第一章(2)

   二


「俺ぁ、鬼に殺されかかったことがある」


 車座の中で、急に多弁になった犬吉が言った。


 毎年ある夜、鬼たちは突然にやってきては、村の農家を数軒ずつ襲い、夜明け前に帰って行くのが常で、押し入られた家の者しか、その姿は目撃していなかった。


 村中が床に就いた夜半過ぎ、近辺の家で、突然、ドーン、バキバキという激しい音がする。まもなく家の者の悲鳴、家畜の断末魔の叫び、けたたましい犬の鳴き声が続く。そして、その次に訪れる静寂こそが、どの家の者にとっても気も狂わんばかりの恐怖であった。


 次はこっちへ来るのか、遠ざかるのか。


 だから皆、あまりにおっかなくて、朝が来るまで戸口から覗いてみる勇気などなかったのだ。


 俺の家、つまりこの家は、まだ被害を受けていなかった。だから俺も実際に鬼を見たことはない。雉右衛門の家は一昨年襲われたが、家族の者は皆、闇夜にはよく目が見えない。幸いというべきか、むしろ恐怖の極みだったのか、彼らは隅っこに固まって、鬼が家を乱暴に物色する音だけを聞いて嵐をやりすごした。


 猿ノ助は流れ者で、この村の者ではない。


 だから、明るいときに、はっきりと鬼を確認したのは、犬吉だけだと俺は聞いていた。


「俺ぁ、早朝、村へと続く道で赤鬼青鬼とばったり出会ったんだ。人は赤鬼と言うが、むしろ黒だ。黒赤いんだ。皮膚が黒くて、目が赤い。身の丈は八尺もあったろう」


 雉右衛門が驚いた。


「八尺とな!」


 雉の合いの手が入ったので、犬吉の舌がさらに滑らかになった。


「おうよ。二頭とも、大きなずだ袋を担いでおった。夜明けまで村を荒らしての帰りだとひと目で分かった。村の鶏の頭を食いちぎって血が滴ってるのをしゃぶりながら、談笑しつつ道を歩いてきた。俺ぁ、足がすくんでたわいもなく捕まっちまった」


 恐怖を伝えているはずの犬吉の尾が二度ほど床を掃いたのを、俺は見逃さなかった。


――猿よりは信用できる、


と俺は思った。


 犬吉は、釈明を聞いてもらえる嬉しさのあまり、前のめりになって告白を続けた。


「次の瞬間、もう俺ぁ、ぶちのめされてた。記憶にあるのは、こんなにでっかい拳固が迫ってくる瞬間だけだ。気を失う中、聞こえたのは、赤鬼の言葉だった。『やめとけ、犬は不味い』 いいか、おのおの方、鬼は強えぞ。俺ぁ、頭の骨が折れて、片目がつぶれたくらいで済んで幸運だったぜ」


 事情を初めて聞いた猿ノ助が犬吉に訊いた。


「おい犬吉、それでお前がさっき一目散に風呂敷に隠れたわけは分かったが、お前、そんな経験して、なんで今回の征伐団に加わった?」


 臆病が正当化された犬吉は、満足気に尻尾を一振りした。


「俺ぁ、目は片目しかないが、あんたたちより耳が良い。鼻も効く。だから、監視役だ。鬼ヶ島に上がって、忍び寄って行くときに、鬼が近くにいたら、いち早く知らせてやる」


 猿は村の住人ではないので、合点がいかない。


「どうして危険を冒してそこまでやろうってんだ」


「やらいでか!」


 犬吉は声を震わせてその決意を語った。


「瀕死の俺を介抱してくれた恩人は村の弥五郎どんだ。すべてはあの人のおかげだ。ところが、この間鬼たちがまたやってきて、弥五郎どんは殺られちまった。だから、桃太郎どんが仇を取りに行くと聞いて、俺ぁ、嬉しかったぜ。鬼が恐いのには違いねえが、俺ぁ、しっかり見張り役するぜ。それが亡き弥五郎どんへの、せめてもの供養だ」


 犬吉はうるんだ目で俺を見すえた。


 俺は犬吉から目を逸らした。


 すると雉と目が合った。


 雉も俺を見ていた。


 俺は目を閉じた。


 改めて思った。


 早まった。


 弥五郎がやられたそのときに、どうして感情に任せて、「俺が鬼を退治しに行く」などと息巻いたのだろう。それで今、村人が期待に湧き上がり、取り返しのつかないことになってしまっているのだ。


 小便に立つには早すぎた。俺は目を閉じたまま、弥五郎の無念を思い、口をへの字に曲げ、こみあげてくるものをこらえている感じを出した。


 俺が一向に目を開けないので、いたたまれなくなった雉右衛門が、代わりに口を開いた。


「俺の家族は一昨年命拾いして、今日に至るまで何とか息災だが、明日はどうなるか分からん。村全体がそうだ。実際、弥五郎どのをはじめ、村人の何人かは殺された。金品、家畜、食糧は奪われ、この村は失意に満ちている。これからも毎年その恐怖が訪れるのなら、誰かが立ち上がるしかない。村を助けたい。俺はずっとそう思っていた」


 猿ノ助が「ヘッ」と短く息を吐いたのを聞いて、俺は薄目を開けた。案の定、雉が血相を変え、険悪な空気になりかけていた。


「そうだな、雉右衛門どのの言う通りかも知れぬ」


 俺が雉に加勢したので、猿は恨めしそうに俺を一瞥すると、徳利の酒を猪口に注いだ。


 雉右衛門は気を取り直して言葉を継いだ。


「だが、正直、俺は一人で声を上げることを躊躇していた。雉一羽ごときではあまりに無力だ。そんなとき、桃太郎どのが声を上げたんだ。まことの勇者だ。俺はそう思ったね。桃どのなら村を救える、俺はそう信じることにしたし、桃どのの力になろうと決めたんだ。俺は見張りをやる」


 雉の演説は熱を帯びてきた。猿が徳利を手元に置いているので、俺は自分の酒を注ぐこともできず、「まことの勇者」のあたりから、景光の下緒の先をくるくると指に巻いてはほどいた。


「村のために命を懸けて働く。報酬は、黍団子だ。勇者桃太郎どのからもらった黍団子が美味かった。真の絆の証しだ。それで、充分じゃないか」


 雉右衛門は夜目が利かず、見えるはずもない遠くの空を見るような目になった。ついに猿ノ助が遮った。


「虫唾が走るぜ。望み通り、一個残しといてやる。お前にゃ、それで充分」


 そう言って猿はまた立て続けに黍団子を口に放り込んだ。


 犬吉も不満を口にした。


「それなら雉どん、あんたは遠慮なく、思いっ切り闘えばいい。見張りは俺がする」


 興奮した雉が口ごたえした。


「いや、見張りは俺だ。俺の声がいちばん通る。鬼と乱戦になっても俺が出す合図は必ず聞こえるんだ。こうだ」


 そう言うと雉右衛門は勢いよく息を吸い込んだ。


「うわあ、やめろ、分かった!」


 犬と猿と桃が一緒になって雉を止めた。

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