第十一章(5)
五
輪の向こうで村の女房たちの明るい声がした。
「おお、キヨ、気がついたかえ」
俺や鬼たちを取り囲んでいた村人たちも、ひそひそ話をやめて振り返った。その人垣の隙間から、キヨが、女房たちに助けられながら上半身を起こすのが見えた。俺はハッとして立ち上がり、景光を鞘におさめてキヨのいる方へ駆け寄った。驚愕した村人たちがざわめきながら輪を解いて俺を通した。
「キヨッ、大事ないか」
キヨは俺を見上げるや、恐怖で顔を引きつらせ、身体をのけぞらせた。
「ひええッ、ツノがある! 鬼じゃあ」
その怯えようは尋常ではなかった。
「いや、キヨ、俺だ。桃太郎だ」
俺はキヨにさらに近づきつつ両手を広げた。
「帰って来たんだ」
キヨを介抱していた女房たちが一斉に悲鳴をあげて数歩逃げた。
「嫌じゃあぁぁ、近寄らないで!」
キヨは狂ったようにわなないて、腰が抜けたのか、座ったまま後ろ手をついて後ずさりした。
「キヨ……どうした、この顔を忘れたか」
キヨは確かに俺を見ていた。しかし、気を許すどころか、何か邪悪なものを見るように全身全霊で俺を拒絶していた。キヨは自分を目当てに近寄ってくる俺を極度に恐れ、そしてついにはベソをかいた。
「ひいい、おっかねえ。近づかないでよう」
俺は茫然とした。
――なぜだ、なぜ俺を受け入れぬ。お前を守るために、俺は飛んで戻って来たのに。
そのとき、こつんと何かが俺の後頭部に当たった。
そして
「鬼め、出てけ」
俺は思わず後頭部を手で押さえた。先ほどの戦闘で流れた血が汗と混じって、頭髪はベトベトになってばらけていた。見るも無残な格好であろうと想像がつく。
俺は後頭部から手を降ろし、小童の声がした方を振り向き、目を凝らした。凝らした方向の村人の輪が「おお」と言って一歩後ずさった。
そのとき、俺の後頭部にまた当たった。明らかに小石だ。
「なんだッ!」
俺はバッとそちらを振り向いた。勢いがついたので、俺が振り向いた先の村人はザワッと身構えた。
すると
「あ痛た」
思わず再び後頭部を押さえながら、俺はしくしくとした痛みを胸元に感じ始めた。
――なぜ……。
後ろから鋭い男の声が聞こえた。
「島へ帰れ、鬼め!」
「も、茂吉どん……」
格別、仲が良かったわけでもなかったが、丘向こうに住む、俺もよく見知った茂吉が、明らかに俺に敵意を抱いて言い放ったのだった。
続いて、女の声がした。
「この凶悪そうな鬼は、誰かえ? 鬼が桃太郎を喰うて、桃太郎の衣装をまとった鬼になったのか、それとも、もともと桃太郎が凶悪な鬼だったのか」
これも聞き覚えのある声だった。振り返ると、三軒隣りの十兵衛どんの女房、タヅだった。
「タヅさん……」
しかしタヅも、俺のことを汚いものを見るような目で見ていた。
また後ろから、今度は信吉の声が飛んだ。
「桃太郎、おぬしぁ、鬼であることを、これまでよくも黙ってこの村で生きてきたな」
「いや、信吉どん、俺は鬼では……」
ガッ。
今度は少し大きな石が俺の背中に命中した。
「痛ッ!」
俺は顔をしかめてのけぞった。
「何を言っておる、ではその頭のツノはなんじゃあ」
「そうじゃ、皆、聞いていたか。この緑鬼が死ぬ前に、桃太郎を、『弟よ』と言うておった」
「鬼じゃ、鬼じゃ、桃太郎は鬼じゃ」
そうはやし立てると、また村人からバラバラと礫が飛んできて、俺の身体にガツガツと当たった。
「違う、違う、ちょっと待て、俺の話を聞いてくれ」
痛みに耐えながら俺は否定する。
しかし、俺が否定すればするほど、村人のざわめきは大きくなっていった。
「まさしく鬼じゃ。なるほど村一番の力持ちなはずじゃあ。鬼なのだからなあ。こやつ、今までわしらを監視しておったのか」
「違うと言っておろうが!」
俺も声を荒げる。
だが多勢に無勢、いくら否定しても駄目だった。
誰かが大声で言った。
「そうか! それで桃太郎の家はこれまで鬼に襲われなかったのか。鬼の棲む家ゆえ」
すると村人の
「
村長の女房が再び血相を変えて、保己一に食ってかかった。
