接触
金星の一日は二百四十三日、つまり、地球時間の約八カ月でようやく一回転という極めてのんびりした星だ。
また、金星が太陽の周りを一回りする、いわゆる一金星年は二百二十四日、一日と一年がほとんど同じという謎の星なのだ。
しかし、太陽を基準に考えると少し話は変わってくる。
金星は太陽系のほかの惑星とは違って、なぜか逆向き、つまり東向きではなく西向きに自転している。だから、金星の地表から見る太陽は西から昇って東に沈む。
金星に日が昇り、沈み、そしてまた昇るまでのサイクルは地球の時間で百十六日。公転周期と自転周期が近いために起こる現象なのだそうだけど、考えているうちにだんだん頭がこんがらがってくる。私もミッションの前に一応レクチャーは受けたものの、早々に理解するのはあきらめた。
それ以来、専門外と割り切って気にしないことにしている。
そんなわけで、ここでは目覚めてから眠るまで、朝から晩までずーっと昼間。何の代わり映えも無い荒れ果てた風景が延々と続く。
で、つまり、私が何が言いたいかというと、一言、〝退屈〟だ。
私がTM102改と共に金星に閉じ込められてからまる一日が経った。
もともとTMは耐久テストも兼ねて三日間金星に滞在する予定だったから、それはまあ、いい。
問題なのは私の実体の方だ。
バーチャル耐圧殻からログオフ出来なくなったので、体はアルディオーネのコクピットにあるのに、意識はTMのコクピットに閉じ込められたままという面倒なことになった。
困るのが、空腹。もっと困るのが、あの、つまり、入る方ではなく、で…出る方。
今回のミッションは最初から長時間になることが予想されたので、私は昨日、念のため大人用の紙おむつを穿いてミッションに臨んだ。
恥ずかしい? まあ確かにね。
でも、フロンティアではそんなこと気にしていられない。今でも、宇宙服を着た長時間のミッションや、深海潜航艇の女性乗組員はだいたい同じように生理現象に対応しているのだ。もちろんあくまで万一の保険のつもりで。
それ以外にも、当日はできるだけ水分を控えたり、まあ、みんな色々と気を遣う。
だが、ミッションがまる二日を超えることが確実になった今、実際にその〝万が一〟に頼る羽目になったあげく、誰がそれを交換するのかという話が持ち上がった。
アルディオーネのバーチャルコクピットにはメンバーのほとんどが集結しているが、言うまでもなく、みんな実体は金星周回ステーションにあり、アルディオーネへの乗り組みは
現在、アルディオーネは金星はるか上空を周回中だ。他の予定をすべてキャンセルして緊急寄航を要望したらしいけど、金星周回ステーションは金星唯一の宇宙港で、港湾施設は貧弱だ。他の船や学術ミッションとの調整はずいぶん難航し、一日予定を早めるのが精一杯だったらしい。
嫁入り前の娘が、下の世話をよりにもよって自分の想い人にお願いするしかないという
無事にアルディオーネに戻れたとしても、当分は恥ずかしくて湊の顔がまともに見られない。
絶対、無理。
おまけに、湊の話では、私の肉体はかなり高い熱を出しているとのこと。突然呼吸が乱れたり、心拍が乱れたり、正直言ってかなり深刻な状態らしい。原因はまったく不明。ミッション直前の精密検査でもこれといって異常はなかったから、風邪やインフルエンザみたいな感染症の可能性も考えにくいとか。
サンライズコロニーの医者による遠隔診断で、ともかく解熱剤の処方となった。加えて発熱と発汗で失われた水分とアミノ酸、ナトリウムなど、輸液も受けることになった。
こうしてどんどん話が大げさになっていく一方で、人としての尊厳とか、プライドとか、個人的には色々大切なモノを失った気がする。
『香帆、定期報告を頼む~』
そんな事をぐじぐじと考えている私に、司令はまったく気にする風もなく、憎たらしいほどいつも通りに声をかけてくる。
「はぁい。気温四百五十、気圧変わらず、東の風二メートル。見渡すばかりの荒れ地です。退屈、退屈、たいくつ〜っ!」
『そう、ふて腐れるなよ。こっちだってちゃんとやるべき事はやっている。もう少し待ってくれ』
「はぁ~」
私は大きくため息をついた。
「そんな事分かってます。でも、せめてグチの一つくらい言わせて下さいよ!」
本当なら、滞在二日目には搭載されている小型の観測ドローンを飛ばして周辺の航空観測をするはずだった。
この小型ドローンへの〝搭乗〟も本来私の任務だったのだけど、TM102改から自由にログオフできない状況で、ここからさらに別の機体に意識を移すのはあまりに危険すぎるということで中止になった。
