沈没

 水深200メートルを超えたところで、私は外部視界の視覚化要素を可視光から超音波に切り替える。

 途端、ほとんど黄昏時たそがれどきの薄暗さだった様子が一変し、あたりには明るいコバルトブルーを基調にしたパステル画のような風景が広がった。

 もちろんこのブルーは、海は青いものという私の先入観と好みが反映しているだけで、実際のエコーデータには色なんてついてない。

 さらに赤外線センサのデータを加えると上方からの明るい日差しが、さらに生物発光と紫外線センサの反転像を加えると、あたりを漂う生き物たちがまるで星のようにきらめく。

「綺麗だなあ」

 思わずため息が漏れる。

『何言ってんだ、もう真っ暗じゃね?』

 潜航艇乗りのくせに暗いところが嫌いな長谷川君はいつものように不機嫌になり、ありったけのLEDサーチライトを点灯して潜航速度をわずかに早める。早くこの暗闇を抜けたくてしょうがないのだ。

「もうッ! いきなりライトをつけるなっていつも頼んでるでしょ!」

 私は文句を言いながら過飽和して真っ白になった視野を慌ててリセットし、可視光域を弱くフィルターして視界を再構築し直す。

『なあ、待機があれだけ長引いた理由、お前知らない?』

 盗み聞きしたブリッジでの会話についてはもちろん話していない。

「さあ、本部解析担当の誰かさんが遅刻したとか、結構つまんない理由だと思うよ」

『お前、腹立たないの?』

「どうして? この程度の迷惑なんてお互い、しょっちゅうかけたりかけられたりしてるじゃない」

 長谷川君は一瞬黙り込み、次の瞬間ため息混じりに、

『お前はのんびりしてていいなあ』

とあきれ声を出した。

 その声に私も小さくため息をつく。もちろん彼には聞こえぬように。

 長谷川君は大学院卒、確か一浪したって聞いたから今年29か、30か?

 どこかの無愛想な誰かさんとほとんど同年代のはずなのに、どうしてここまで違うのだろう。

 一般的にスペースノイドは早熟だと言われる。やはり、わずかなミスで死に至る過酷な環境が早く大人になることを求めるのだろうか。

 ああ。違う、そうじゃない。

 地球に降りてきた時には心から安らげたこのやさしい環境。

 年齢とし相応に甘えさせてもらえて、親切な先輩や同僚に囲まれて、守られて。

 不満なんて感じる理由なんてどこにもないのに…。

(私、この生活に飽き始めている?)

 そのことに気づいてどきりとした。



 思いに沈んでいたせいでインジケーターの点滅に一瞬反応が遅れた。地上からの超音波通信だ。

「はい、TM102、香帆です」

 どうしたんだろう?定時連絡にはまだ早い。

『潜航中止! それ以上潜るな!』

 潜航主任の声が上ずっている。

「はい? では、ただちに浮上を?」

『駄目だ! 上がってくるな! 巻き込まれる!』

 何だ? 何が起きてる? 超音波通信特有の遅延がまどろっこしい。

『そのままの深度を維持、別命あるまで上がってくるな。いや、もし12時間待っても連絡なき場合、自力航行で串本港を目指せ。いいな!』

 通信は唐突に切れた。

 それよりも指示の異常さに愕然とした。

 12時間の潜航くらいは簡単だが、私達の潜航艇には本格的な長距離自航能力なんて備えられていない。

 確かに、潜り始めたばかりの今ならバッテリーの消費はわずかだ。100キロ程度の航行は十分可能かもしれない。だけど、つまりそれは、〈ろっこう〉が私達の支援を放棄するということ?

『おい、香帆! 何が起きてんだ?』

 答えるより前にAIが警報を発した。

「TM101! 今すぐそこから北へ後退! 全速力!」

 叫びながら私もスラスターを全速で機動、キャビテーションノイズにセンサーの読みを邪魔されながら、頭上から迫ってくる巨大な物体を精密走査する。

 改めて確認するまでもなかった。大きくくの字に折れて沈んでくる巨大な鋼鉄の塊。

 中央の特徴的なクレーンの形で誰でも分かる。〈ろっこう〉だった。

 激しい水流とキャビテーションに翻弄され、木の葉のように揺れる艇体を何とか立て直した時、すでに〈ろっこう〉 は手の届かない深海まで沈下していた。


 船内にとり残されたであろう生存者の救助を強硬に主張する長谷川君に、私はAIが視覚化した〈ろっこう〉の走査画像を転送し、ほとんどの水密区画に深刻な損傷があること、加えて私達の艇には救難設備が何も装備されていないことを説明する。

