極秘作戦

 打ち合せはそこで一旦打ち切られた。

 湊は辻本と共にアローラムの破損状態をくわしく検証するため会議室を離れ、その場には香帆と日岡だけが残された。

「あ、あの…」

「はい? ああ、徳留さん、だったかしら?」

 日岡はデータパッドの画面から香帆に目を移し、わずかに目を細めながら答えると、相手の表情に気付いてさらに説明を付け加えた。

「あら、ごめんなさい。ちょっと近視気味なの。すっかり癖になっちゃって。さっさと治療すればいいんだけど、なかなか時間がとれなくて」

「あ、いえ。香帆かほって呼んで下さい」

「香帆ちゃんね。私は優子よ。改めてよろしく」

 そう言うとにっこりほほえんだ。

「香帆ちゃんってもしかして、去年、ネットで星間ラリーをシミュレートした“KAHO”かしら?」

「え? はい、そうです。本人です」

「それで納得したわ」

 優子は納得したようにうなずいた。

「ここに呼ばれるにはちょっと若いわねって思ってたんだけど。あのレースは私達の会社でも一時期評判になったわよ」

 言いながら香帆を柔らかい表情で見つめる。

「実際にうちの部でもプライベートで参加したエンジニアがいたの。優勝争いには残れなかったけど、とてもよくできたシステムアーキテクチャだったって感心してたわ」

 香帆はなんだかこそばゆさを感じながら頭を下げる。

「や、どうもありがとうございます」

「やだ、どうしたの? そんなに緊張しなくていいのに」

 優子が白い歯をみせた。その魅力的な笑顔を見つめながら、一体どう切りだしたものか、香帆はしばらく迷った。

「あの、日岡さん」

「ゆ・う・こ」

 優子は一言ずつ区切りながら発音し、右手の人さし指を立てて小さく振った。

「当分一緒に仕事するんだから変に遠慮しないでね。私もそうするから」

「あ、はい」

「それより、私に何か?」

「はい…実は、さっきの湊先輩の反応が気になって。優子さんは先輩と面識があるんですね?」

「ああ、そのことね」

 優子は小さくため息をつくとデータパッドを伏せ、しばらく考え込むように沈黙した。

「彼は以前、私と同じ会社の設計技術者エンジニアだったの」

「やっぱり」

「そう。彼はちょっと…いえ、かなり変わってたけど、それを上回るほど有能な人だった事は確か。特殊船舶班ではよく組んで仕事したわ」

 言葉を切ると再び大きなため息をついた。

「最後に彼と組んだのが新型エンジンの実証船だった。あの時は結局失敗したけれど」

「もしかして爆発事故を起こしたっていう」

「知ってるのね」

 優子は目を伏せた。

「あれは初めて私がリーダーを務めたチームが一から設計したエンジンだったの」

 そこで一旦口をつぐみ、小さくため息をつく。

「もし理論どおりの性能が得られるなら、燃料消費をそれまでの二分の一に抑えて、しかも出力は六割増しという夢の革新技術だった…」

 優子はデータパッドから手を離し、机の上で、まるで緊張をまぎらわすように両手を握りしめたり開いたりしはじめた。

「でも、量産試作フェイズに移行するための最終チェック、月面低重力負荷試験の最中だったわ」

 優子は顔を上げ、どこか遠くを見るような目つきになった。

「…燃料ポンプに外部の業者が後付けした測定用機器が異常な共振を起こして、タービンブレードが折損した…。事前のコンピューターシミュレートでも発見できなかった。本当に偶然の事故だったのよ」

 口をはさむこともできず、香帆は黙って唇をかんだ。

「エンジンは暴発。船は一気にバランスを崩して月面に不時着したわ。乗っていたパイロット二人が亡くなって、開発は即時中止」

「……」

「でも、彼は一言も私を責めなかった。なのに、何も言わずにいつの間にか会社から姿を消したの」

 言葉を切って小さくため息をつく。

「ずいぶん探したけど、消息はつかめなかった。それなのに…」

 眉を寄せ、複雑な笑みを浮かべて肩をすくめる。

「…まさか、今頃になってこんなかたちで再会するなんてね」

「あの…ごめんなさ…」

 口を挟もうとする香帆に、優子は首を振った。

「気にしないで。多分、あなたは知っていてくれたほうがいいと思う」

「はあ。それは…」

「今度積むエンジンはあの時の改良型よ。私にとってはリベンジだけど、彼がアローラムにこのエンジンを積むことを素直にOKするとは思えない」

「どうしてですか?」

「だってアローラムはあの時の実証船そのものだし、あの子の…」

 そのまま口をつぐむ優子。

 そのまま、長いため息をついてふたたび顔を伏せた。

 優子の告白を聞きながら、香帆は自分まで胃が痛くなりそうだった。忘れたいつらい事件を共有している湊と優子を、数多い技術者の中からわざわざ選び出してこんな形で再会させる必要が本当にあるのか?

