第九章(6)

   六


 薄い雲に覆われながらも、朝の光はすでに島の隅々まで行き渡っていた。寄せ波は小磯に当たって小さく砕け、わずかな水気を潮風に引き渡しては消えていく。柔らかな陽光と磯の香を孕んだその潮風を、深呼吸して堪能したいと思わせる、それほど穏やかな朝の風景であった。もし、砂浜に点在する悪鬼軍の、赤黒い血にまみれた死体の累々たるを目にしなければ。


 俺を追い上げながら階段を登り、開いた扉から、広々とした高床の物見台に再び登場したイットゥからすれば、この光景は、惨憺たるものに見えたに違いない。


「むう、何とここまで……」


 わずかの間に、悪鬼軍はほぼ壊滅していた。悪鬼軍は、寄せ手である鬼ヶ城軍に、もともと数では劣っていた。しかし、イットゥにしてみれば、奇襲を読み、伏兵を配置し、敵が罠にはまるのを手ぐすね引いて待っていた悪鬼軍に充分、勝算があったのだろう。だが、強者であった黒の悪鬼どもは、俺が考えた組織的攻撃に遭って壊滅したし、紅葉なる女妖術使いが死んで、緑鬼たちは戦意を喪失した。牛鬼、邪鬼、羅刹どもは健闘したが、それとて数に勝るわが鬼ヶ城軍の、天狗、夜叉、猩々どもに最後には圧倒された。茫然としたイットゥとは反対に、俺は同じ光景を見てわが軍の勝利を確信した。


 遠く波打ち際に鬼ヶ城軍の緑鬼が三々五々集結している。味方にも少なからぬ損害があり、安全な場所に負傷者を集めて手当てをしているようだった。砦のほど近くの砂地、先ほどまで俺がいたあたりに、ガムガラと方相氏が若干の味方を伴って近づいてきているのがちらりと見えた。


 その中に雉右衛門と犬吉もいたので、雉と犬がハヤトの負傷と、俺とイットゥの決闘を知らせに行ったのだろう。ゆえに味方の目的はハヤトの手当てであり、俺への加勢である。


 攻防の寸隙を縫って、駆け寄った物見台の際から見下ろし、それを理解したイットゥは、まさしく鬼の形相で俺を振り返った。


「邪魔が入らぬうちに貴様だけは始末してやる」


 イットゥは雄叫びを上げて俺に向かってきた。俺は身体を躱して相手の勢いを逸らせつつ、刀を右に左に構え、振りかぶり、突き上げた。


「ふん、えいッ!」


「うがあッ、たぁッ!」


 上洛の夢破れたイットゥは、異常に強かった。俺は次第に防戦に努める中、あちらを斬りつけられ、こちらを突かれして、満身にみるみる創痍を増やしていった。


「喰らえッ!」


 イットゥが決め手とばかり剣を突きだしてきたものを、俺は身体を引いて躱そうとしたのだが、そのとき、何かに躓いて尻もちをつき、そのまま仰向けに倒れてしまった。


「おっとっと……」


 倒れぬよう腕を回して釣り合いを取ろうともがいたとき、俺は不覚にも手にしていた景光を手放してしまった。


「ああッ……」


 景光はカランコロンと二度ほど床を弾むと、こともあろうに高床の欄干の間から地面へと落下していったのだ。


――これは、本当に、死ぬかもしれぬ……。


 そうよぎった俺の頭には、強烈な痒みが走った。無我夢中に起き上がろうとしていて、たまたま間近の視野に入った女性にょしょうの顔に俺は驚いて、思わず言葉が口をついて出た。


「キヨ……」


 外傷のない、美しいキヨの死に顔がそこにあった。


――俺はキヨに躓いたのか……。


 もしかして、キヨの魂が、「死ぬならおらのそばに来い」と、俺を呼んだのか。


一瞬弱気になりかけた俺だったが、考え直して籠手で目のあたりを横殴りにぬぐった。


――いや、これはキヨではないはず。紅葉は死んだのだ。しっかりせよッ、桃太郎!


 俺は自分に喝を入れながら、目をぬぐったその手でわが額を小突いた。


 そこには、鉢巻があった。


 キュッ。


「あッ」


 まさに死の瀬戸際にあって、俺は、自分の身体を雷が貫いたように感じた。村を発つときに感じた衝撃と同じものだった。ツノは天を衝かんばかりに屹立し、股間は極限まで怒張した。魂の底から言葉ならぬ言葉が瞬時に湧いてきた。


――生きる!


