何で、桃から

今神栗八

第一章(1)

   一


 雪隠の穴に尿いばりを放ちながら、俺はさっきの猿ノ助の言葉を反芻していた。


「あのじじとばばは、あんたを本心から大事には思っておらんよ。村人の勝手な期待に、思ったほどは反対しなかったのだろう? 当然よ、血がつながっとらんのだからな」


 さっき、おばあが差し入れてくれたきび団子を、猿ノ助は片膝立てたまま無遠慮に口に放り込み、クッチャクッチャと音を立てながら、のうのうとそう言ってのけた。


「しょせんあんたは、桃から出てきた、身元不明の輩に過ぎぬということよ」


 猿は、俺の癇に障る決め台詞を吐いておいて、濁酒どぶろくの猪口をクイとあおったのだった。


――なら……ならどうしてここまで育ててくれた?


 一物いちもつをしごいて残尿を絞り出しているところへ、カササ……と耳元をかすめて行った大蚊ががんぼが、明かり取りの小窓から明るい夜空へ抜けて行った。用が済んで丸めていた背中を伸ばしてみると、低い空に、昇って間もない満月が見える。


 猿はこうも言い放った。


「力持ちで世に聞こえたあんたが、いよいよ鬼どもの征伐に行くと噂に聞いて、俺はここへやってきた。いいか、桃の兄貴。俺は勝ち馬にしか乗らねえ。あんたなら奴らを制圧してお宝を取り戻せるかもしれないと俺は踏んだんだ」


――いざ鬼との決戦で、その「桃の兄貴」が勝てそうにないと分かったら、猿、お前はどっちの馬に乗るんだ?


 その猿への用心から俺は、たかが小便に愛刀景光かげみつを携えてきていた。厠の壁に立てかけておいた景光を手に取ると、濡れ縁を歩いて部屋へ戻ろうとした。


 おじいとおばあは、今夜は好意で、母屋を俺と客人たちのために提供してくれている。自分たちは客人の食事と風呂を世話したのちは、酒と黍団子を差し入れたのみで、厩に引き下がっていた。すでに床に入ったのか、厩から漏れる光はなく、ひっそりと静まり返っていた。


 灯心を二本に増やした菜種油の燭台の光が、開け放たれた部屋の木戸から濡れ縁へと差している。俺が木戸の陰から顏を出そうとしたそのときだった。それまで部屋で酒をやりながら明日のことをぼそぼそ話し合っていたはずの客人の一人、雉右衛門きじえもんが、突如、甲高い声で鳴いた。


えーかっ!」


 それは静寂を打ち破り、刹那に一里を飛んで、こだまとなって響き渡るほどの大声であった。


「お、お、お、鬼かっ、出たのかっ」


 木戸の陰で俺は腰を抜かして後ろにのけぞっていた。


 しかし、その雄叫びの後には、何の悲鳴も物音も続かなかった。厩のおじいおばあが、外に飛び出してくるけはいもなかった。ただ遠くで蛙どもが鳴くのみである。


――小便、出しきっておいてよかった。


 ややあって、俺はようやく震えが止まった。景光を支えに濡れ縁から起き上がり、部屋に顏を出して、何も起こっていないことを確かめた。そして、声を押し殺しつつも雉右衛門を強くたしなめた。


「シーッ! いま何刻なんどきだと思っているんだ」


 見るとそこに雉右衛門が一人、こちらを向いてきょとんと胡坐をかいていた。


「いや済まぬ桃どの。興奮するとつい……」


 頭を掻く雉右衛門の前に座りながら俺は言った。


「鬼が来ておって声を聞きつけたら何とする。して、猿ノ助どのと犬吉どのはどうした」


 仄暗い部屋の四方に目を凝らすと、猿ノ助は忍びのように部屋の上隅に飛びあがって、爛々とこちらを覗っていた。犬吉に至っては、部屋の隅に置いてあった、陣羽織を包んだ風呂敷に、隙間から頭を突っ込んでいた。そして、隠れきれず突き出た尻の尾を、内向きにぴたり体に沿わせて、いまだ震えていた。

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