 今回の事態がそれほどのものなのだろうか?

 香帆は、辻本の考えがわからなくなった。



「アローラムは運がよかった。隕石との相対接触スピードがかなり速かったから、船殻はまるで刃物で切断したみたいにすっぱり切断されているんだ。余計なクラックもない。ちょうどモジュールの境目だったこともラッキーだった。残ったフレームにもほとんど残留ひずみが出ていなかったよ」

 翌々日の深夜、トロイスの食堂で遅すぎる夕食を取りながら、湊は妙に上機嫌な口調でそう解説した。

 あの後、再開された打ち合わせの席上で、辻本はアローラムの改修スケジュールをおよそ十日間と宣言した。小惑星にもぎ取られたものも含め、すべてのエンジンを優子が持ち込んだ最新型に換装し、航続距離を少しでも延ばすために貨物区画をすべてつぶして燃料を積み込む事になった。

 コクピットも大幅に改修し、同時に不調の航法システムも丸ごと取り換えると彼はぶちあげた。

 各作業は平行して進め、さらに基地の全職員総出、なんと四交代の突貫作業が行われるという。

 だが、エンジン交換の話が出たとき、湊はなぜか何も異議を唱えなかった。てっきりまた怒りだすのかと首をすくめた香帆を、妙に暗い瞳で見つめ返しただけだった。

「基本的に船の形はいじらないから、俺の方の作業はもうほとんど終りだよ」

 言いながらフォークを置く。見れば料理の大部分には手が付けられていないまま。トロイスまでの航海中、これほど小食な湊を香帆は見たことがなかった。

「新しい船殻モジュールはすでにここの窯元で成型が終わってる。焼成が明日の朝、徐冷と窯出しが午後だから、あさってにはそいつを取り付けて、増槽のフックとパイピング、通信系のプロテクトを追加すれば船体の方はほとんど完成だ。艤装にちょっと時間がかかりそうだけど」

「窯元で? 焼く?」

「ああ、維持部の超高圧トンネル窯」

「どうして?」

「香帆、おまえそんな事も知らないのか?」

 湊はいぶかしんだ。この日本独自の船殻材料は、船舶設計科に入学した学生全員が聞かされる最初の講義のはずなのだが。

「あ、学期途中の編入だから、最初の方はちょっとよく分からないんで…」

 香帆のいいわけに湊はわずかに眉をしかめるが、結局そのまま説明を続ける。

「まあいい。日本の船はほとんどハイセラミック船殻だからな。NASAやESAの連中はティーカップだなんて言ってばかにしてるけど、アローラムの船殻は本場アリタ出身のトップエンジニア謹製だぞ。それどころか、親方なんか面白がって、余った材料で本当にティーカップを焼いてる。ほら、これもそうだ」

