ウロボロス

 あっけない突然の幕切れから、二週間が過ぎた。

 異星船捕獲プロジェクトの最前線基地として、様々な船舶がひっきりなしに発着し、大勢のスタッフや報道陣で連日お祭りのようにごった返していたトロイス宙港も、すでに辺境の開発基地らしい、元のものさびしさを取り戻していた。

 ウェルカムゲートの外では北中国軍の駆逐艦と空母がその巨体を寄り添わせ、楕力でゆっくりと遠ざかりつつあった。軍艦らしく全身がマットブラックに塗りこめられた船体はすでに闇にまぎれ、肉眼ではサイドスラスターの噴射炎が時おりかすかに瞬くのが見えるだけだった。

「私も、もう行かなきゃ」

 がらんとした無人のコンコースを眺めながら、香帆がひとりごとのようにつぶやく。

「そうか」

 となりで窓の手すりによりかかり、桟橋にぽつりと浮かぶアトランティスをぼんやり眺めていた湊も、ため息まじりに短く答えた。

 もともとトロイス基地に所属していた何隻かを除けば、港に残っている船はもはやアローラムⅡとアトランティスだけだった。

「残念だったよね」

「…そうだな」

 再び短く答えながら湊は思う。恐らく、この先一生忘れられないあの結末とき以来、この会話を一体何度繰り返しただろうか、と。

「惜しかったよね」

「…ああ、惜しかった」

 だが、何度呼びかけられても、それ以外のセリフは出てこなかった。せめてもう少し気のきいた返事を返してあげたいとは思うのだが。

 多分、香帆も同じ気持ちなのだろう。

 ふたりとも、まるで思考がマヒしたかのように、いつも同じ言葉しか出てこないのだ。

「湊は…、これからどうするの?」

 長い沈黙の後、香帆はゆっくりと振り向くと、湊と並んで手すりに両手をのせ、窓の外に視線を移す。

「…数日はここで残務整理だな。その後はアローラムⅡをサンライズ7のドックに回航する予定。例の耐Gカプセルを外して標準のNaRDO仕様に再整備するらしい。そこでマニュアルの作成と引き渡しが済めば、今度こそアローラムⅡこいつとはお別れだ」

「じゃあ、その後は?」

「その後、か」

 湊は無言で考え込んだ。

「なんの予定もないな」

 そのままむっつりと黙り込む湊。

「あのさ、もし、あなたにその気があれば、なんだけど…」

 香帆はおずおずと切りだす。普段のはっきりとした話しぶりが信じられないほどの弱々しい声に、湊は驚いて向き直った。

「よかったら、ESAに来ない?」

 湊の反応をうかがうように、上目遣いでじっと見つめてくる。

「まったくの無審査というわけには行かないかも知れないけど、今回の事で湊は世界的にも注目されているし、私も、まあ役に立つかどうかはともかく推薦くらいはしてあげられるとは思うし…」

