Upflow
それは一見、何の飾りも模様もない、磨き込まれた金属の球に見えた。
一定の距離をとってぐるりと周回してみるが、見た目はどこから見ても完全に同一で、継ぎ目はおろかネジの頭ひとつ見当たらない。
しかも、何億年も前に置かれたものとはとても思えないほど均一な光沢を保っていた。昨日出来上がったばかりの新品と言われても何の疑いもなく信じただろう。あまりにも完璧に磨き上げられているので、静止しているのか、回転しているのかすら遠目ではわからない。
「シータ、レポートを」
『はい、球体の直径は一メートル四センチ、表面温度は三千度、やはり周囲の温度より二千度以上低いですね。TM102を守っている
「よし、いつまでもこうしちゃいられない。接近してみるよ」
『ご注意を』
言われるまでもない。慎重に、ほんのわずかに距離を詰め、相手の反応を探る。
『今の所変化なしです』
よし、と思い切り、少し大胆に距離を詰めてみる。
でも、相変わらず何の変化も見られなかった。
さらに距離を詰め、マニュピレーターが届く位置で一旦静止。マルチセンサーをつけた右腕をゆっくり、ゆっくりと伸ばす。ほとんど表面に
「うわっ!」
本能的に腕を引っ込めたけど、球体からそれ以上の追撃はない。
「攻撃?」
『いえ、どうやら帯電電位差のせいでスパークが飛んだようです。静電気ですよ』
「もう、驚かせないでよ」
誰へともなく愚痴をこぼすと、改めて腕をゆっくりと伸ばす。さっきと同じ位置まで指を伸ばし、静止。反応を待ちながらセンサーを慎重に展開する。
「あれ、回転してる?」
『秒速二分の一回転といった所でしょうか? しかし急速に角速度が落ちていますね。このままであれば二分後には完全に静止します』
「この場合、当然、静止するまで待ったほうがいいよね」
言いながらカッターを装備したもう片方の腕も伸ばす。もしもこの回転がジャイロ効果を保つものであった場合、静止した瞬間大きく球体のバランスがくずれる可能性がある。どこかに飛んでいってしまわないよう、私は両腕を球体を挟むように添えてその瞬間を待った。
『間もなく静止します。カウント五、四、三、二、静止します、ゼロ!』
予想した通り、球体がゆっくりと横倒しになり始めた。私は自転軸の角度を損なわないように慌てて受け止めると、マニュピレーターをゆっくり格納し、耐圧殻に直結されたサンプルケージに球体を収める。
「やった! 回収成功!」
思わず歓喜の叫び声が出る。あまりあっさり確保できたので拍子抜けするほどだ。
『球体の表面温度が急速に変化しています。どうやら回収と同時に
「うそ! まさか、死んじゃった?」
『それは判りません。最初から予定された変化なのかもしれませんが…』
「ともかく、早く戻った方がいいね」
私はサンプルケージの施錠を再確認すると、もはや無用の長物、両肩のマニュピレーターを潔く切り離し、メインスラスタを全力噴射した。
TM102は頭を上にしてフルブースト、弾道軌道でアルディオーネを目指す。
「しっかしこれは…重いなあ」
ずっしりと重たかった大型マニュピレーターをすっぱり投棄、さらにメインスラスタほぼ全開の状態なのに、それでも加速が鈍い。
『球体の重量が想定を超えています。このままでは終端速度が足りません』
「ええ、どういう事?」
『はい、アルディオーネの待機高度に八十キロ以上届きません』
そんな事を言われても、今さら
「船首と船尾、両舷側サブスラスタ、空になった推進剤タンク、破損した
『そこまでの覚悟でしたら外殻パネルも大半が分離できます。この力場が最後まで船を守ってくれる前提であれば耐放射線シールドも。ただし外殻にある外部センサーの大半を失うことになりますから感覚を相当制限されますし、空力が悪くなりますからこの大気濃度では却って不利です』
「それはダメだね。だとすると、加速率をもっと、限界まで上げよう。推進剤を早めに使い切ってメインスラスタとメインタンクも捨てれば…」
『…確かに噴射終了までに得られるデルタVはほぼ同じですが、いざという時、姿勢制御の手段が何もないのは危険です。不測の事態に対応できません』
「大丈夫だよ、多分」
私は覚悟を決めた。事態は切迫している。決断するなら少しでも早いほうがいい。
「じゃあ、いくよ。船首サブスラスタ、パージ!」
ガツンとショックを感じた途端、加速率がわずかに上昇した。これなら行けるかも。手応えを感じた私は両舷側、船尾のスラスタを次々に切り離した。
『加速率、改善しましたがまだ届きません。アルディオーネの約六十キロ下方で頂点に達し、そこから放物線軌道で落下します』
「じゃあ、次、スラスタ用推進剤タンク、パージ」
抱えていた何本もの推進剤タンクがボロボロと落ちていく。さあ、次は懸垂フックだ。