 言いながら目の前の低重力マグを指で弾く。だが、澄んだ金属音が響くかと思われたそれは、意外にもぽこりという鈍い音を立てただけだった。

「そ、そんな事より先輩…」

「実際、ここの全施設を今回の計画に振り向けるんだってよ。最初はまた司令の冗談かと思ってたんだけど、NaRDOもけっこう本気だよな」

「先輩!」

 香帆ははしゃぐ湊の目をじっと見つめた。

「無理してるでしょ」

「別に」

 すっと目をそらした湊は、テーブルに投げ出したデータパッドに表示されたままの改修進行表を凝視する。

「優子さんに聞いたわ。三年前の事故の事」

「そうか」

「気にしてるの?」

「…いや」

 しばらくの無言の後、湊は答えた。

「じゃあなぜ、彼女に何も言ってあげないの?」

 湊は口を開かないまま、視線を香帆の背後に移した。

「彼女も謝りたいって言ってたわ。お願いだからチャンスを与えてあげて」

「彼女が謝ることなんか何もない。あれは偶発事故だ」

「じゃあ、どうして?」

 湊は小さくため息をついた。視線は香帆の背後に向けたまま。

「死んだパイロットの一人、美和は小学生時代からの日岡の幼なじみだった。二人は俺よりずっと古い付き合いだったよ。謝らなくてはいけないのはむしろ、俺の方だ」

「うそ! え? だって…」

 湊はそれ以上は答えずに慌ただしく立ち上がると、データパッドを片手に食堂を飛び出していった。香帆はそれ以上何も言えないまま、その場に取り残された。



「やーっぱりまだ無理かな?」

 不意に背後から声をかけられ驚いて振り向くと、辻本がキャベツ山盛りの豚カツ定食を持ってのほほんと立っていた。

「ああ、司令。いきなり背中から話しかけないで下さい!」

「それよりそこ、いいか?」

 言いながら無精髭の目立つあごで湊の去った香帆の向かいの席を指す。

「や、すまんね」

 どっこいしょとじじ臭いかけ声をかけながら腰かけると、辻本はみそ汁のパックから立ち昇る湯気を吸い込んで幸せそうにうなずいている。

「司令!」

「何?」

「先輩と優子さんの事です」

「ああ、面白い組み合わせだろ」

「司令、知っててやってるんですよね? あの二人の事」

「もちろん」

 口一杯にキャベツをかき込みながら辻本はうなずいた。

「じゃあ、どうして? 二人ともあんなに辛そうなのに…」

「NaRDO技術本部のAIがそう判断した」

 みそ汁で口一杯のキャベツをのどの奥に流し込んだ辻本は、いきなり訳の判らないことを口走った。

「香帆ちゃんはさ、あの謎の異星船の映像を見てどう思った?」

「どうって…何だか不思議な形だなって」

「だよな。でも、あの船の形を解析した設計支援AIは、比較検証のために投入した太陽圏に存在する膨大な宇宙船データの中から、たった三隻を、あの船と類似のグループと認識した」

「え、人類の作った宇宙船全部から、ですか?」

「そう、それこそ前世紀のサターンV型から始まって最新型のプラズマエンジン搭載船まで、数百種類じゃきかなかったな」

「そんなに」

「そう。で、そのうち一隻が何を隠そう〈アローラム〉、もう一隻が〈がるでぃおん〉だったんだ。疑わしいものまで入れても六隻しかリストアップされなかった中で、あいつの設計した船が二隻も入って来た。偶然で片付けるにはちょっとばかりできすぎな話だとは思わないか?」

「どうして? 異星船とアローラムじゃ形だって大きさだって全然…」

「問題は見た目の話じゃない。デザインから推測される設計の根本思想ポリシーがよく似てるんだと。船体の重量バランスの取り方とか、応力の逃がし方とか、そういう設計のクセっていうか、基本的な考え方がかなり似通ってるんだな」

「じゃあ、先輩の頭の中は宇宙人と同じだと…?」

「そう。常人離れしてるとは常々思ってたが、人類の基準スタンダードからも外れているとはおもわなかったなー」

 ご飯で口をいっぱいにしながら、大まじめな表情で辻本はうなずいた。

「そういった意味で、謎の宇宙船に迫るためには、湊のあの独特の設計思想と、それに基づいて造られたアローラムをプラットフォームにすることが、今のところもっとも成功の可能性が高い」

 香帆が話の内容を消化している間に、辻本は今度はカツをもりもりと口に放り込む。

「…とはいえ、もちろんオリジナルの性能ではあの異星船にははるかに及ばない事もはっきりしているな」

「それは、まあ」

「で、そのギャップを少しでも埋めてくれそうなのが日岡君の持ち込んだ高性能エンジンだ。我々はそう判断している。そんな事は、湊だってちゃんと判っているはずなんだ」

「…本当にそうでしょうか?」

「たぶんね。私だって、個人的にはあの二人をそっとしておいてあげたいよ。だが、あの宇宙船を首尾よく確保することで我々が一体どれほどの知識と、技術的優位を手に入れられるか、あらためて考えなくても判るだろ?」

「何となく、ですけど」

「それを考えるとなあ」

 低重力湯飲みに手を伸ばす辻本。しばらくは無言で緑茶をすすり、不意に香帆の顔を見つめた。

「こんな時、個人の事情はどうしたって後回しになってしまう。ろくな資源も持たない技術立国の政治戦略にはそういう非情な部分もある。それにな、いずれ君たちにはもっと…」