 もじもじと両手を組み合わせながら必死に言葉を探す香帆。

「…あなたが望めば、どんな仕事でもまず断られる事はないと思うんだけど…」

 そのまま語尾を濁して黙り込む。

 弱々しい言葉とは対照的に、湊を見つめる瞳には強烈な想いがこもっていた。それは湊にも痛いほど理解できる。だが…

「そして、あと一歩のところで大事な異星船を取り逃がした道化でございって自己紹介するのか?」

「そ、そんな!」

 皮肉のきついセリフに香帆の顔色がさっと気色ばむ。

「あの、私、そんなつもりで言ったんじゃ…」

「わかってるよ」

 言いながらポンと香帆の頭に右手をのせる。

「君を責めてなんていない」

「でも、私…」

 香帆は最後まで言わずに顔を伏せた。肩を震わせ、小さく鼻をすする。泣いているのだろう。

 湊はそんな彼女を前に困り果てたように天を仰ぐ。

 がしがしと頭をかきむしり、おずおずと彼女の肩を軽く包み込むように両手を添えて、一言一言、悩みながら言葉を紡ぐ。

「君の申し出は確かに魅力的だし、実際、俺みたいな半端な男にそこまで気を使ってくれて感謝してる。でも…ごめん」

「どうしてあやまるの?」

「ああ、俺は自分がはぐれ者だって事を自覚している。組織では周りに迷惑をかけすぎて、紹介してくれた君の立場も悪くなる。それは俺が今、もっとも避けたい事態だ」

 香帆は顔を伏せたまま動かない。

 コンコースのスピーカーがアトランティス出港が間近に迫っている事を告げている。話せる時間は、もうほとんど残されていなかった。

「自分でも思う。いい歳してなんて情けない奴なんだろうって。でもな…」

 と、突然がばっと香帆が顔を上げた。

 瞳は溶けそうなほどに潤んでいたが、いつものあの勝気な表情だった。

「…なーんて。ね」

「なっ!」

 突然の豹変ぶりに目を丸くしたまま固まっている湊の肩をぽんぽんと叩き、香帆はゆっくり歩き始めた。

 石化の解けた湊は慌てて後を追い、ずしりと思いバッグを彼女の手からひったくるように受け取る。

「はい、冗談冗談。…あーあ、相変わらず鈍いなあ」

「お、おま、年上をからかうな!」

「えへへ、でも、おかげで、やっとあなたの本音が聞けたような気がする」

「いや、あれは…!」

 言い合っているうちにエアロックに辿り着いてしまう。足踏みしながらイライラと待ち構えていた係員が香帆の差し出したIDカードを素早くスキャナーに通すと、網膜確認用のゴーグルを彼女に差し出した。香帆は無造作にそれを覗き込む。

 すぐに電子チャイムがポンという柔らかい音で識別完了を告げた。

「じゃあ、ここで」

 湊からバッグを受け取った香帆は、それをゆっくりと背負いながらエアロックに二、三歩歩きかけ、ふと立ち止まって振り返った。

「ねえ、私が異星船を捕まえる直前に言いかけていた事、憶えてる?」

「ああ、確か、司令に一つだけ感謝してることがあるって…」

「そう。何だか知りたくない?」

「ああ」

「あの時ね、私、あなたに逢わせてくれたからだって言いたかったんだよ」

「え?」

「それじゃ。今度こそお別れ」

 そう言って香帆は右手をさっと差し出し、反射的に右手を差し出した湊と短い握手を交わしながら、少し寂しげに微笑んだ。

「またどこかで逢えるとうれしいけど、太陽圏はとても広いから…。それじゃ、元気で」

 わずかにうつむいた香帆は、付け加えるように小声で何かをつぶやき、そのままくるりときびすを返してエアロックに入った。

 断続的なアラームと共にパトライトが回り始め、磨かれた分厚いチタンの耐圧ドアがわずかなきしみと共にゆっくりと動き始める。

 背中を向けたままの香帆。だが、その肩はかすかに震えている。

「香帆!」

 気付いた瞬間、湊は思わず叫んでいた。

「太陽圏はそんなに広くなんかない!」

 香帆が振り向く。今度こそ、その瞳から大粒の涙がこぼれ落ちるのがはっきりと見える。

「同じ道を歩いているかぎり! いつか、どこかできっと! 香帆! 俺は…」

 最後まで言いきらないうち、無粋なエアロックは鈍い音をたてて閉じた。

 彼はもっとも大切な一言を伝えられないまま、胸の奥にしまいこんだ。



「あ~、君もつくづく難儀な奴だな」

 ため息と共に振り向いた湊は、背後に神妙な顔をして立っていた辻本の姿に気付いてぎくりと立ちすくんだ。

「ぐっ、ま、さ、か。ずっとそこに居たんですか?」

 かっと顔が火照り、耳まで赤くなるのが自分でも抑えられない。

「いや、ほんの五秒前からだ」

 辻本はしゃあしゃあと答えると、いつもの怪しげな笑みを浮かべて続ける。

「それより、君が香帆をあっさり手放すとは思わなかったよ」

 ニヤリと笑みを浮かべる辻本。

「待って下さいよ。彼女は物じゃありません。それに俺は…」

「ま、そういう事にしといてやるか」

「だから、違うんですって!」

 むきになって弁解しようとする湊だが、辻本はあっさりとそれをかわすと嬉しそうに笑った。

「そ、そんな事より、司令」

 どうしても理屈では勝てない事を悟った湊は慌てて話をはぐらかす。

「なんだ?」

「俺、どうしても判らないんです。あの異星船の事です。どうしてわざわざ捕まった瞬間に消えるような真似をしたんでしょう?」

「ふむ」

「結局、俺達はさんざん振り回されただけで、何ひとつ収穫も上げられなかったし…どう考えても悔しいですよ」

「ああ、あれね」

 辻本はあっさりうなずいた。

「うちも含め各国の解析班が必死になって意味をつかもうとしてるんだが、個人的には、今すぐ説明できる合理的かつ納得できる理由が一つあるよ。聞きたいか?」

「と、言うと?」

「ああ、奴は単に我々をおちょくりに来てたんだよ」

「まさか! 司令じゃあるまいし。そんな馬鹿な!」

 あきれ返り、空いた口がふさがらない湊。

 そんな彼に辻本はいたずらっぽい視線を向けると、芝居がかった仕草で右手の人さし指を立て、ゆっくり湊に向けた。

「いいか、あのふざけた通信文、つかず離れずいかにも誘うような飛び回り方、そして、君の報告書にもあったが、我々の持てる知恵と技術を限界まで引きださせた揚げ句、捕まった瞬間にあっさりと消えるあのやり口」

