ヴィーナス・ダイバー

「システムチェック、オールグリーン。いつでも行けます」

 私はそう報告すると、どう見ても本物と見分けのつかない仮想耐圧殻に座ったまま次の指示を待つ。

『間もなく予定の降下開始地点上空。各スタッフそのままで待機』

 間を置かず、レーザー通信特有のモコモコした声がヘッドセットから響く。湊だ。

 MMインターフェース経由ではなく、通常の通信手段を使っているのは、アルディオーネのコクピット内に実体化しているほかのスタッフに気を遣っているからだろう。

 言うまでもなく、潜航艇とアルディオーネは私には理解できない異星のテクノロジーで常時リアルタイムにリンクしている。

 それ以外のスタッフは、私と湊、そしてサンライズコロニーから離れられない陶子さんを除く全員が、金星上空およそ三百キロ上空を4日で南北に回る巨大な極軌道周回プラットフォームに滞在し、広帯域レーザーリンクでアルディオーネと仮想的につながっている。

 ちなみに、アルディオーネが現在停泊している金星周回プラットフォームは金星開発の中核施設で、金星の宇宙港施設すべてがこのプラットフォーム上にある。

 ここより先にあるのはほぼ四日に一度軌道が交差する無人のVOD金星周回飛行船が二基。

 そのさらに先、金星の表面には恒久的な施設はなく、地上で動いているのは今のところ極限作業ロボットだけだ。

 というわけで、ここは文字通り有人金星開発の最前線にあたる。



 二十一世紀に入ってから精力的に行われたこれまでの探査で、金星の地下にも地球並みの金属資源が眠っていることはわかっている。

 しかし、人類の滞在を許さない高温、高圧の過酷な環境に加え、金星には地球のような高品位の鉱脈がほとんど存在しない。

 地球とほぼ同じ高重力の底からわざわざ軌道上に持ち上げるには、極めて純度が高いか、よっぽど希少で高価な資源以外はコスト的にあわない。ありふれた鉱物なら今は火星近傍の小惑星からいくらでも調達できるからだ。

 というわけで、金星の資源利用はほとんど進んでいない。

 いまだにほとんどが学術利用、つまり調査・研究が中心で、周回プラットフォームにしたって、大きさの割には前世紀の南極観測基地のような、極めて質素なプレハブ作りだった。

 辻本司令いわく、「周回ステーションの狭いオペレーションルームで煤けた壁を眺めているより居心地がよい」らしく、金星滞在中のプロジェクトスタッフほぼ全員が、アルディオーネのバーチャルコクピットに“バーチャル状態で”勢ぞろいしている。

 仮想環境もこんな時には便利だ。押しかけた全員を収容するため、いつもコンパクトな三人乗りに設定されているコクピットは、今日に限っては大型巡洋艦の艦橋並に拡張され、すがすがしいほど広々としている。

 一方で、私の肉体があるのは周回プラットフォームでも潜航艇の耐圧殻の中でもなく、アルディオーネの、あのプラネタリウムみたいな狭いコクピットだ。隣のシートに横たわって同じように フル規格MMIにリンクしている湊の肉体との物理的な距離はたぶん一メートルもないと思う。

 潜航艇の耐圧殻内にいるのとまったく同じ感覚情報がMMI経由で私の脳内に直接流れ込んでいるおかげで、私の本体はアルディオーネのシートに寝そべったまま、安全に金星に降りていくことができるという仕組みだ。

『安心するなよ。限界を超えた感覚情報は香帆の脳にダメージを与えかねない。一応はそうなる前にリミッターが作動する事になってるけど、それだってどこまで確実か分かんないから』

 湊が釘を刺してくる。

 今回も例によって辻本司令のごり押し、ベータテスト中の全感覚データリンクシステムの人体実験も兼ねていて、一抹の不安があるとすればそのあたりだ。

 計画では、私と湊の乗り込んだアルディオーネはスタッフの滞在する周回プラットフォームよりさらに下、強風の吹きすさぶ地表40キロメートルに降下し、そこでお腹に抱え込んだ潜航艇〈TM102改〉が切り離される。

 電脳的な“私”の乗り込んだ潜航艇はそこからスーパーローテーションの風に乗って滑空し、金星の地表に軟着陸する。

 その後、地表におおよそ七十二時間滞在した後、金星を一周して迎えに来たアルディオーネに再収容される計画だ。

 肉体的にはまったく動かず、私の〈意識〉だけが潜航艇と共に金星にダイブするのだ。

「まるで幽体離脱ですね」

「まあな」

 今回の計画を聞いて私の抱いたイメージはおおむね当を得ていたようで、辻本司令は珍しく真顔で大きく頷いた。

「センサーの数値をどこまで忠実に感覚フィードバックするか、その辺の塩梅あんばいは試行錯誤だ。さすがに摂氏四百六十度や九十気圧をそのままフィードバックできるわけないし、その辺の調整は中津君のチームが中心にやる事になっている。違和感があったらすぐに報告して欲しい」