確かに、その気になればいくらでも高温高圧に耐える丈夫なTMと違い、ドローンの運用限界はたったの二十四時間しかない。
バーチャルな金星遊覧飛行も楽しみだったのだけど、これ以上不安定な状態に自分を追い込みたくはない。
おまけに、すべての元凶、例の全波長探査のシーケンスはいまだに継続中だ。どれだけ中止コマンドを送ってもまったく反応する気配がない。データはどんどんストレージに貯まる一方で、そろそろアルディオーネの記憶デバイス容量を圧迫し始めている。
『…で、他に変わったことはないか』
相変わらず人の話を聞かないおじさんだ。あるいはわざととぼけているのか。
多分後者だろうと思いながら、もう一つの重大な懸念を口にする。
「実は、さっきから猛烈に眠いんです」
『寝不足か?』
「そんな訳ないじゃないですか。スケジュール通り、きっちり八時間睡眠を取りましたよ」
『昨夜から君の肉体に解熱剤が投与されている。その影響じゃないかな』
「でも、なんだか変なんです。前触れもなくいきなり気が遠くなりかけて、慌てて戻ってくる感じの繰り返しで…」
『本当に眠い時はそんなもんだろう? 現在君の担当ミッションはすべて中断しているから、無理しないで休んでいいぞ』
「でも、ちょっと…」
こんな状態でも、熱によるフラフラ感との違いくらいわかる。自然な眠気の場合、眠りに落ちる瞬間にふわりと浮き上がる感じがするのに対して、この眠気はまるで底なし沼に一直線に引きずり込まれるような、なんだかこう、不気味で強引な感じがするのだ。
『念のため、
「でも、アルディオーネの操縦があるのに…」
『大丈夫、今夜一杯は周回軌道だからしばらくはAIに任せられるはずだ。頼んでおくよ』
その言葉にどう答えたのか覚えていない。
いきなり暴力的な睡魔に襲われた私は、一言も発せないまま、果てしなく続く真っ暗な穴にどこまでも落下した。
気がつくと、私は一面ミルクのような濃い霧に覆われた薄明るい空間に漂っていた。
どちらが上か下かもはっきりせず、全身がふんわり暖かいような気がするものの、自分の手足の存在すらはっきりしない。
「ようやく招待に応じてくれましたね」
突然背後から呼びかけられた。
慌てて振り向こうとするが、まるでプールの中のように支えのない状態ではうまく体を動かせない。
「だれ?」
「声を出す必要はありません。言葉を脳に思い浮かべていただければ通じます」
男か女か、少年の声にも聞こえるし、老婆のようでもある。なんとも表現しにくい不思議な声だった。
(これでいいの?)
「はい、それで十分です」
声はいつの間にか正面から聞こえるようになっていた。
(あの、できれば自己紹介をお願いしたいのだけど?)
「私たちに明確な自己は存在しません。私という個は常に私たちの一部として生み出されました」
(ごめん、意味がよくわからない。とりあえずあなた、人なの?)
「あなたの言う“ヒト”がこの星系の第三遊星由来の有機知的生命体という意味であれば、否定」
(おお!)
思わずうなる。
ん…んん?
それってつまり、ファーストコンタクト?
「私たちは、この星系を訪れてからずっと、岩石質の地表と液体状の水を持つ各遊星に私のような存在を置き、知的生命体の発生を待っていました」
(ちょ、ちょっと待って! 遊星って、惑星のこと? 地球にも?)
「肯定、第三遊星は“チキュウ”と呼ばれているのですね」
謎の声は淡々とそう答える。
「“チキュウ”に置かれた私たちの一個体は、今私がいる第二遊星の一億公転ほど前、大型の小惑星の直撃を受けて永遠に失われました。第一遊星、第四遊星に置かれた個体とも、もはや連絡は途絶えています」
ええと、金星の一年は224日だから、一億年前というと、地球に直すとざっと六千万年前...。
(ああ、恐竜の絶滅を引き起こしたメキシコの大隕石!)
「そんなに昔から! あなたたち、一体いつからここに?」
思わず叫び声が出た。
「この星系で遊星の形成が終わった頃からです。”チキュウ”の四十億公転ほど前と表現すればわかりやすいですか?」
(えー!! わかるけど、信じられない!)
「疑問。こうしてコンタクトが成立している以上、疑う余地はないと考えますが?」
彼らは何者? それに、木星の異星船と何か関係があるんだろうか?
「私という情報体に時の経過は影響を与えません。ですが、一方で私を納めた物理構造は劣化が進行し、遠からず崩壊が予想されていました。間に合って良かった」
(あなた、生命体ではないの? もしかして探査ロボットか何か?)