 伸ばした人差し指の先で湊の鼻の頭をちょんとつつく。

「たちの悪いジョークだと考えるとこれが意外にもしっくり説明できるんだな」

「そんな!」

「決していい加減な思い付きなんかじゃないぞ。それに、だ」

 言葉を切ると、辻本は湊に向けていた人さし指をゆっくりと体に引き寄せ、胸の前でぐっと拳を握り締める。

「我々が得た成果だってちゃんとある!」

 言い切って大きく頷く。

「我々が、この宇宙で決して孤独でない確かなあかしを得る事ができた」

「…よく、わかりませんが?」

「長いことくすぶっていた造船、運用技術が飛躍的に発展する絶好のきっかけをつかむことができた。この先、あの船が残したばく大なデータをきちんと解析、応用できさえすれば、我々人類の有人宇宙船が自力で太陽圏を飛び出す日もそう遠くはないはずだ」

 そう言って辻本は再び大きくうなずく。

「君もさっき叫んでただろ。太陽圏はそう広くないって。太陽圏、いや違うな。今やこの宇宙だってそれほど広いもんでもないんだよ。これでもわくわくしないでいられるかい?」

 そのまま湊の背中をおもいきりどやしつけると、その鼻先にヒョイと小ぶりなジュラルミンケースを突きだした。反射的に受け取ってしまったが、見た目より随分と重量がある。

「あ、そうそう、これも読んどいてくれ。こいつの試験結果レポート」

 まるでついでのようにコアメモリーを湊の胸ポケットに落とし込む。

「君に託しておく。煮るなり焼くなり自由すきにしていい。今回の慰労金代わりだ」

「ちょっと待って下さいよ。俺、これ以上NaRDOに関わるつもりはありませんよ。当分は引きこもるつもりなんですから」

「え~、でも、それじゃ香帆に会えるチャンスがないぞ」

「だから、そういうのじゃないんだって何度も言ってるのに…」

「ま、返事はいつでもいいからとにかくレポートを読んでみてくれ。三角山の人工物なんだが。君ならきっと興味を持つと思うけどな」

 湊の頬がピクリと跳ねる。

「人工物? また厄介なシロモノじゃないでしょうね?」

「いや、この前、香帆がパニックを起こしたゴタゴタで見せられなかったんけどね、ウチにも出ちゃったんだよねぇ」

「え、すいません、もう一度」

 自分の耳が信じられず、思わず聞き返す湊。

「重力制御がらみのガジェットらしい。いじり回したらきっと楽しいおもちゃになる」

「じゅ、重力!?」

 辻本は湊の反応を見て、いかにもうれしそうな笑顔を浮かた。

「実はな、私は今月末でここを去る事になった。だからこいつをここに残していくわけにいかないんだ。すでに記録はすべて抹消した。分析を担当した研究スタッフは全員が自ら望んで忘却処理を受けた。よって、これは最初からなかったものとして処理される」

「え?」

「知っているのは君の他には久美子だけだ。何かあったら相談してくれ。まあ、そっち方面の危険はある程度覚悟しておいてほしい」

 不安げな視線をむける湊に辻本はサバサバとした表情で応える。

「これは、君の手にあって初めて世界の役に立つと信じる。頼む」

 そのまま珍しくキリリと表情を引き締め、深く頭を下げる辻本。その武士もののふのようなたたずまいに思わず気圧される。

「…わかりました。預かります」

 二度と戻れないルビコン川を渡った気がした。いや、渡らされた、か。

「それより、司令はどうされるんです? まさか今回の失態の責任を問われて…」

「いやいや、上の本音はどうだか知らないけどね。表向きの理由はそうじゃない。来年からNaRDOは国連や他の宇宙機関と共同で新たに大規模な輸送船団を運用する事になってね。その立ち上げに関るんだよ」