「はい」

 司令らしくない細かい注意に、私はクスリと笑いながら、でも素直に頷く。木星潜航艇のパイロットはようやく射止めた私の居場所だ。変に揉めてESAや神戸の時みたいに一方的に追い出されたくはない。

 この前まで、地球で私が搭乗していた〈TM102〉の感覚フィードバックは視聴覚にのみ特化していた。

 でも、今回は環境センサーの種類と密度が格段にアップしたので、五感のすべてにセンサーフィードバックがかかるようになった。

 音や風景だけではなく、暑さ寒さ、艇体にかかる圧力や周りの臭いもすべて感じられるようになっている。感覚的には生身の私がむき出しのまま、〈TM102改〉になりきって金星の空を飛ぶのだ。

 それだけじゃない。生身の人間には絶対に感知不可能な電磁波、超低周波や超音波も感知する。データ量だけで言うと人の五感の数倍に達すると聞く。

 運良くワイドバンドMMIに適合し、神戸で何年も感覚フィードバックの運用テストを重ねた私でさえ慣熟訓練に二か月近くかかった。今でも長時間のフル運用を続けると頭が猛烈に痛くなる。私以外のメンバーは言うまでもない。一番粘ったのが湊だったけど、それでも十二時間が限度だった。

 それ以外にも、TMの改造ポイントはうなるほどある。

 もちろん事前のテストならば何度も繰り返した。でも、ここからは誰も体験したことのない世界だ。何が起こるか、誰にもわからない。



『アルディオーネ、準備よろしいか?』

 そんなことをぼんやり考えている所に、管制官の声が割り込んで来た。いよいよ出港だ。

『…アルディオーネ、出港を許可します。ウインドウはマークより三分間。マーク』

『アルディオーネ、テイクオフ』

 応える湊の硬い声と共に、わずかな減速Gが体を揺すり、ふわりと沈み込むような感覚がそれに続く。

『ラッチリリース確認、アルディオーネ離岸。降下率秒速千二百メートル、雲を抜けるまでは操縦に専念します』

 うん、やっぱり。

 自分がダイブするわけでもないのに、湊は相当に緊張している。

『全感覚データリンクスタンバイ。硫酸雲を抜けたら行くぞ』

「了解」

 私は両手をぐっと握りしめ、軽く目を閉じる。

『高度二百キロ、そろそろ気流の影響が出てくるはずだ。揺れるぞ』

 湊がささやくように言う。

『あー、中津です。確認ですが、感覚フィードバックは予定通り高度四十キロからの展開でいいですか?』

「はい…いいえ、できればもう少し早めにお願いできますか?」

『香帆!』

 MMI越しに湊のとがめる様な声が響く。だけど、私には別の狙いがあった。

「硫酸雲の影響を皮膚感覚のリファレンスにしたいんです。地球上で朝霧に包まれたくらいの感じで」

『なるほど。でも、かなり強い酸性雲です。皮膚にいくらかチクチク感あると思いますが、いいですか?』

 中津氏が確かめるように聞いてくる。

「我慢できない時は言いますから」

『了解しました。じゃあ、行きますよ!』

 次の瞬間、私は生まれたままの姿で金星の空をスカイダイブしていた。



「うっ!」

 声にならない声が出た。思わず息をのむ。

 湿気を含んだなま温かい風が耳元でびゅうびゅうと音を立て、ショートの髪をかき回し、大の字に広げた両手両足に絡みつくように上へと吹き去って行く。

 温泉地のような硫黄の香りが鼻を刺激し、全身にむずがゆいようなピリピリとした刺激が走る。

 眼下には、茶色い毛布のような雲に覆われた輝く球体が圧倒的な大きさで迫りつつあった。

『…帆、香帆! 大丈夫か?』

 ずいぶん長い時間、私はその感覚に翻弄されていた。

 湊の声が遠くから響き、私は自分が報告をすっかり忘れていたことを思い出す。

「す、すいません! ちょっと圧倒されちゃって」

『どうだ、問題は?』

「問題ありません。感覚フィードバックも違和感ありません。あんまり自然すぎて、びっくりしました」

『中津です。皮膚感覚のレベルはこのくらいで問題ありませんか?』

「あ、はい、ちょっとむずがゆいかな」

『そうですか…痛覚を抑えた方がいいのかな。では、これでどうです?』

 皮膚感覚が書き換えられ、なんだかひりひりするような感じに変わる。