 万に一つ、海底で閉じ込められた乗組員を見つけたとして、超高圧の環境でどうやって要救助者を艇内に収容するというのだろう。そんな圧力下では、コクピットのハッチは緩めることすらできないのに。

 私達がわずかでも助けられる可能性があるとすれば、それは水面に浮いている遭難者であり、それだって時間と共に可能性は下がっていく。

 必死に説明しても、どうしても判ってもらえない。

 イライラと説得を繰り返す私に対し、長谷川君は『お前、冷たいヤツだな』と固い声で言い放った。

 泣きたくなった。

 結局、長谷川君は〈ろっこう〉を追って潜航を続けると宣言した。

 万一生存者を発見した場合にはまず連絡すると、それだけは約束してもらったが、「今、この状況で私たちまでばらばらになることは危険だ」という私の不安に結局応えてはくれなかった。

 それから1時間ほど。

 TM102が事故現場に浮上した時、すでに太陽は西の空に傾き、そろそろ夕闇が迫りつつあった。

 私は先端にサーチライトの付いたアンテナポールを伸ばし、救難信号を発信すると同時に、大音量のスピーカーであたりに呼びかける。

 事故現場を中心にらせん状にコースを取り、浮遊物をかき分けて生存者を探す。だが、誰も脱出する余裕もないほど一気に沈没したのか、自動展開した救命いかだの中はどれも無人のままだった。

 何隻ものいかだをめぐり、その都度がっかりしながら探し回ったあげく、ライフベストだけで真っ暗な波間に漂っていた仲間甲板員を発見したのはほとんど奇跡だった。慌ててハッチを開き外に這い出ると、ボートフックをライフベストに伸ばす。三度失敗し、四度目にようやくベルト部分に引っかかる。外れないように慎重に引き寄せ、筋肉質の体を渾身の力を込めてTM102の上に引き上げる。

「仲間さん! 大丈夫ですか?」

 肩を叩き、大声で呼びかける。

「う、ああ、痛いよ香帆ちゃん」

 すぐに気がついた仲間だったが、体を起こそうとした途端、盛大に咳き込むとその場で嘔吐し、手渡したミネラルウォーターのボトルを口にしてようやく落ち着いた。

「仲間さん、一体何があったんですか?」

 ようやく顔に色味が戻ってきた仲間に、私は勢い込んで聞く。

「わかんないんだよ。防衛軍の、いや、機体が白くて日の丸が付いている正体不明のヘリが二機飛んできて、いきなり魚雷を撃ち込んで来やがった」

「魚雷!本当ですか!」

「ああ、遠目にはウチのSH-100Jにそっくりだったんだが。今から考えると細かいところがちょっと変だったな。偽装か」

「他の人は?」

「ああ…」

 仲間は顔を伏せた。

「ちょうど甲板作業が一段落して昼飯の時間だったんだ。ブリーフィングがてらだったし、ほとんどのヤツが食堂に集まっていただろうな」

 私は唇を噛んだ。センサーで走査した船体には中央部、ちょうど食堂や休憩室のあったあたりにも大きな穴があいていた。

 本当に魚雷でやられたのなら、生存者は絶望的だ。

「仲間さんは?」

「あ、オレはちょうどクレーンフックの修理を始めた所だった。朝方、香帆ちゃんの艇がなかなか下ろせなかっただろ。ストッパーの動きが渋くなってたんだよ」

「…」

 たまたまその瞬間に甲板に立っていたのが幸い、彼は爆発の勢いではね飛ばされるように海に落ちたという。

「あとは覚えていねえ。香帆ちゃんにはたかれるまで完全に気を失ってたな」

「そうですか…」

 私はしゅんとうなだれた。

「とりあえず、筏に移りましょう。私の艇には二人は無理なので」

 と、途中で確保して曳航していた空の筏に仲間を移らせる。

「長谷川君から連絡があるはずなんです。彼が浮いてくるのを待って、串本まで引いていきます」

 仲間は小さく頷いた。

「あの、連絡のために一旦中に戻らないと行けないので、すいませんが…」

 もう一本ミネラルウォーターのボトルを手渡しながら恐縮してそう言うと、仲間は初めてくしゃっと顔を崩して笑った。

「いいよ、とりあえず飯と水があれば大丈夫だ。オレは疲れたから中で寝てるよ」

 その背後では、少しだけ欠けた大きな月が水平線から顔を出し、まるで光の帯のように、滑らかな海面を照らし始めていた。



 長谷川君が浮上して来たのは深夜、午前0時を過ぎた頃。月が中天にかかりはじめる頃だった。

 同じ頃までに、私も何度も本部と連絡を取ろうと試みたのだけど、何にしても〈ろっこう〉を中継する通信システムだったことが災いして、通信機の出力自体が圧倒的に足りない。