「輸送船団?」

「そう。最終的には百億の人間と生き残っているすべての野生動物を火星とコロニーに一旦避難させるんだ。けっこう長いことごちゃごちゃもめてたんだけど、ようやく国際間の調整がついたらしいな。世紀をまたぐ人類史上最大の大脱出作戦だよ」

「大脱出?」

「そう。そんなわけで次の国連総会では〈プロジェクト・ノアズアーク〉が百三カ国の共同発議で正式に討議される。汚染された瀕死の地球を段階的に空き家にして再生させる超巨大プロジェクトの一環だ」

「はあ」

「おい、他人事じゃないぞ。アローラムタイプはプロジェクトのオフィシャル装備として今後大量生産される。二年前からずっと採用を働きかけていたんだが、今回の活躍が決め手になったな」

「ええっ! そんなに前からですか…」

「ああ、直接大気圏突入ができる高速輸送船は貴重だからな。君がウチの薫に〈がるでぃおん〉を作ってくれた時からずっと注目していたよ」

「薫さんって、もしかしてジャーナリストの鷹野薫さん!?」

「ああ、あの子も、我々の戦友だ」

 湊は驚きの連続でついに返す言葉を失った。

「そんなわけで君の口座にはこの先長期にわたって結構な額のライセンス料が入る。厄介事に巻き込むせめてもの詫びのつもりだ」

「司令! あなたは、一体何を考えているんです?」

 辻本は無言のままニヤリと笑う。

「君たちには、未来を託したいんだ」

「…未来?」

「じゃあな、良き仲間と良き航海をボン・ヴォヤージュ!」

 それだけを言い残し、そのまま辻本は一度も振り向くことなく歩み去った。



「あなたも思ったより不器用な人なのね」

 腫れぼったいまぶたと赤い目を気にしながら化粧室を出た香帆は、いきなり背後から呼びかけられ、バッグを取り落とさんばかりに驚いた。

「ひ、ひ、日岡さん、どうしてアトランティスに?」

 肩をすくめて慌てて振り向く香帆に日岡は小さくウインクをしてみせる。

「ゆ・う・こ、でしょ。火星のアズプール基地まで便乗させてもらうわね。私、今週からエルフガンド・ユーロ社の推進研に転属になったの。」

「…あの」

「だめよ、香帆ちゃん。いつもの押しの強さはどこに忘れて来ちゃったの? あれじゃあの朴念仁は捕まえられないわよ」

「え?」

「消えちゃった異星船よりはるかに難物よ」

「…って、もしかして優子さん、全部見てたんですか?」

 香帆は見る間に耳まで真っ赤になる。

「偶然、ね」

 言いながら優子は香帆の背中を押すように促しながら一緒に歩きだす。

「本当は二人そろってる所できちんとお礼が言いたかったの。あなた達のおかげでようやく私も過去の呪縛から開放されたような気がしてたから」

「…美和さんの?」

「そう」

 優子は立ち止まると、小さなため息と共にうなずいた。

「誤解しないでね。決して彼女の事を忘れてしまいたいわけじゃないの。でも、あの事故以来、ひどく重荷に感じてた事も事実。だけど、あなた達を見ていてかなり救われたのよ」

「そうですか? 彼もかなり悩んでたみたいですけど」

「でも、もう、決して後ろ向きに、じゃないでしょ。それに、あなた達の会話ってなんだかとっても自然だったし。私もいつかこんな風に普通に、あの子のことを話せるようになるかもしれないって思えてほっとしたわ」

「げ、それってもしかして…」

「アローラムの会話は丸聞こえだったわよ。インカム切り忘れてたでしょ」

 香帆は再び真っ赤になった。

「それに少しうらやましかったわ。あなたと彼、どこから見ても最高のパートナーだったものね」

「そう、だったの、かな?」

 言葉を切ると、香帆は複雑な表情で小さく笑った。

「でも、コンビは解消。結局振られちゃった。多分、もう二度と逢う事なんてないだろうし、湊はやっぱり私よりもまだ美和さんの事が…」

「大丈夫!」

 優子はうつむく香帆の肩に両手をのせて大きく揺すると、その瞳をのぞき込むように呼びかけた。

「まだわからないわよ。あの人、昔からこういう事に関してはホントに気がつくのが遅いもの。ほとんど相手があきらめた頃になって急にその気になったりするんだから。美和の時もそうだったわ。それに…」