「あー、これはちょっと苦手かも。レベルは弱いですけど、さっきの方がまだ馴染めます」

 私の返事に、フィードバックがさっと元に戻る。まるで産毛をなでられているようなサワサワした感覚。それほど嫌悪感もない。

「これなら大丈夫。雲の中に突入してもこれなら我慢できそうです」

『了解。しばらくこれで様子見ましょう』

 私は小さく頷くと、両手両足を一杯に広げて風に乗る。

 吹き付ける風は気まぐれにあちこち向きを変え、そのたびに体が大きく揺すられる。

 でも、まるで抱きかかえられたような感覚に包まれて、不思議に不安は感じなかった。背中に感じるアルディオーネみなとの体温が頼もしい。

『高度百キロ。硫酸雲突入。パージスタンバイ。四十秒で目標高度だ』

「〈TM102〉了解。安定翼展開準備」

 私は脳裏に表示された高度表示に意識を集中し、その瞬間を待つ。

『五秒前、四、三、二…パージ!』

 背中に感じていた温もりが消え、風の音が急に大きくなる。

安定翼ウイング展開、降下率を抑えます。今、毎秒五百、さらに減速!」

 大気をはらんだ安定翼が艇体の落下を緩やかにした。一方で強い風の影響をまともに受けてTMは木の葉のように激しく揺れる。

「降下率安定しました。毎秒二百、でも…」

 もみくちゃにされながら、激しい稲光がひらめく分厚い硫酸の雲をかき分ける。

 と、一瞬目の前が真っ白になり。全身がびりびりと痺れた。エマージェンシーランプとアラームが鳴り響き、すぐに止む。

 予想してはいたけど、いきなり来ると結構しびれる。

『TM102、大丈夫か? こちらで異常信号を受信した』

 湊の心配そうな声が聞こえる。

「大丈夫。艇体に落雷です。自己点検シーケンス作動。機能に問題はありません」

 その後も落雷は何度かあったけど、AIの遮断処理がスピードアップしたおかげでそれ以上アラームが鳴ることはなかった。

「間もなく雲を抜けます! ああ!」

 報告の途中で不意に視界がすっきりと開けた。

 思ったより地表はずっと明るかった。

 可視光だけでなく赤外線も可視化しているので、地面がぼーっとオレンジ色に発光して見える。

「風はおさまりました。安定翼最大展開、降下率毎秒五十メートル、これより滑空に移ります」

『アルディオーネ、湊、了解、無理すんなよ』

 私はそれ以上の報告を中断し、しばらく金星の地表を観察することに夢中になった。

 地球よりもはるかに地形は平坦だけど、大気は黄色っぽいもやのようなものでかなり霞んでいる。

「あんまり見通しよくないなあ」

 つぶやきながら視覚センシングを赤方に変移させ、マイクロ波で風景を“視る”。もやを透かして遙か向こうの地平線が丸く、くっきりと見えた。

「おお、見える」

 ふと思い立って西の空を見ると、分厚い雲の浮こうにキラリと光るアルディオーネの姿が次第に遠ざかり、今にも地平線に接しようとしていた。湊はこのまま金星を周回し、三日と少し後、もう一度私を迎えに来る。それまで、私はこの灼熱の世界に一人っきりだ。

「ふうっ」

 私は小さくため息をつき、首を大きく振って気を取り直すと、口述報告を再開した。

「引き続きマイクロ波領域で地表観測中です。現在アフロディーテ大陸の東端を通過。風はほとんどありません。上空のお祭り騒ぎがウソみたいです。間もなく、マーカム・クレーターをフライパスします」

 地上の様子は、シミュレーター訓練で見飽きるほど見たCGの画像とほとんど変わらない。

 このマーカム・クレーターは赤道のほぼ真下、金星最大の大陸であるアフロディーテ大陸の東端から少し西寄りにあり、目印の一つとして設定されていた。

 クレーターの名前の由来である、なんとか・マーカムさんは女性パイロットで、二〇世紀の半ばに差し掛かる頃、単独飛行で大西洋の西回り横断に成功した最初の女性らしい。

 そして今。マーカム・クレーターの上を私も西に向かって飛んでいる。

 そんな偶然に、前世紀の女流冒険家に何となく親近感を覚えながら私はさらに高度を下げた。



---To be continued---

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