「肯定、そして部分的否定。私は純粋な情報思念体です。私の役割は発生が予想された知的有機生命体とのコンタクトであり、この星を探査する付加機能はありません」
(でも…どうして私なの?)
「数公転前、私たちと類似した通信プロトコルを持つ移動体が付近を通過し、私は長い休眠状態から目覚めました」
(ああ、もしかして…)
数年前、太陽系中を縦横無尽に飛び回った異星船。話の相手はその仲間なのだろうか?
(あの船はあなたの仲間? 私たち、あの船を追っかけたことあるよ)
「否定。私たちの一部ではありません。ですが、移動体の発する情報はなぜか我々にも解析が可能でした」
(え!)
「移動体の情報を解析し、あなたを含め、あなたに類似したいくつかの生命体が今や私たちと交流可能であることを知りました。また、移動体が第五遊星に存在する別の移動体と呼応していることも判明しました」
(やっぱり!)
あの異星船と、木星の異星船は間違いなく関連があったんだ。でも、だとすると、今私に話しかけている声は?
「それ以来、私はあなた達との接触を切望してきました。こうしてコンタクトが成立したのは大変な幸運です」
(それで、あなた今どこにいるの?)
だが、それまで饒舌だった声は不意に沈黙した。
(あの? もしもし?)
「…ほ、香帆!」
耳元で悲鳴にも似た叫び声が聞こえる。
うるさいなあ。そう思いながら目を開けると、目の前、驚くほど近い距離に湊の顔があった。
「香帆、俺がわかるか?」
状況が理解できるまでしばらくかかった。
「あれ? 湊? 私は」
途端に張り詰めていた湊の顔が安堵に緩むのがわかった。
「良かった!」
湊の目尻にうっすらとにじんでいるのは、涙?
その事に気づいた瞬間、私の顔が火を噴いた。
恥ずかしい!
でも、次の瞬間私は彼に力一杯抱きしめられていた。
「ちょっ! 湊、みなとったら!」
「うるさい! しばらく黙っておとなしくしてろ!」
声が潤んでいる。もしかして、泣いてるの?
私はどうにかして彼の顔をのぞき込もうとジタバタするが、彼はかたくなに私を放そうとしない。
「今度こそ駄目かと思った。あんまり無茶するな!」
いやいや、結果的にそうなっただけで、自分から望んで無茶をしたわけじゃないんだけどね。
「二回も呼吸が止まったんだぞ。本当に、こっちの心臓まで止まりそうだった」
「…それは、ごめんなさい」
心配をかけたなあ。素直にそう思った私は、体の力を抜いてとりあえず謝った。
逆の立場だったら多分、私だって死ぬほど心配しただろうから。
「それで、状況はどうなってるの?」
「あ、ああ」
湊は顔をそむけながらそれだけ言うと、ようやく私を解放し、袖口で乱暴に顔をぬぐって私を見た。耳も、目も真っ赤だ。
「今しがた、全波長探査シーケンスがようやく止まったんだ。同時に全機能が回復して、香帆のログオフも自動的に処理された」
私はほの暗いコクピットを見回し、ゆっくりとシートに体を起こした。
シートに固定され、点滴針の刺さった左手が目に入る。眉をしかめながら自由な右手で自分の額をどうにか触ってみる。
「熱、下がってる?」
「ああ、ログオフ成功と同時に急に平熱に下がった。多分、探査シーケンスか、感覚フィードバックのどっちかにバグがあったんだ。今サンライズの本部でエンジニアがソースコードの見直し作業を進めている」
「TM102は?」
「まだ下に。とりあえず、今回の原因が分かるまではそのままだ」
「放っておいて大丈夫かな?」
「とりあえず、潜航艇より香帆、君の方が優先だ。今から周回ステーションに接岸するまでMMインターフェースの使用は禁止!」
「大丈夫だよ、もう何ともないし」
「い、い、か、ら!」
一語一語、区切りながら睨みつけられる。
「立てるか? 目まいとか、ないか?」
慎重に点滴針を外しながら私の顔を覗き込んで来る。
「大丈夫」
自由になった左手でシートベルトを外し、私は彼に手を引かれるままゆっくりと立ち上がった。
「どうだ?」
「うん、何ともない」
その答えにようやくほっとした表情を見せた湊は、そのまま私の肩を抱くようにして自室の前まで付き添ってくる。
「いいか、しばらくは部屋からも出るな。おとなしくベッドで休んでるんだ」
「えー、あ、いや、はい、分かりました」
反論しかけて、やめた。
あんなに心配そうな目で見つめられたら逆らえないじゃないか。私は不承不承うなずくと、ロックを解除してドアを開く。
「何かあったらすぐ呼ぶんだぞ」
「はぁい」
うなずく私の前で、ドアは静かに閉じた。
---To be continued---
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます