第九章(5)
五
雉右衛門に力強く頷いた俺は、背後の変化に気づき、ハッと後ろを振り返った。再び鬨の声が静まったからだった。紅葉の妖術のために活気づいていた敵勢が今、憑き物が取れたように滑稽なほどきょとんとした様子で、振り上げた剣を下ろしていた。その様子に、寄せ手である鬼ヶ城軍も拍子抜けして戦いを停止するありさまであった。
「ハヤト……同士討ちが止んでおるぞ」
俺は四つん這いで荒く息をしているハヤトに後ろを示した。
一方、紅葉に駆け寄ったイットゥは、しかし紅葉を助け起こそうとはしなかった。もう助からぬと見切ったようだった。足元で、手を伸ばして助けを乞いながら刻々と死相を深めていく紅葉を、イットゥは立ったままじっと見下ろしていたが、突如、憤怒の表情に豹変したかと思うと、紅葉の胴体を力任せに蹴った。
ドッ。
紅葉は口からも、かはッと血を吐いた。
上空間近に滞空していた雉右衛門も、さすがに目を逸らした。
「このたわけが! うぬは、わが企てにまだ役に立つ女だったのに、油断しおって」
妖術使い紅葉は、目を開けたまま動かなくなった。イットゥは紅葉から顔を上げた。
「うぬぅ、京へ攻め上る俺の企てをことごとく邪魔しおって……」
次の瞬間、雉が鳴いた。
「怖えーッ!」
大丈夫だと自分では思っていた高さで空中滞留し、心の中で紅葉に手を合わせていた雉右衛門が、危ういところでイットゥに握りつぶされそうになったからだった。雉右衛門は、慌てて、より高く飛び退って、辛うじてそのごつい手から逃れたものの、なぜイットゥの腕がここまで伸びてきたのか分からず、衝撃を受けていた。イットゥは、高床の物見台から大きく跳躍していたのだった。素晴らしい跳躍力ながら、すんでのところで雉右衛門を握りつぶし損ねたイットゥであったが、そのまま直接俺とハヤトの前に着地した。
同時に。
「しゃあああッ!」
着地の衝撃を吸収するために膝を屈する動作は、大薙刀を俺に向けて力任せに振り下ろす動作と一体で為された。あの大きな図体についた逞しい腕が、二階の高さより飛び降りて来る勢いの中で、握っている大薙刀を振り下ろしたのだから、直撃していれば俺はひとたまりもなかっただろう。危ういところで俺は、ハヤトから遠ざかる方向にサッと逃れた。イットゥの大薙刀は、小石を弾き飛ばして地面に刺さった。薙刀の刃はそのまま水平に方向を変え、俺をなぎ倒そうとする。
「ひょっ!」
俺は必死で跳び上がった。大薙刀は辛くも俺の足の下でぴゅうと
すると剣を失ったハヤトが素手でイットゥの背中に組みついた。イットゥの体躯はハヤトより一回り大きいので、ハヤトにしてみれば、羽交い絞めといっても、イットゥの背中にまとわりついているような感がある。それでもハヤトは、傷の痛みに歯を食いしばってこらえつつギリギリと締め付けて、この紫鬼の自由を奪った。
「桃太郎、早うしてくれ!」
「おりゃあ!」
もちろん心得ていた俺は、景光を奴の腹に突き立てるつもりで、叫びながらイットゥの懐に飛び込もうとした。するとイットゥは姿勢を低くして前屈し、ハヤトを背負い、さらに頭を越えて俺が突っ込んでくる方へハヤトを逆落としにした。ハヤトは傷のせいで踏ん張れず、その両手がはがれて、イットゥの意図した通り、俺の目の前に崩れ落ちた。俺は突きだした景光の切っ先を危うく逸らし得たものの、体勢を崩してハヤトに身体ごと突っ込んだ。
「あいたあ!」
イットゥは、ハヤトと団子状態になっている俺たちからすばやく一歩下がると、二人をまとめてぶった斬るべく、大薙刀を水平に振りかぶった。
「ぐわぁっ!」
だが叫んだのは、俺たちではなく、イットゥの方であった。イットゥは薙刀をその場に落とし、ひっくり返って、叫びながらその辺りをのたうち回った。叫んだ理由が俺の目にも見えた。イットゥがバタバタさせているその足首に喰らいついて振り回されていたのは、隻眼の勇者、犬吉だったのだ。
ハヤトは脇腹の傷に加えて、逆落としされて頭を打ち、俺に衝突された。文字通りぐうの音も出ず、ほとんど気を失いかけていたのかもしれない。
俺はそのハヤトの体を押しのけて立ち上がり、素早く周りをうかがった。
近くにはもはや敵味方共に少なく、浜辺の方が主戦場になっていた。一刻ほど前は縦横無尽に暴れ回っていた悪鬼達は、もう全て退治されていたし、緑鬼たちは妖術が解け、戦意喪失してその場に立ち尽くしていた。敵の羅刹や牛鬼どもは、まだ鬼ヶ城軍と闘っていたが、大勢はすでに決しかけていた。
「桃どの、早よう!」
上空から雉右衛門が急かした。
周りに差し迫った危険がないことを察知した俺は、うずくまるハヤトをよけて、景光を構えつつイットゥの側へ回り込んだ。イットゥは、しつこく喰らいついている犬吉を何とか引きはがそうと躍起になっていた。いよいよ顎の力が尽きかけたか、振り回されるがままの犬吉の片眼が、後を頼むと請うような視線を桃太郎に送ってきた。
「犬どの、よくやった!」
俺が答えた次の瞬間、犬吉はイットゥの噛みつかれていない方の足で勢いよく蹴りつけられ、キャイーンと鳴きながら向こうに飛んでいった。
「犬吉どのッ、大丈夫か!」
雉が犬吉のそばに舞い降りた。ゴロゴロと転がった犬吉は、血だらけの歯を見せて、心配する雉右衛門にニカッと笑いかけた。
「大丈夫だ。かつて悪鬼に目をやられた仕返しに、俺ァ、イットゥの目をやってやろうと思ったんだがな。結果的には『目には足を』になってしもうた」
上体を起こして血だらけの自分の足首を見たイットゥはますます激した。
「おのれェ」
そこへ俺が景光を振りかぶってイットゥに斬りつけようとした。イットゥは素早く傍らの薙刀を手に取って一閃を防いだ。しかし、柄のかなりの部分まで景光の刃先が喰いこみ、薙刀は柄の中ほどから折れる寸前だった。
イットゥは素早く立ち上がり、跳び退ったが、犬吉が与えた損傷は確実に効果があった。イットゥは踏ん張れず、ガクリと膝を突きかけたのだ。思わず支えに突いた薙刀の柄は、イットゥの体重を支えきれずにポキリと折れた。
イットゥが、ぐったりしているハヤトから離れたことで、俺は遠慮なく刀を振り回せる状態になり、敢然と手負いのイットゥに闘いを挑んだ。イットゥの表情にもはや余裕は感じられなかった。奴も必死なのだ。
「イットゥ、いざ!」
「うぬぬ……」
イットゥは折れた薙刀を打ち棄て、足を引きずりながら横に走った。そしてメルゲの亡骸の傍らに落ちていた剣を手にした。俺が斬りかかると、イットゥはメルゲの剣で防ぎ、力いっぱい押し返した。その力に負けて俺が後ろによろめいたところで、イットゥは、どうしたことか俺に斬り返して来ず、逆に退却を始めた。すなわち、砦へ戻り始めたのだ。
俺を誘うように、イットゥは砦の一階の扉に向かって、足を引きずりながら駆けていった。俺は犬吉を介抱している雉右衛門の方を見た。
――なるほど、こんな見晴らしの良い場所で俺と闘うと、また他の敵に襲われるからか。
合点がいったが、俺は敢えて誘われるがまま一人、砦へとイットゥを追いかけて行った。
砦の中ではイットゥ以外、悪鬼は見かけなかった。
紅葉の手下の女子衆や、昨日俺やハヤトが鬼ヶ城二の門で重傷を負わせたガダムとダガムなど、非戦闘員や負傷者が、どこか奥の部屋で息をひそめて隠れていることは考えられた。だが、俺たちが奇襲をかけてくることを予測して、逆に伏兵を配置するほどだったのだから、むしろ砦が戦火に見舞われる可能性も考えて、女子供、負傷者、年寄りなどは、山奥に避難させているのかも知れなかった。いずれにしても、不意の人影、いや鬼影などに注意を払う余裕など、今の俺にはまったくなかった。イットゥと俺との、砦の中での一対一の決闘は、熾烈を極めていたからだ。明けてなお薄暗い屋内で、イットゥの剣と俺の刀がぶつかり合い、激しい火花を散らせた。闘いの中で俺も身体のあちこちに切り傷、擦り傷を増やしたが、イットゥは足首に深い傷を負いながら、なお驚異的な強さを保ち得ていた。
――一瞬でも気を緩めた方が、負ける……。
それは、体力と共に、性根を尽くした闘いであった。
俺は頭頂部に怒張を感じ、同時に勃起していた。この島が持つ、何か不思議な力が、ツノから無限に供給されている気がしていた。そしてそれは生命力に形を変え、さらに俺の鉢巻によって増幅される。増幅された生命力は、体中にみなぎる。今のような危機に際しては、その生命力は、あるいは子孫を残すべくわが
今も、イットゥが俺を組み伏せて、剣で押してくるのを俺が懸命に刀で押し返していたのだが、身体が二回りも大きいイットゥの力に互角に対抗しているわが力に、俺自身が驚いていた。
イットゥがその恐ろしい形相で、至近にある俺の顔を見すえて言った。
「桃太郎、アカギとアオジは、昨夜のうちに島を出たゆえ、今日中には貴様の田原村に着くであろう。貴様の村は全滅する。残念だったな」
俺は内心驚いた。昨夜のうちに発たせるということは、こ奴らが計画していた鬼ヶ城攻めにも参加しないということである。なぜ大事な戦いを前に、二頭もの戦力を割いて俺の故郷の村を襲わせる必要があるのか。
俺は渾身の力を込めてイットゥを押し返すと、奴の傷ついた方の足を蹴り、反射的に身をかがめようとするイットゥを逆に壁に押し付けた。
ガキッ!
再び刃物同士が火花を散らした。
十文字に重なった剣越しに俺が低い声で言った。
「その前にここで、俺がお前を殺す」
イットゥは片頬を引きつらせてせせら笑うと、次に眉を逆立てて俺に答えた。
「それはまた別問題だ。俺の生死に関わりなく、貴様の大事な縁者はアカギとアオジによって、なぶり殺しに遭う。貴様がこの島へ来たせいで、この島を征服して京の都へ上ろうとする、この俺の遠大なる企てが滅茶苦茶になった。ゆえにその報いで、貴様の縁者は苦しんで死ぬるのだ。桃太郎よ、貴様が殺すようなものだ。せいぜい苦しめ。そして不用意に俺にたてついたことを一生悔いろ」
今度はイットゥが俺を押し返し、よろめいて後ずさった俺の目に、刃先をピタリと据えた。
「桃太郎、間もなく俺に斬られるまで、せいぜい身と心の両方で痛みを感じるが良い。いくぞ」
俺は剣を交えながら、上洛への企てがその前段階で頓挫した怒りに燃えるイットゥに逆に追い立てられるようにして、砦の階段を後ろ向きに二階へと登って行った。
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