 辻本はそこで不自然に言葉を切ると、残っていたタクアンを音を立ててぼりぼりとかんだ。

「明日からは航法コンピューターの組みつけが始まる。君も忙しくなるぞ」

 そう言うと、残った緑茶を茶碗に移して一息で飲み干し、肝心な点には触れないまま、神妙な顔で話を締めくくった。



 追跡はすでに始まってから十数分におよんでいた。

 整備区画を抜け、どんどん人気のない場所へ入り込んでいく不審な男を追いながら、湊は自分の直感が正しかった事を確信していた。食堂で彼を睨むように見つめていた不審な作業員。着ているツナギの色は一般作業員用のありふれた白。胸にはちゃんと認識票もつけていた。だが、その仕草になにか不自然なものを感じたのだ。

 アローラムのドック入り以来、司令は改修作業に直接従事する作業員に特に派手な色付きのツナギを支給し、他の部署と明確に色分けして一目で担当部署がわかるように配慮していた。湊はそれを意味のないこだわりのように感じていたが、色付きの作業員以外は決してアローラムに近づくことはできない。警備上のメリットもちゃんとあったわけだ。

 湊がそう考えながら歩くうち、男は倉庫区はずれの隔壁を通り抜け、旧区画に入り込んでいた。

 ほとんどの設備が取り外され、がらんとした主廊下は追跡行には不向きで、湊はさらに距離を取り、枝道に身を隠しながら慎重に男を追う。

「こんなところに入り込んで、一体何のつもりだ?」

 湊は注意深くあたりを見回しながら小さくつぶやいた。

 このあたりは無人作業ロボットが岩山にぶち抜いた直線状のトンネル構造そのままの区画だ。初期の辺境拠点によくある構造だが、壁も天井も、シールドマシンの切削跡の残る岩盤に白っぽい気密プラスターを吹きつけただけの簡単な仕上げで、見るからに寒々しい。

 だが、トロイスの場合は基地が拡張されたのに合わせて住みやすい新区画にほとんどの設備が移され、今ではこの区画はほとんど使われていない。この先にあったエアロックも放棄されてすでに久しく、とっくに完全封鎖されているはずなのだ。

 自ら袋のネズミになるようなものなのに。

「あ!」

 男が二つ先の枝道を折れて不意に姿を消した。湊は慌てて通路を横断し、通路の手前で壁に貼り付いた。

 呼吸を整え、そっと通路に顔をのぞかせる。だが、通路に人の姿はなかった。

 行き止まりの分厚い耐圧ドアが半開きの状態でかすかにきしみ、その向こうには細く暗闇がのぞいている。

〈第三エアロック〉

 ドアに大書され、閉鎖時に削り取られたらしき文字の残がいはかろうじてそう読めた。

「まさか!」

 湊の背筋に冷や汗が走った。

 閉鎖されているはずのエアロックが実際はまだ密かに使われているとすれば…。

 基地の警備体制は文字通り、思い掛けない大穴を見過ごしている事になる。

「スパイ!」

 湊にとっては忘れることのできない苦い過去がふたたび脳裏によみがえった。かつてエルフガンドに所属していた頃、設計を盗まれた経験があったのだ。

 あの船はひどい難産だった。ふさいでもふさいでも次々に問題点が発生し、それでもようやく試作機の生産移行が完了し、量産開始を間近に控えた新型のロボタグ。それにそっくりなタグボートが外国のライバルメーカーから華々しく売り出された時の屈辱感は今だに忘れることなどできない。

 まさか、またなのか?