 今、俺はせいの絶頂にいた。


「死ねッ!」


 イットゥの剣が唸りを上げて俺の眼前に向かってくるのを、俺は何かしら時間が著しく伸ばされたように感じた。唸りを上げつつも、ゆっくり向かってくるのだ。俺は余裕をもって、身体をごろりと横向きに一回転させた。イットゥの剣は、今俺がいたところの高床に、斜めにめり込んだ。


「おのれッ」


 イットゥは、剣を床から抜いて、再び俺に斬りつけるために一歩足を踏み出そうとした。


「あッ、あ痛たたた!」


 激しい痛みにイットゥは慌てて自分の後足を振り返った。そして、ぎょっとして上体をのけぞらせた。


「うおッ!」


 犬吉に腱を噛み切られかけたイットゥの後足首に、再び何かが取りついていた。


 それは、目を開けたまま、とうにこと切れていたはずの、紅葉の手だった。


 紅葉は、身体は横たえたまま、異様にも黒目だけが爛々と生気を取り戻し、たまたまその手に触れたイットゥの、流血している足首をぐいとつかんでいたのだった。


「はッ、離せッ、この死に損ないが!」


 身体は動いておらぬ。口ももはや動いてはおらぬ。だが、足をバタバタさせて紅葉の手を振りほどこうとするイットゥのうろたえた姿を、紅葉はその両の黒目で、まばたきもせずはっきりと追っていた。


 俺も驚いた。


――まだ、見えているのか。それとも手の筋肉の単なる反射なのか。


「化けものめッ!」


 親指と他の四指が犬吉の噛み跡にがっしりと喰いこんでいる紅葉の手首を、イットゥはついにバッサリと斬り落とした。その間に俺は起き上がって素手で身構えた。すると、俺の真横に、床板に突き刺さったままの、ハヤトの剣があった。


「おお!」


――南無八幡さま! 助かるやも知れぬ……。


 屋内の階下から俺を呼ぶ方相氏の声が聞こえた。


「おうい、桃太郎どの、今助けにまいるぞ!」


 すると、もっと近くの屋内の暗がりから、独り言らしき別の声が聞こえた。


「クソッ! せっかく拾い集めた宝の玉なれど……」


 俺がハヤトの剣を構えたとき、無数の念珠の球が床をザラッと転がってきた。


――猿か!


 屋内の暗がりから物見台にひょいと出てきて、紅葉の念珠玉をばらまいた猿ノ助の姿が俺の視野の隅っこに映った。


 イットゥが叫んだ。


「桃太郎、これで最後だッ!」


 足首に喰いこんだ紅葉の指をついに引き剥がし得ず、恐怖と憤怒と、あらゆるものに対する憎悪に満ちた紫の悪鬼イットゥは、足首に手首をつけたまま、切っ先を俺に向けて突進してきた。


 そして、念珠玉を踏んだ。


 イットゥは、もんどり打ってひっくり返った。


「ハヤト、望み通り、お前の剣でとどめを刺す」


 俺は渾身の力を込めて、ハヤトの剣を仰向けのイットゥに突き立てた。


 ブシャア!


 ハヤトの剣は、イットゥを貫き、高床に突き刺さった。俺の全身が返り血を浴びた。


 痙攣するイットゥの先で、俺の目に入ってきたのは、もはやキヨではない、サエの緑色の肌をした亡き骸だった。


――サエ、気の毒なことであった……。


 俺のツノの怒張が幾分和らいだ。


 俺は、もう抵抗できる力を持たぬイットゥに話しかけるために片膝ついた。


「イットゥ、お前、わざわざ俺を苦しめるためだけに、アカギとアオジを村に遣わしたのか」


 イットゥは力なく首を振った。


「アカギとアオジは、自ら俺に願い出て田原村に向かったのだ。最後の里帰りと称して、な……」


「何? 最後の里帰りとはどういう意味だ」


 俺から目を逸らし、イットゥは、雲が晴れてきた青空を見やった。


「貴様が分からずともよい」


 そのとき、砦の階段を上がって来て、呼びかける声が聞こえた。


「おい、桃太郎どの、大事ないか」


 方相氏が二人の緑鬼を引き連れて加勢に来たのだった。俺はイットゥの最後の言葉を聞きたくて、三人を手で制した。一見して状況を把握した方相氏は心得てその場に控えた。


 方相氏に従って上がって来た緑鬼たちは、サエの遺骸に駆け寄って行った。


 イットゥは、もう見えてはおらぬであろう俺に、諭すようにつぶやいた。


「桃太郎、もはや貴様には帰るべき家はない。しかしそれも宿命なのだ。所詮、貴様も、人間とは相容れることのない、鬼なのだ……」


 俺のツノを見ながら鬼の宿命を皮肉った後、イットゥは次に虚空を見つめ、優しい顔になった。


「いざ、懐かしき大江のお山に帰ろうぞ」


 そう誰にともなく言い残し、ゆっくりと、目を閉じて、ついに、こと切れた。


 俺は、なるほどと合点した。そしてその場で手を合わせ、畿内からの逃亡後、イットゥと改名して、今日まで再起、再上洛の計画を進めていた、かつての酒呑童子しゅてんどうじの成仏を祈った。

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