「それに?」

「なんだか、またすぐにでも会えそうな予感がするのよね」

 優子はそう言って、不思議そうな顔で見上げる相手に向かってもう一度謎めいたウインクを披露すると、にっこりと魅力的な笑顔を見せた。



 トロイス天文台の主望遠鏡は、複合直径一万二千ミリという超高解像度冷却CCD素子を装備した、太陽系最大を誇るデジタル・光学ハイブリッド望遠鏡だ。

 その主操作室で、柿沼主任研究員はただ一人観測シートに沈み込み、久しぶりに味わうそのゆったりとした座り心地にすっかり満足していた。

 ここしばらくの異星船騒動の間、この操作室もプロジェクトに召し上げられ、異星船を光学追跡する大勢のスタッフが二十四時間体勢で缶詰となった。

そのあおりをくって柿沼は自宅待機を命じられ、一年近くも望遠鏡はおろか天文台エリアに近づくことさえ許されなかったからだ。

 木星の偉大さに魅せられ、最高の観測条件を求めていつの間にかこんな辺境にまで流れて来た柿沼にとって、望遠鏡を奪われるのは死刑を宣告されるよりつらいことだった。

 彼にとって、異星船は木星と自分を遠ざける憎むべき障害以外の何物でもなく、イライラと待ち続けたこの一年あまり、彼は太陽系内をふらふらと飛び回る異星船を半ば本気で恨み、いっそのことこのままぱっと消えてくれないかと何度星に願ったか知れなかった。

 その願いが通じたのかどうなのか、異星船は本当にきれいさっぱりと消えてしまい、プロジェクトスタッフの深い失望と引き換えに、彼は平和な日常を取り戻した。

 コントローラーを起動した柿沼はパスワードを打ち込んで彼に割り当てられた作業領域を呼び出すと、長いこと中断していた観測を再開する前の日課として、鏡筒を木星のある特徴的な一点、大赤斑へと向けるコマンドを実行した。

 リニアアクチュエーターがかすかにうなり、巨大な鏡筒がゆっくりと頭をもたげるのを窓越しに確認した彼は、ふと視線をコンソールに移し、コーヒーの染みだらけになってしまったテーブルと床を認めて眉を曇らせた。

「ちっ! なんだよ、これは」

 どうやらここに貼りついていたスタッフはそうとうにそそっかしい人間だったらしい。

 柿沼は観測機器の稼働を確認し次第、徹底的な大掃除をしようと強く決意した。彼にとってここは偉大なる木星をあがめるための神聖なる神殿であり、たとえわずかな不浄も許されるものではないのだ。

 ほどなく小さく電子音が響き、鏡筒の移動が終わったことを彼に知らせた。

「よし!」

 柿沼はディスプレイに望遠鏡からの可視光画像を呼び出し、ピントを手動で慎重に微調整してから全波長レコーダーを作動させた。アクセスランプが二、三度閃き、タイムカウントが動きだしたのを確認した彼は、ゆっくりと木星に見とれる前にコーヒーを注ぎ足そうとマグを持って立ち上がりかけ、その姿勢のままで凍り付いた。

「おいおい、まさか! やめてくれよ!」

 つぶやく柿沼の両手がまるで痙攣のようにわなわなと震え始める。

 いつの間にか取り落とした低重力マグが床に新たなしみを一つ増やしたが、彼はそれに気付きさえしなかった。彼の視線はディスプレイに釘付けにされ、その両目はまるで眼窩から転げ落ちんばかりに大きく見開かれている。

「司令部か? か、観測部の柿沼だが…辻本司令を呼び出してくれ」

 震える指でインターホンのボタンを押しながら、彼はかすれた声で呼びかけた。

「席を外している? それどころじゃない! すぐに呼び出してくれ。大変なんだ! 緊急事態だ! とにかく、今! すぐ! ここに来てくれ!!」

 彼はそれだけ機関銃のようにまくし立てると、そのままがっくりと肩を落し、崩れるようにシートに沈み込んだ。床に転がったままのマグがつま先にあたってカランと乾いた音をたてたが、彼にはもはやどうでもよかった。

 うつろな目付きでぼんやりと見つめるディスプレイの中では、彼の愛してやまないメタンの分厚い大気をかき分け、次第に全身を現しつつある巨大な人工物の姿が鮮明にとらえられていた。



 地球のそれとはひどくかけ離れた形だが、細くくびれた船腹に、グラマラスにぐっとふくらんだ船尾とおぼしき部分…

 しかも、果てしなく巨大な…



---I'd like to meet you again soon.---


これにて第一部終了です。

引き続き第二部をお楽しみください。

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