第七章(3)

   三


 袴の腰紐を巡らせるのに要領を得ず、俺はぐずぐずしていた。それを見ていたユラは、ため息をつくと、俺に歩み寄って、回り込んでひざまずいた。俺の手から帯の先を受け取って、やりなおし始めた。


「かたじけない」


 しばらく無言の時間が流れた。俺の後ろで帯をごそごそしていたユラが、その手を一瞬やめて、口を開いた。


「あなたさまがわたくしに、一緒に逃げようと言われた、その真意は分かりました。ですが、あなたさまは思い違いをしておられます」


 俺も直立したままで答えた。


「そうか……。済まぬが、俺のどこが間違っておったのか、教えてはくれまいか」


 ユラは立て膝のまま俺の前に回り込み、帯を回しこみながら答えた。


「桃太郎さま、この間、お前は愛を知っているか、とわたくしにお問いかけになりましたね。本当のことを申し上げます。ユラは、ハヤトさまを愛しております。ハヤトさまもユラに愛を注いでくださいます」


 俺は、この腹の中のどこかの臓物に蛸が棲んでいて、墨か何か、黒いものを、ドクッと俺の腹の中に吐き出したように感じた。ちょうど、着物の上からユラが俺を触っているあたりだった。何か長い言葉を言えば、言葉に吸い上げられてその黒いものが胃の臓から逆流して口まで上がってくる気がして、俺は短く、「そうか」とだけ答えた。


「桃太郎さま、あなたさまはご立派な男子おのこでいらっしゃいますが、あなたさまのお世話をいたしましたのは、わたくしの意志ではなく、お方さま、鬼婆さまの命でございました」


「そうか」


「あなたさまが言われたように、わたくしは赤子の頃にこの島にやってきたそうです。この島で育つにつれて、わたくしにはツノが生え、肌の色は緑がかってきました。おそらく、わたくしにも、ご先祖から鬼の血が引き継がれていたのかもしれませぬ。それが、この島の力で、だんだんと表に出てきたのでございましょう」


「そうか」


「そして、あなたさまもご存知のように、ハヤトさまも肌が緑色を帯びております。種族の歴史の経験として、非常に凶暴な鬼ができる組合せのひとつが、肌が緑の鬼になった者同士の子なのだそうです。それで、お方さまの厳命により、ユラはハヤトさまの子をもうけることができませぬ」


「……そう……か」


「ただ、わたくしたち種族は、外の血を入れないと、いずれは滅びてしまいますゆえ……それゆえ、お方さまは、ユラが、桃太郎さまと同衾し、そのお種を腹にいただくようにとわたくしに命令なさいました」


「……そう……で、あったか」


 俺は足をしっかり踏ん張り直した。腹の蛸は立て続けに黒い毒を吐いていた。俺はクラクラして吐き気がし始めていた。ユラは「鎧、胴丸は、いかがなさいますか」と問うた。俺は「頼む」と答えるのが精一杯だった。もはやユラの顔を見ることすらできなかった。ユラは俺が鬼ヶ島に来た日に着けて来ていた鎧一式を出してきて、俺に着け始めた。


「恐れながら、わたくしは桃太郎さまに抱かれるのはイヤでございました。ユラはハヤトさまだけの女子おなごでいたかった。わたくしは情けなくて、泣きながら、ハヤトさまにご相談申し上げましたら、ハヤトさまは、『あ奴には、まだ目覚めぬ素晴らしい能力が眠っている、俺はその前触れをこの目で見た。あ奴は、われらが待ち望んでおった男子かもしれぬ。桃太郎の血を引く子なら許そう。われらが種族全体のために、ユラよ、そうしてくれ』と言われました」


 俺は、ビクリとえづいて、思わず口を固く閉じた。さっき握り飯を喰っておったら、おえッと吐いていたであろう。全身に脂汗が噴き出た。口を閉じて大きく息をすると、鼻の穴からシューッと、恥ずかしいほど音が漏れ出た。


「わたくしはその後、もう泣くまいと決めて、あなたさまのお傍に上がりました。あなたさまが傷を癒されたら、お誘いして、できるだけ早く、あなたさまのお種をわが腹にもらい受けようと決めておりました」


 ユラは俺の左足につけた脛当すねあての紐をキュッと締めた。


「なるほど、俺は――」


 俺は生まれて初めて体験する感情に包まれていた。言葉を切らねば、俺の胸の奥に大きく場所を占めている、ユラに関する思いの、脈動するかたまりがどろどろに溶けて、口からドバドバと溢れ出そうになっていたのだ。