 湊の額に脂汗がにじみ、彼は思わず我を忘れてエアロックに突進した。



「へえ、これが新しい耐Gシート?」

 翌日の朝、航法コンピューターの設置検査に立ち会うため、数日ぶりにアローラムのコクピットに入った香帆はコクピットの変貌ぶりに思わず歓声を上げた。

「そう、おかげで予想できる二ケタの高G環境にも耐えられるってわけです」

 据え付けの最終チェックをしていたブルーのツナギ姿の技術者が振り返り、縦に引き伸ばされた巨大な卵のような筐体を撫でながら自慢気に微笑んだ。

「ちょっと待って! 二ケタのGって?」

「ええ、なんせ相手は秒速千キロからだって一気に停止できる化け物ですからね。それに追いすがろうとすれば最低でも二、三十G程度は覚悟しなくてはなりません」

「げっ! それじゃ私達…」

 香帆はその言葉を聞いただけで体がずぶずぶと床にめり込みそうに思えた。だが、技術者は平然と説明を続ける。

「大丈夫ですよ。二十世紀末の技術的トライアルで、高度に訓練された人間は極めて短時間であれば七十Gという超高Gにさえ耐えうる事が実証されてます」

「でも、私達はそもそも高度な訓練なんて受けてません。まして短時間ってわけにはいかないんですけど」

「そこで、我々はあなた方操縦者を守るためにこれを開発しました。実際に装備されるのはこの船が世界初ですが」

「はじめて?」

「ええ、他にも新技術が山のように投入されてますよ」

 作業員はうれしそうにうなずく。

「あなたが担当されることになる航法コンピューターも半自律ニューロAI搭載のベータテスト機ですし、エンジンもプラズマ燃料も、どれも開発段階の試作品や量産試作ですね」

「えー!」

「司令はおそらく今回の計画で、ここ四~五年ほとんど進展のなかった宇宙船技術のブレイクスルーを狙っておいでのようです」

 香帆の不安げな顔つきにはお構いなく、データパッドのチェックリストを上機嫌に消化しながら人ごとのように気楽に続ける。

「おまけにあの宇宙船を首尾よく捕まえれば、さらに飛躍的な革新も夢じゃないですから」

 香帆は急に怖さを感じた。だが、ようやくその表情に気づいた技術者は、彼女の肩をポンと叩いて白い歯を見せた。

「大丈夫です。あの辻本司令がうまく行くっておっしゃってるんですから」

「どういうことです?」

「あれ、ご存知ないんですか。あの方は初期から火星開発に関わられたかなりの猛者です。どんな凄惨な大事故からも常に生還されたので有名ですよ」

「全然知りませんでした」

「そうですか。まあ奇跡的な強運の持ち主で、幸運の女神に魅入られているって噂されていたそうです。それほどの色男ってわけでもないんですけどねぇ」

「宙航士訓練校の校長先生じゃなかったんですか?」

「ああ、確かにここ四年ばかりはそうでしたね。でも、その前は火星のアズプールで基地司令を務めていらっしゃいました。不思議なことに、彼の任期中、基地全体の事故率のオーダーが平均で一桁下がったんだそうですよ。どうも司令には我々の知らない魔術の心得があるみたいですね」

 技術者はにっこり笑いながらそうコメントする。

「ふうん」

 どうやら辻本にはあのすっとぼけた容貌からは予想もできないハードな過去がまだまだありそうだ。

「それより、肝心の航法コンピュータはどこですか? それにディスプレイがどこにも見当たらないけど」

 あまりにもすっきりしたコクピットを見回しながら尋ねる。あるのは圧倒的な存在感を示す二基の耐Gシートのみ。観測窓や計器類もすっかり姿を消している。

「ああ、コンピューター本体はコクピットの床下に移しました。厚さ百九十ミリの積層鉛板と重ステンレスメッシュとチタンと生体セラミックの四重シェルに保護されて純粋エタノール中に浮かしてあります。ニューロチップは宇宙線にかなり弱い素子ですから」

 技術者が笑いながら耐Gシートを操作した。ピッという電子音と共に巨大な殻(シェル)が油圧でばっくりと開き、中から狭苦しいカウチが現れる。

「操作者がここに寝そべった状態で上から蓋が閉まります。稼働中、体との隙間はすべて透気性のジェルで満たされ、操作者はジェルにすっぽり包まれた状態になります。データはすべてこいつで網膜に直接投影しますから、ディスプレイや計器は特に必要ありません」

 言いながら彼は実際にシートにすっぽりと沈み込み、大型のデータゴーグルにも似たマスクを顔にあてがってみせる。通常のゴーグルと決定的に違うのは、このマスクは額からはじまって顔から肩まですっぽり覆う上に、かぶってしまうと全く外が見えなくなってしまう点だ。

「コンピュータの操作はすべてこのHMDアイポインターで行います。あと、パイロットのスロットルとコントロールスティックはここ、手を下げた状態でこう、握ります」

 そのまま両手を体にそって下げ、腰の両わきにあるスティックを握ってみせた。

「あ、でも、超高速航行時はAIアシスト操船に自動変更されて、パイロットはAIに対して主に思考で指示を出す方式になりますね。船の速度があんまり早すぎて、人体の反応速度では細かい操作が間に追いつきませんから。パイロット用のHMDは後頭部まですっぽり覆いますし、延髄部分にそのための脳波探針も組み込んでありますよ」

