
「……何故、あの五貫を?」
尋ねずにはいられなかった。この小柄な老兵は、いかなる判断によって
「コハダ、穴子、玉子といえば江戸前の定番でございます。イカはうちでも人気のネタですので是非ご賞味頂きたいと思いました」
「……最初の中トロは?」
その問いに、年老いた寿司職人はにっこりと微笑み、答えた。
「熟成の具合が最高にいいタイミングでしたので、お出ししました」
ヴァルアリスは目を閉じ、その言葉を深く噛み締めた。
最初から食い違っていたのである。勝負を挑んだつもりが、勇んでその席についていたのは自分一人。
限られた品数の中で最大限に客を喜ばせようと努める"もてなしの心"に自分は敗れた。
故に、ヴァルアリスは寿司の代金として、金銭のみならずもう一つ支払わなければならないものがある。
生まれて初めて口にするその言葉を。
「……ご馳走様でした」
やや早口でそう言い、女将に先んじて引き戸を開く。ヴァルアリスは、まだ降り続いてる霧雨の中を傘もささず小走りに駆け出した。
「また、お越しください」
重なる大将と女将の声は、その背に届いたのかどうか。
知る者は居ない。
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