第1話 杉並区阿佐ヶ谷のメンチカツ
東京都、杉並区は阿佐ヶ谷。
魔界よりこの地に転移を果たした
装いは紺のブレザーにシャツ、チェックのプリーツスカート、そして茶色のローファー。外見年齢に合わせ制服の女子高生姿である。
ヴァルアリスがこのような偽装を行わなければ、相手の魂さえも虜にする
視線を巡らせれば、目に入るのは褪せた灰色のビル、そしてけばけばしい原色の看板。強度と機能性に縛られ、魔族の洗練された建築物とは程遠い。
人々はみな、鞄や携帯端末を手に忙しなく道を行き交っている。
人間は魔力を持たない。故にさまざまな道具を作り出し、知識を積み上げ、今の暮らしに至ったと、ヴァルアリスは知っている。
彼女から見ればそれはあまりに徒労、あまりに無為な生命活動だ。
人間は自身の力では空を飛ぶ事も、素手で巨岩を砕く事も出来ないのだという。あまつさえ大半は百年も生きずに死ぬ。事故に遭って死に、病に倒れて死に、自ら死に、寿命を終えて死ぬ。
このような哀れで脆弱な生命体は一刻も早く滅亡させ、その魂を魔界の
ならば、何故いま彼女は人に紛れて雑踏を歩いているのか。
魔族が異界の魂を贄として焚べる儀式、
それは、滅亡させる世界が確かに存在した証となるものを一つ保管しなければならない、というものだった。
そこらの石ころや草の葉というわけにはいかない。その地に住む生命が作り上げた、文化の成果でなくてはならない。そしてこれが済むまでは一切の破壊、殺傷行為は許されないというルール。
ヴァルアリスはこのルールを無意味なものとして嫌っており、自分が魔族の王に即位したならば即刻撤廃するつもりでいる。
だがしかし、今の彼女はこの作業を全うするのである。たとえ無駄と感じていても、決して不可能なわけではないことを示してからでなくては無くす気にはなれない。彼女は完璧主義なのだった。
目ぼしい物も見つからぬまま、いつしかあたりの風景は地元民が利用する昔ながらの商店街へと変わっている。
ふと、馴染みのない香りがヴァルアリスの鼻孔をくすぐった。
(これは……何だ?)
匂いを辿るうち、両耳はパチパチと何かが弾ける音をも捉える。それは一軒の古びた建物の中から聞こえるようだった。
軒先に、透明なケースに入った大小様々な部位の肉が並んでいる。赤茶けた雨除けには少し掠れた「ミートたけざわ」という文字が読み取れる。いわゆる精肉店であった。
無精髭を生やした店主は、ヴァルアリスと目が合うと、控えめに声をかけた。
「らっしゃい」
どうやらそれが人間の挨拶らしい、とヴァルアリスは察した。魔界にはない奇妙な響き。ともかく、この場は挨拶を返すが自然であろうと判断する。初めて操る言語であろうとも発音に問題はない。
「ラッシャイ」
謎のおうむ返しに店主・武沢富彦は妙な顔をしたが、目下ヴァルアリスの興味は眼前の物体にのみ注がれていた。
その物体からは、不思議に胸をときめかせる香りが漂っていた。
茶色で円形。金属製の長方形のケースに並べられ、ほかほかと湯気を立てている。
近くに貼られたイラストにはその物体を幸せそうな顔で頬張る人間の姿が描かれており、食物であることが察せられた。
魔界に生まれ育ったヴァルアリスが知らぬのも無理はない、それは揚げたてのメンチカツ。先ほど耳に入ったのは高温の揚げ油が跳ねる音だったのだ。
指で指し示すと、武沢富彦は押し殺したような低い声で価格を告げる。
「300円」
人間世界の貨幣制度については知識がある。人類存在の証を手にするために必要となる局面を考慮し、ヴァルアリスは既にその調達を済ませていた。
日本銀行では、紙幣や硬貨が数千円分紛失し、それと引き換えに突然現れた未知の宝石について多数の専門家を巻き込んでの騒動となっていたが、この場で語る必要は無いだろう。
小銭と引き換えにメンチカツを手にしたヴァルアリスは、ごくりと喉を鳴らした。魔界には存在しない見た目の食物。茶色の表面がぱりぱりと尖っている。
(所詮、人の食物。どうということも無かろうが)
歯を立てれば、かりっ、と音が鳴る。香ばしく、どこか甘さを持つ匂いが鼻に抜ける。
その香りに胸を躍らせた次の瞬間、彼女は己の過ちに気がついた。
(うああ熱っフゥウウッ!?)
魔族には熱い食物を食べる習慣が無かった。体温の調節は魔力によって直接行うものであり、食事で暖を取る必要が無かったからである。
故に、ヴァルアリスが揚げたてのメンチカツの熱さを知らず、齧り付く前に吹いて冷ますという発想がなかったのも無理はない。
万事休す。惨めに一度口に入れた食物を吐き出すか。もしくは、火傷を覚悟してそのまま飲み込むかの二者択一!
いずれにせよ、高貴な者の振る舞いとしてはあり得ない失態。それは魔界の頂点たる彼女の敗北を意味するのではないか!