本来はTM102をアルディオーネに吊り下げるための頑丈なフックだが、サルベージ船のワイヤースプールが
「いくよ!」
かけ声と同時に背面飛行に移行すると、極太の爆発ボルトを一本ずつ順に発火させる。わずかな反動すらも推進力に変えるためだ。
最後のボルトを焼き切った瞬間、ゴトンと鈍い音がして重たい懸垂フックの残骸が彼方に吹き飛んでいった。
アルディオーネとのランデブーまでに何か
「どう? 行けそう?」
『残念ながら。まだ届きません』
「じゃあ、今度は推進剤全部使い切るよ~」
私はバルブを全開にして推進剤をメインスラスタにつぎ込んだ。スラスタノズルと推進剤のタンクを一刻も早く捨てるためだ。
「電磁加速率最大、プラズマ温度限界まで上げるよ!」
『カホ、上空に局所的な乱流帯が発生しています。せめて一つくらい姿勢制御の手段を温存すべきです』
「そうしたら今度は高度が届かなくなるでしょ?」
『…はい』
「いいよ。どっちみち失敗したらそこで終わりなんだから。幸運を祈ってて!」
『…』
シータは沈黙した。ああ、やっぱりこれは相当分の悪い賭けなんだなと悟る。
「大丈夫。最悪の場合は耐圧殻も捨てるから。これが一番重いもの」
『カホ、それは!!』
「シータ、その時は私の人格を全てサルベージしてちょうだい。あなたならできるでしょ?」
その瞬間、シータがハッと息を飲んだのが聞こえた気がした。
『…カホ、いつから気付いてました?』
長い沈黙の後、シータは絞り出すようにそう答えた。
ああ、やっぱりそうだったんだ。
「考えてみたら、ヒントはあちこちにあったよ。例えば、陶子さんの事故以来、シータは湊のことを「船長」って呼ぶようになったでしょう?」
『はい』
「その呼び方するの、陶子さんだけだったんだよね」
他にもある。シータが妙に人間くさい受け答えをするようになったのはいつからだったか。確かこれも事故の後からだった気がする。
極めつけが異星船の言った「知性融合」という言葉だ。
ここしばらくシータにうっすら感じていた違和感がそれで一気に腑に落ちた。
「陶子さんは、今もあなたの中にいるの?」
再び長い沈黙の後、もう二度と聞けないと思っていたあの柔らかな声が脳内にこだまする。
『お久しぶり、香帆ちゃん。心配かけてごめんなさい』
「陶子さん!」
ああ、陶子さん。陶子さんだ。
『船長は”手段を問わず二人を守れ”とおっしゃいました』
言い訳のように割り込んでくるシータの声。私もよく覚えている。湊が安曇邸に潜入した時の話だ。
『しかし、あの時点で私がアクセス可能なのは、MMインターフェースに繋がっている陶子さんの脳だけでした。私は船長の指示を広義に解釈し、たとえ肉体が損なわれても、彼女の人格のすべてをアルディオーネのストレージに格納することで彼女を救い得ると判断しました』
「でも、それなら、どうしてすぐに教えてくれなかったの? 私、あんなに泣いたのに」
『私が止めたのよ。人間の精神と肉体を切り離して精神だけをバックアップするなんて事、大騒ぎにならない訳がないもの』
確かにそうだ。
ストレージに格納され、人格だけになったヒトは、本当にヒトと呼べるのか。太陽圏全体を巻き込んだ大論争に発展するだろう。下手したら今回のサルベージ計画全体が大きく狂う可能性があった。
「でも…」
もしも回収可能高度まで上昇できないと判断したら、私はためらいなく耐圧殻を捨てるだろうと思う。その時、私は死ぬのか。それとも…
「私も…」
口をひらきかけたところで、あらかじめセットしておいた甲高いアラーム音が響き渡った。メインスラスタの推進剤が間もなくゼロになる。
「シータ、タンクが空になった瞬間にメインスラスタと推進剤タンク、配管一式をパージするよ」
時間的な余裕はほとんどない。燃料ポンプが推進剤の最後の一滴をスラスタに送り込むのには、それからわずか数秒後しか要しなかった。
『メインスラスタ、パージ!』
ズルリと、まるで内臓をまるごと引っこ抜かれるような不気味な感触と共にエンジンユニット一式が脱落していった。続いて空になったメインタンクが配管に引きずられて抜けていく。
これで艇体に残っているのは、始祖の遺物と耐圧殻、後はほとんど抜け殻になったフレームと外殻だけだ。
「どう?」
『…単純な軌道計算ではギリギリで届きます。ですが、潜航艇上空の乱流が計算結果を大きく発散させています。最悪条件での計算ではアルディオーネの十キロほど下方で下降に転じます』
「そっか」
覚悟はとうに出来ている。でも、みっともなくても最後まであがきたかった。何か方法があるはずだ。
「そう、そうだ! アルディオーネのGドライブで木星重力を相殺できないかな」
『その為には
「うー、駄目か。じゃあ、異星船に頼んでみようか?
