Dive
「じゃあ、そろそろ始めようか」
デジタル表示がゼロを示すと同時に、辻本司令はまるで近所に散歩でも行くようにさらっと宣言した。
サポートクルーを乗せた支援船はメインエンジンを吹かしながらゆっくりと木星周回高度を上げて行く。
彼らはこのまま木星の表面から八万五千キロほど遠ざかり、静止軌道上から、私たちのサポートについてくれる事になっている。
一方、潜航艇TM102(改)を抱いたままその場に留まったアルディオーネは、支援船が肉眼で視認できないほど遠ざかるのを待ち、船首の減速スラスターを長く噴かし、木星の大気圏に向かってじわりじわりと沈み込んでいく。
眼下に迫る木星はあまりにも巨大で、果てしなく広がる一面の大砂漠のごとく私たちを圧倒した。
薄茶色の有機化合物の雲がボコボコと音が聞こえそうなほど激しく沸き立ち、まるで砂漠の砂嵐のように視界を霞ませる。
「香帆、TM102に」
あまりにも現実離れした光景にすっかり心を奪われていた私は、湊に何度か呼びかけられてようやく我に帰った。
「は、はい!」
気を取り直してコクピットを飛び出した私は、狭い通路の突き当りを回り込み、潜航艇に繋がる狭いドッキングトンネルに滑り込んだ。
「湊、移乗完了したよ。TM102、外殻ハッチ閉じます」
頭上でゆっくりとハッチが閉じ、ロックアームが三方から伸びてハッチをガッチリとくわえ込んだ。遠くでアクチュエーターが低く唸り、ハッチのすき間がじわじわと狭まっていく。
すき間は、やがて髪の毛一本にも満たない、ほとんど目に見えないほどの筋になった。ピーッと鋭いアラームが響き、赤く光っていたインジケーターがグリーンに変わる。
「外殻ハッチ閉鎖完了。続いて耐放射線シャッター閉じます」
チタニウムと鉛が何層にもサンドイッチされたシャッターがするりと音もなく頭上を横切り、内部照明の色が薄暗いオレンジ色から明るい白に変化する。
「内部電源アクティブ。続いて耐圧殻閉じます」
鈍い金属光沢を放つ分厚い円盤が頭上に滑り込んでくると、耐圧殻にあいた穴に向かってゆっくりと沈み込んで来る。イエローの回転灯がひらめき、本当にゆっくりゆっくり、分厚いタングステンのハッチは耐圧殻と一体化した。
耳の奥がツンとなり、圧力調整弁からシュッと一瞬だけ空気の漏れる音がした後は、まるで耳の奥に真綿を詰められたような静寂が私を包む。
「プレッシャーテスト実施。漏気ゼロ、気圧調整、気密……完了!」
サブモニタに表示されたステータスを読み上げると同時に、ハッチにデッドボルトがガチャリと通る音がして、耐圧殻は完全に閉鎖された。
これから先、ミッションが完全に終了するまで、私は身動きすらままならないこの狭い隙間に挟まれたままになる。
ミッションが予定された四十八時間以内に終わるのか、あるいは延長されるのか、情報が不足したままの現状ではまったく予想がつかない。
一応、酸素に加え水も食料も余裕たっぷりの四十五日分が用意されている。
考えられる最悪の事態、たとえば潜航艇が何らかのトラブルに巻き込まれ、自力浮上ができないような状況に陥ったとしても、分厚いタングステンの鎧は私をどこまでも守る。木星の海、超高圧の液体水素に激突でもしない限り。
おまけにもうひとつ。できれば使いたくはない方法だけど、
『大気層最上層に突入、大赤斑まで水平距離間もなく一万キロ。かなり暑くなってきた。現在の船殻外部温度は八百度。切り離しに備えろ』
湊の声を聞きながら私はMMインターフェースをうなじに接続し、視界を外殻カメラからの三百六十度映像に切り替えた。
濃密なガスに包まれ、真上以外、ほとんどが距離感のつかめないぼんやりとした薄茶色。期待していたわけじゃないけど、思った以上に面白みのない風景に小さくため息をついた私は、遠距離レーダー画像に切り替えて前方を睨む。
「異星船、サルベージ船とも検知出来ません。もっと下に潜っているのかな」
数時間前、支援船からの観測結果では、異星船は相変わらず大赤斑のほぼ中心に居座っていた。
どうやら高度は不安定に変化しているようで、今のところまだ潜航艇のセンサーでは見つけられない。
『見えるとしたら斜め下のはずだ。支援船と三角測量してみた。どうやら我々の三百キロくらい下、熱圏の最上部あたりにいるらしい』
「了解」
ブンッという鈍い音と共に船殻冷却システムが動き始め、船殻表面の温度は摂氏五百度程度で安定した。
一方、最初から超耐熱、耐圧設計のTM102(改)とは異なり、アルディオーネのセラミックの船殻は高温の木星大気にあぶられ、うっすらオレンジ色に輝き始めている。
私は切り離しまでのタイムカウントに目を落とし、先ほどからほとんど時計が進んでいないのに気付いて内心驚く。
なんだか時間がいつもよりゆっくり流れているようだ。
「香帆です。状況きわめて良好」
『……支援船了解』
さすがに支援船とのリンクはタイムラグが出始めた。もう一、二万キロは離れただろうか?
『香帆、間もなく切り離し高度。ショックに備えろ』
湊の声にわずかに心配げな色が混じる。
一旦切り離されてしまえば、もはやドッキングトンネルを駆け戻り、湊のそばに帰る事はできない。
『一応念押ししておくぞ。木星大気層の厚みは
「はい」
『表示がマイナスに突入したらすべての作業は中断、すべてのバラストを落としてとにかく上昇しろ』
「うん、わかってる」
『“海”に潜ったからってTMはすぐにどうなるわけでもないが、上昇のために使える推進剤は限られている。海面下千キロ以深には潜るな。戻って来られなくなるぞ』
「りょ、了解」
私は不意に湧き上がってきた恐怖をこらえ、つとめて平静を装う。それでも緊張のせいで指先が冷たくかじかみ、支援船の医師がチェックするバイオモニターには私の不安がはっきり映し出されているだろう。
『切り離し十秒前、五秒前、三、二、一、リリース!』
一瞬の浮遊感が身体を包んだ。戒めを解かれた
『無事で戻れ』
耐圧殻の中に、イヤピース越しの湊の声が、少しだけかすれて響いた。
---To be continued---
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