否!
咄嗟に膝を折り、僅かに屈み込む。これにより口中のメンチカツは宙に浮く形になる!
続いて
ヴァルアリスの口中に極小の竜巻が発生した。それはメンチカツを細切れにしながら高速で回転させ、熱を奪う。攻防一体の妙手であった!
店主・武沢富彦はメンチカツを齧るなり突如目を見開いて中腰になった客に面食らったが、元来無愛想な性質のために口は開かなかった。
(人間め。魔力を持たぬ下等生物の分際で……この私を驚かせるとはな)
危機を乗り越え、程よく温度の下がったメンチカツの断片をゆっくりと噛み締め、味わい……ヴァルアリスは、破城槌に頭蓋を叩き割られるような衝撃に襲われた。
「こ……れ、は……?」
ヴァルアリスはよろめいた。
訳の分からない興奮と感動が全身を駆け巡り、膝が震えた。
無理からぬことであった。
ミートたけざわのメンチカツといえば、近隣の住民のみならず、都内でも名の知れた逸品。店主・武沢富彦が偏屈な性格のため雑誌やテレビにこそ登場しないが、個人のブログや各種SNSなどではしばしば絶賛されている。精肉店でありながらメンチカツの方が有名になってしまっているほどである。
使用している玉ねぎは淡路島産。甘みが強く、熱を加えると柔らかくとろけて挽肉と混ざり合う。
無論精肉店らしく、使用している肉も質が良い。豚と牛の合挽き肉は噛みしめるたびにじゅわりと肉汁が溢れ出し、かつ、しっかりとした肉の食感も楽しめるように細切れの牛肉も加えられている。
生姜、ナツメグ、黒胡椒などのスパイスは臭みを消しつつピリリと全体を引き締める。これによりあくまでも後味はさっぱりとしていて、舌にしつこい油っこさを感じさせないのである。
パン粉は近所のパン屋から仕入れる特注の生パン粉を使用しており、日に三度替える油でカラリと揚げれば、さっくりと軽く、甘い香りを持つ最高の衣となる。
ここまでやってしまうと、もはやおかずを越えたご馳走メンチカツ!
このメンチカツに千切りのキャベツと味噌汁など用意すれば、それだけでご飯おかわり必須のハイレベルな食卓が完成してしまう。
一個300円という、下町の商店街では強気な価格設定であるが、実は利益はほとんど無い。
厳選された材料をふんだんに使い過ぎているからである。何故そこまでしてメンチカツを提供するのか?
それは、店主・武沢富彦がある意味狂っていたからだった。彼はメンチカツ狂なのだ。
その狂人の産物がヴァルアリスを襲う!
「あああああ!」
食べ進めるのを止めることができない。不思議な焦りがもう一口、もっと一口と顎を動かし、その香りを、味を、食感を、際限なく求めてしまう。
ミートたけざわのメンチカツはしっかりと下味がついており、ソースやしょうゆをつけなくとも十分に美味い。揚げたてならむしろ余計な調味料は不要、というのが常連客の中では常識である。
買い食いでそのまま食したヴァルアリスは、偶然にも、このメンチカツのポテンシャルを最も活かす食し方で味わってしまっていた!
(何なのだ……何なのだ、これは! あり得ない! 人間程度の食物に、この私が!)
恐るべき体験であった。これ程までに豊かで満ち足りた時間は、魔界には存在しなかった。
齧るたびにコクのある肉のエキスが溢れ、ざくざくと衣が砕け、甘みも塩気も、全てが混ざり合って口の中で踊る。
もはやヴァルアリスは己の使命も立場も何もかも忘れ、無我夢中で貪った。
だが、食事の時間というものは永遠には続かない。食べ物は……食べ終えると無くなるのだ。
「ふ……ふふふ。くっくっくっ」
食事を終えたヴァルアリスは笑っていた。
決して精神の平衡を失ったわけではない。そのギリギリのところで留まっていた。
(……この食物こそ、人の生み出した唯一にして至高の文化存在であることは疑いようもない)
なるほど、それは
だが、食べきった。失神する事もなく食べきってみせた。つまりこの勝負は
新たにもう一つメンチカツを購入し、
(しかる後に、この世界を滅ぼす!)
勝利の笑みを浮かべ、ミートたけざわの店頭ケースを見た。
ヴァルアリスは、見た。信じられないものを、そこに見てしまった。
『チーズメンチ』『しそメンチ』と書かれた値札とともに、形状と色合いのやや異なる揚げたてのメンチカツが並び始めていた。
「バリエーションがァー! あるううぅーッ!」
ヴァルアリスは……恐怖と混乱の叫び声を上げながら、
店主・武沢富彦は突如光に包まれ消滅した客に面食らったが、揚げたてのメンチカツを求める客が列を作り始めたため、気にしない事にした。
誰一人知ることはなかった。
この日、一人の狂人が生み出したメンチカツという刃が魔界の頂点たる
滅亡を免れた世界で、ミートたけざわの店頭には、これからも変わらずにメンチカツが並び続けるのだ。
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