「アイポインターは苦手なんだけどな。それにこれ、ほとんど身動きがとれないみたいだけど」

「ええ、でも、超高G環境で人がなんとか動かせるのはせいぜい指先か目玉ぐらいのものですからね。それでも相当辛いはずですが」

 技術者はゆっくりと起き上がりながら付け足した。

「このシートは超高速で飛び回る乗員の生命の保護を最優先に設計してあります。非常時には、これ単体でも船外脱出救命カプセルとして動作するようになってます。ただ、残念ながら今回は快適な居住性まで気を使う時間的余裕はありませんでしたが…」

 そう言うとすまなそうに頭を下げた。

「実を言うと以前、サンライズの開発部にいた時分に私も試してみたのですが、訓練機で十秒間ほど二十四Gに耐えた後、失神してしまいましたよ」

「うっ!」

「一般人にはどうやらその辺が限界のようです。もちろんこれがなければその三分の一も耐えられないのは確実ですが、実際にこれをお使いになるあなた方には心から同情します」

「そんなに辛いの?」

「実を言いますと、かなり…」

 技術者はすれ違いざま小声でささやくと、物騒な答えにあわてる香帆に小さく手を振り、苦笑いしながらコクピットを出て行った。

「香帆ちゃん」

 不意に呼びかけられて振り返ると、以前の貨物区画からオレンジ色のツナギ姿の優子が眠そうな表情で姿を現した。

「は? ああ、優子さん。今朝も早いですね」

「おはよう。でも早いんじゃなくて遅いのよ。昨日から徹夜で作業だったもの。それより主任はどうしたのかしら?」

「しゅ…ああ、湊先輩ですか? そう言えば昨日の晩から見てないんです。窯元の方にも顔を出してないっていうし。まったくどこで何して遊んでんだか」

「そう…」

 優子は小さくため息をついた。

「やっぱり避けられてるのね。仕方ないけど」

「あの、何か用事でも?」

「ええ、エンジンの組みつけが今日でほぼ完了したの。それで一応確認してもらおうと思ってたんだけど」

「伝えておきましょうか?」

「ええ、お願い。それじゃあ私は一休み。また後でね」

 言い残すと、優子はあくびをかみ殺しながらふらふらとコクピットを出ていった。

 香帆は、あまりにも子供っぽい湊の意地っ張りにうんざりし、不慣れなアイポインターにイライラをさらに増幅させながらシステムのインストールチェックに取りかかった。



「班長、これ、どう思われます?」

 施設管理課の若いスタッフが夜番からの記録を引き継ぎながら、ふと、気になる記述に出くわした。

「俺、夜勤明けなんだ。頼むから面倒はよしてくれよ」

「いえ、夜中にセンサーが何度か誤作動しているみたいなんです」

 年配の班長は面倒くさそうな表情でスタッフの手元をのぞき込み、なるほどととうなずく。

「北区第三エアロック…ああ、なんだお化けエアロックじゃねえか」

「なんですかそれ?」

「おまえは知らないのか? 昔からあそこは変なんだ。誰もいねえのにセンサーは誤作動する、インカムは鳴る、外扉が勝手に開いたり閉じたりする、なんてことがよくあった」

「へえ!」

「そういえば誰かに無線で呼ばれたような気がする、なんてのもあったな。だからお化けエアロック」

「でもここ、もう閉鎖されてますよね。外扉も溶接されてますし」

「そうだな、ここ何年もそんな気配はなかったんだけどなあ。おまえが知らないのも当たり前か。ま、ほっとけや。そのうちおさまるさ。じゃあよろしく」

「はあ」

 班長は彼の肩をポンと叩くと管理室を出て行った。

 スタッフはしばらく思い悩み、ディスプレイに第三エアロック周辺のマップを出してみる。

「ああ、ここって三角山の正面なんだ」

 なんとなく納得する。三角山というのは単なるあだ名だが、トロイスのすぐ北側にある自然の地形とは思えないほど整った三角錐型の丘を、基地の職員はいつの間にかそう呼ぶようになっていた。

「確かにちょっとオカルトな感じするもんな」

 そう独りごちたスタッフは、マップを閉じ、その事は忘れて日常業務に取りかかり始めた。


---To be continued---

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