「馬っ鹿言うんでね。あのような口からの出まかせ、間に受けてどうするのえ」
村長は慌てた様子で矛先を俺に逸らした。
「おい桃太郎、わが孫どもはどうした。まさか、道中喰ったのか! おのれ、返事によっては容赦せぬぞ」
村長の台詞を聞いて、さらにざわめきが大きくなった。
「喰ったぁ?」
「喰ったのか、まっこと?」
村の若手衆が一斉に俺に向けて鎌と鍬を構えた。
俺は皆のあからさまな敵意を肌身に感じ、うろたえて村長に言った。
「村長! 何を馬鹿なことを。喰うわけがなかろう。金太と銀次は浜辺の村で俺を待っておるはずだ」
「『はずだ』とはなんだ! だいたい、猿も犬も雉も伴わず、なぜ一人で戻ってきた。これなる鬼どもと共謀してこの村を襲いに来たか」
頭がクラクラするような村人たちの言葉であった。
「馬鹿を申すなと言うに! 俺はこの村を守りに……」
「わしらにばれたゆえ、予定を変更して同士討ちをし始めたのではないのかよう」
俺は歯噛みした。
――何という理不尽な……。
茂吉が言う。
「桃太郎、ではお前の頭に生えているそれはなんだ」
俺は言われるがままに頭頂部を触った。指摘されるまでもなく、そこにははっきりと硬いツノが二本生えていた。俺は口をゆがめた。
「聞いてくれ。俺は皆の知っている桃太郎だ。俺は、桃から生まれた。そしておじいとおばあに拾われ、この村で育った。ゆえに、この村を、田原村を愛しておる。それで充分であろう。俺が鬼か人間かなど、関係ないではないか」
村人はそれを聞いて一瞬静まり返った。
突然、丘向こうの
「おうい、与兵衛どん、トメさん」
村人たちがみな戸口の方を向いた。無論俺も。
――おお、おじい、おばあ、気がついていたか! 大事なくて良かった。
俺はついさっき、いまわの際のハヤトに、おじいとおばあを大事にするように頼まれたことを思い出していた。怖い思いをさせたが、これからはもう悪鬼どもに襲われる心配もなくなった。これで幸せに暮らせよう。
伝吉がおじいとおばあに言った。
「おんしらの育てた桃太郎は、実は鬼であった。ぬしらはそれを知っておったのか?」
「い……いや、知らなんだ。わしらも今、驚いて……」
おじいは俺を見て目を見張ったまま、もごもごと語尾を濁した。答えからして、さきほどからの顛末を向こうで見守っていたらしい。
「おじいッ、おばあッ、俺だ、桃太郎だ。無事帰って来たんだ」
俺はホッと笑顔になって、おじいとおばあの方へ歩み寄ろうとした。
「ならぬ!」
その俺の前に立ちはだかったのは、村長と、鎌や鍬を持った若い衆だった。
「桃太郎。お前は、人間として、鬼ヶ島へまっこと鬼退治に渡ったものの、鬼に籠絡、感化されて帰ってきたのか、あるいはここを発つときより既に鬼であったが隠しておっただけなのか、それはもはや関係ない。肝心なことは、お前が、供の者も連れ帰らず、奪われた宝物も持ち帰らず、これら凶暴な鬼を先に村を襲わせたことじゃ。何よりお前は、わしの大事な金太と銀次を喰いおった」
「違う! 俺は……」
前のめりになる俺の身体は、若い衆が遮った。俺の声は村長が遮った。
「問答無用じゃ」
村長はそう言うと、おじいとおばあを振り返った。
「与兵衛、トメ……答えによっちゃあ、一大事になるが……」
そう前置きして村長は言った。
「お前たちは、これなるツノのある生きものを、鬼と知った上で、桃太郎と名付け、育てておったのか」
村人はしんと静まり返った。
俺は唾を呑みこんだ。
喉がからからに乾いていた。
おじいは、村長を、いや、そのすぐ後ろにいる俺を見たまま、口をかすかに動かした。だが何を言わんとしているのか、誰にも聞こえなかった。
「与兵衛ッ!」
村長の鋭い叱咤におじいはビクッと身体を震わせた。
おじいはうつむいてつぶやくように答えた。
「しッ、しッ……知り申さぬ。そのような鬼は」
「おじい……」
俺は口がぽかんと開いた。前のめりによろめきかけたが、若い衆が俺を鍬の柄で突き戻した。俺は抵抗する気力もなく、顔をおじいとおばあの方に向けたまま、その場に立ち呆けた。