 それならばと私物の端末を取り出してみたものの、今度は陸地から距離がありすぎるのか、アンテナ表示は一本も立たなかった。

 救難信号は発信されているみたいだけど、さすがに日没後に救難機は飛ばないらしい。ならばと海保の巡視艇を期待してサーチライトを点灯したままずっと夜の海を見つめていたが、それも今のところ望み薄のようだ。

 そんなことをポツポツと長谷川君に説明する。

 でも、彼はむっつりと不機嫌に黙り込んだまま、何を聞いても「ああ」とか「おお」としか答えない。

 よっぽど話をしたくないのか、それとも疲れているのか。多分両方だろうなと思いながら、とりあえず仲間さんをコクピットに収容することだけは同意してもらった。

 猛烈に渋い顔をされたが、もともとTM101は二人乗りだ。そんな顔される筋合いはないと思う。

「いやあ、悪いなあ」

 中に収容する話をすると、仲間さんはさすがに少し嬉しそうな顔をした。

「いえ、最初はいかだを引いていこうと思ったんですけど、浮上したままだとほとんどスピードが出せないんです。時間がかかるとお互いしんどいので」

 私がそう説明する間にも、長谷川君はそっぽを向いたまま話に加わろうともしなかった。

「お願いだから、仲間さんの前でその態度はやめてね」

 仲間さんが先に乗りこんだところで小声で呼び止め、念のため釘を刺す。

 長谷川君は口をへの字に歪ませると無言のまま背中を向けて、一言。

「香帆、お前、俺を軽蔑してるだろ」

「え?」

 一瞬、何を言われたのかわからず困惑する。

「役立たずで悪かったな」

 その間に長谷川君はさっさとコクピットに消えた。あっけにとられている間にハッチがガチャリと閉じる。

 そんなこと一言も言ってない。

 なんでそうなるの?



 TM102のコクピットに戻り、追従モードでTM101の航跡を追うように設定した。

 自分で操縦しないので、途端にひまになる。

 おかげで、私はなぜ突然あんなことを言われたのか、いつまでもぐるぐると考えていた。

 長谷川君は、確かにちょっと神経質なところがある。でも、今回の件があるまで、それほど仲が悪いわけでもなかった。

 お互い若手のテストパイロットとして、それなりに仲良くやってたつもりだった。

 だけど。

 私は思う。

 自分が自覚なく図々しく、しかもかなり鈍い人間らしいことは昔、同じくらい鈍感なある人に指摘されたことがある。

「知らないうちに彼をを傷つけるようなことをやっちゃったんだろうなー」

 頭を抱える。それしかない。

 なんとなく心当たりはある。

 多分、この航海の少し前から私が感じているあの漠然とした焦燥感がいけないのだ。

 今がとんでもなく満たされているくせに、心の中でどうしても埋めることができない渇望。

 職場でディスプレイを見つめていても、プールの中で無心になるまで泳いでも、こうして潜水艇のコクピットに座っていても、頭の片隅にはいつもあの瞬間、異星船を捕まえた瞬間の高ぶりと、その後の別れへの郷愁めいた思いが居座っていた。

 一度は完全に忘れたと思っていたのに、月曜の取材で中野さんが私の心に新たな火だねを放り込んでいったのもいけないのだ。

 たぶんあれ、確信犯だ。

 はっきり分かった。

 私はもう一度、あの場所、トロイスに戻りたくてしかたないんだ。無意識のうちに、あらゆる物を後に置いていこうとしている。

 長谷川君はきっとそれを敏感に感じたのだ。

 でも、なぜ?

 私は気分を変えようと、可視光センサーで大空を“見上げ”る。

 そろそろ日の出も近いのか、空全体がうっすらと白みはじめ、さっきまで頭上に輝いていた月はもう西の地平線に近づいている。 反対に東の地平線がふじ色に色づき始めて、ピンク色のほうきで掃いたような雲がふんわりと浮かんでいてさわやかだ。

「ん?」

 私はそんな雲の切れ間に黒いごま粒のような影を見つけた。

「おお、やっと救助が来た!」

 機影はまっすぐこちらに近づいてくる。間違いなく目標は私たちだ。

「TM102からTM101、東から機影が近づいてきます。救助ヘリでじゃないしょうか?」

 ついでに可視光のズーム画像を添付して送る。

 だが、一拍遅れで101から帰ってきた切迫した声は、せっかくの安堵感を一瞬で引き破る。

『急速潜航! 散開して逃げろ! あれは敵だ!』



---To be continued---

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