“残念だがそれはできない”
外部からのアクセスを封鎖しているはずのデータストリームに突然異星船が割り込んでくる。まったく、何でもありだなこの
“あれは君を落ち着かせるために
「どういうことですか」
“実際には君の機動は無効化されていない。単に我々と君との相対位置と外部環境を保ち、フィールド内で生じる慣性をキャンセルしただけだ”
「うわ~、何でそんなインチキを…期待したのに」
せっかくの思いつきを次々否定されてべっこりへこむ。その間にも、上昇速度はどんどん下がる。
ふと思いついてアルディオーネのステータスを確認してみると、船殻の一部が圧壊し、気密を保てなくなっている事が判明。貨物区画の気圧は既にゼロ、居住区もどうやらヤバそうで、どんどん気圧が下がりつつある。
エンジン周りは今のところ健全だけど、居住区が真空、低温になるとニューロコンピューターの稼働環境が悪化する。いずれ制御系にも影響が出かねない。足りない高度をアルディオーネ側の無理で補うこともどうやら難しそうだ。
『間もなく乱流帯に突入します。揺れますよ』
突然の警告、直後に猛烈な揺れがやって来た。
「うわっ!」
まるでTM102ごと巨大なランドリーマシンに放り込まれたようなめちゃくちゃな揺れに翻弄される。潜航時にはなかった嵐だ。
ふわりと持ち上げられるような感覚が来るかと思うと、次の瞬間には横から殴りつけられるような横揺れが来る。滑空性能を考えて満腹のマンタのように平たく作られた
まてよ。そうだ! つむじ風!
「シータ、この嵐はどっち?」
『どっちとはどういう…』
「渦なの? それとも乱流?」
大赤斑の中に突然発生した局所的な嵐だ。渦を巻いているのか、それとも激しく泡立っているのか、その正体によっては…。
『渦です。
「よしっ! ねえ、私は今どこにいるの? 渦との位置関係を!」
上空のアルディオーネから赤外線・レーダー複合画像がすぐに送り込まれてきた。
どうやら私は大きな熱上昇渦の縁に出来た界面乱流帯に捕まっているらしい。
なんとか渦の中心に向けて舵を切りたい。ただ、抜け殻同然のTM102《わたし》には姿勢制御の手段が残されて…
「…いや、まだあるよ!」
TM102の艇体は航空機並のエアロボディだ。少しでもバランスが崩せれば…
「シータ、上から見てて! 渦の中心に向かいたいの」
揺れに翻弄されながら慎重にタイミングをはかり、右舷翼端の船殻を船底側一ブロックだけパージ。途端にがくりと艇体が傾ぎ、バランスを欠いた状態で急速に針路が変化する。
『その調子です、間もなく渦中心方向』
言われるまでもない。激しい揺れがまるで嘘のようにおさまり、下から持ち上げられるように速度が上がる。このまま
『再計算しました。渦に沿ってそのままゆっくりと上昇すれば、時間はかかりますが当初の到達予定高度より遥かに上まで…』
流れに乗った所で反対側の船殻ブロックもパージ、艇体のバランスを補正して一息つく。
巨大な円柱のようにゆったりと渦を巻く大きな上昇流に飲み込まれた
---To be continued---
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