「トメッ!」
村長が今度はおばあに問いかけた。
「これなる鬼は、お前が育てた者か」
トメはおじいと目を見合わせた。
――おばあ……。
俺は立ち呆けたまま、俺を睨みつける若い衆の肩の間から、ぼんやりとおばあを見ていた。
「いいえ、おらぁ、鬼など育てもうさぬ」
おばあは、村長を見上げてそう言った。
「では、この鬼はお前たちの子ではないということじゃな」
「はい」
「与兵衛、まことか」
「はい」
それを聞いて村長は、振り返って俺を見た。
ぞっとするほど、冷たい目だった。
この瞬間、俺は人間ではなくなり、人間は鬼になった。
村長は俺を見据えたまま、隣りの若者が手にしていた棒を取ると、やにわにその棒の先で俺を突いた。
「鬼ッ! よくもわしらをたばかったな。孫を返せッ!」
俺は突かれた反動でよろめいて尻もちをついた。それを合図に、取り巻きからバラバラと礫が飛んできた。
「出て行け! 鬼め」
俺はたまらず頭を抱えてその場にうつ伏した。その俺の尻といわず背中といわず、村人は棒で
「お前、『田原村を愛しておる』と言うたな、愛するとは何だ? 鬼のことばで、狙うておるということか。こ奴、ついに鬼の尻尾を現わしおったわい」
「ということは、子鬼の頃から村に自分に敵うものがないのを確認しながら、虎視眈々と村を狙う機会をうかがっておったのか」
俺は目を閉じて、頭を抱え、うずくまりながら、ハヤトを想い、ユラを想った。
俺は、ハヤトだ。お前は、誰だ?
人にも鬼にも、善悪それぞれございますゆえ。
――俺は良き鬼か、悪しき人間か。鬼とは、何だ? 人間とは……?
ごつッ。
拳ほどの石が一つ、俺の両手をかいくぐって、頭頂部に命中した。悶絶するほど痛かった。思わず手をずらして、石が当たったあたりに触れてみた。そこにはツノがあった。ツノに触れると、たまらぬ痛みが走った。片方のツノが折れかかりながらだらりと血を流していたのだった。
俺は、うつ伏せのまま、地面に鼻つらを当てて、泣いた。声を押し殺して泣いた。鼻水が糸を引いて、地面に垂れ落ちた。泣きながら、俺は思った。
――ここは、俺が草鞋の紐を結び間違えて、キヨを抱いた、ちょうどその場所ではないか……。
石礫や棒による殴打が止んだ。
声のない慟哭は、村人から見ると、当たりどころが悪くて全身が一定間隔で痙攣しているように見えたかも知れない。頭から血を流してうずくまる俺は、もはや人間ではなく、鬼ですらなく、血と汗と涙と鼻水と泥と疲労にまみれた、醜く忌むべき一個の塊りとなっていた。そして塊は、うずくまったまま身体を震わせて、笑っていた。
クッ、クッ、クッ……。
頭の上で、誰かの、幾分
「おい、鬼。命だけは助けてやる。早よう村を出て行け。鬼は鬼の棲む島へ帰るが良い」
俺は頭からの流血で血まみれの両手をようやく地面について、震えながら、ごくゆっくりと、顔を上げて、前を見た。俺を取り囲む村人の足の間を縫って、三間ほど向こうに、上半身を起こしてこちらを見ているキヨが見えた。
別の誰かが言った。
「何で、桃から、人間なぞ生まれて来るものか」
俺はむくりと起き上がった。村人の輪が半歩分、広がった。
その瞬間。
俺は疾風の如く数歩を駆け、目の前の人垣を突き飛ばして、その向こうのキヨに手を伸ばした。
「きゃあッ!」
俺はキヨを力に任せて脇にひょいと抱えた。
「あれえ」
キヨは半狂乱になって暴れた。キヨの手が俺の顔を引っ掻いた。その弾みで、俺の鉢巻が額からずれ落ちた。桃印を巻いていない俺の形相は、もはや鬼そのものだった。
俺は、俺に向けて一斉に農具を構える村の連中に振り返って言った。
「俺は、桃から生まれた、桃太郎だ」
ハヤトの伝言は、おじいとおばあには伝えぬことにした。
暴れるキヨを脇に抱え、地蔵の木へ続く道を、俺は一目散に駆け出していた。
(了)
何で、桃から 今神栗八 @kuriyaimagami
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