「――俺は……思い違いをしておった」


 ユラは、もうひとつの臑当を手に取ると、動きをやめてまっすぐ桃太郎を見上げた。


「わたくしは、もしハヤトさまがそうせよと仰せなら、毒をもあおりますし、他人とも同衾いたしまする」


「……」


「ただ……あなたさまは、お方さまの……いえ、われら種族の、切なる願いを――」


 ユラはそこで言葉を切って目を伏せた。そして、白い小袖の上から、自分の腹を撫でた。


「わたくしは、やや子が生まれましたら、ハヤトさまとユラの子として、お育て申し上げるつもりでございました。ただ、もし、こたびの戦に負けるようなことがあれば、わたくしは、腹のやや子と共に、海に身を投じる覚悟をいたしました。ですが……ですが、それなら……こんなことになるのでしたら、わたくしは……」


 ユラは桃太郎をきっと睨んだ。


「わたくしは、あなたさまに抱かれた時間が今は惜しい。あの時間を、ハヤトさまに捧げたかった。ハヤトさまに抱かれたかった。ハヤトさまのお種を腹にいただいたまま、ユラは死にたかった」


 俺はユラから目を逸らすことすらできなかった。ユラの目は、俺を内側からバラバラに引き裂いた。ユラは再びしゃがんで、俺の右足に脛当をつけ始めた。


「あなたさまは、おっしゃいましたね、鬼になってさぞや悔しかろう、さぞや自分の運命を恨んでおろうと」


「うん」


「わたくしは、自分が鬼であることを、悔しくなど思っておりませぬ。物心ついた頃から鬼の社会で育ってきましたゆえ。むしろ、わたくしを生んでおいて捨てた、人間社会に愛着などございませぬ」


 俺は、自分が分からなくなっていた。


「ユラは……ユラは、自分が鬼であることを気にしておらぬのか」


「気にしておりませぬ」


「もともとは人間の赤子だったことを知らされてからもか」


 ユラの手が一瞬止まった。ユラは、言葉を慎重に選びながら、答えた。


「鬼か、人間か……。わたくしにとって、それは、今の自分を決める拠りどころでは、ないように思いまする」


 ユラは籠手を手に取って立ち上がり、俺の腕につけ始めた。


「最初、わたくしの生みの親が人間だと聞かされたとき、その親はどんな人間なのだろうか、今もどこかで生きているのだろうか、どういう思いで夫婦めおとになって、どういう理由でわたくしを捨てたのだろうか――そのようなことの方が気になりました。わたくしはそもそも誰なのか。なぜ今、生きているのか」


「それで?」


 するとユラは手をやめて、初めて俺を見上げ、ニコリと笑った。俺は、心の雲間に陽が射す思いであった。


「今さら、親のことなど知りようがございませぬ」


 ユラは再び手を動かし始めた。


 しばらく沈黙があった。俺もユラもそれぞれ思いを巡らせていた。ユラがもう一方の籠手にかかりながら、口を開いた。


「桃太郎さま、あなたさまは先ほど、『俺が感じている、この思いは愛か』とお尋ねになりましたね」


「あ、ああ。しかし、ユラを怒らせてしもうた。すまなんだ」


「桃太郎さまは、ユラを愛しておられますか」


 俺の目を覗き込むユラの目があった。瞬時に、何とも表現しがたい、いかんともしがたい、張り裂けんばかりの、パンパンのかたまりが、ドクンと脈動した。


「ああ、愛していると思う。だが、最初に感じていたものとはまったく違う。それでも、これも愛なのかな」


 籠手を着け終えたユラは、俺の腕を陣羽織に通し、裾を持って、しゃんとなじませた。それからユラは一歩後ずさって、俺を上から下まで眺め、小さく「りりしや」と言った。そしてユラは、俺に向かってわずかに頭を下げた。今気づいたが、ユラのツノは元の通り、小さくなっていた。


 ユラは、敬礼したまま俺に言った。


「恐れながら申し上げます。桃太郎さまはユラを愛してくださっておりますが、ユラは、ハヤトさまを愛しておりまする。ご無礼ながら桃太郎さま、愛するものを失うお気持ちを、味わいなされませ。どうしても得られぬ望みの空しさを、味わいなされませ。それが、わたくしが、ハヤトさまを――生きて帰る望み薄き戦に、これからご出陣なさるハヤトさまを――どれほど深く想おうとも、ハヤトさまのお子を孕んで差し上げられぬ、ユラの気持ちと、おそらく同じでございます。桃太郎さま、愛とは、今あなたさまが感じておられる、まさにその感じだと、ユラは思いまする」


 それからユラは顏を上げ、優しく、柔らかな表情で俺を見て言った。


「わたくしの親のことは分かりませぬ。ですが、わたくしが生きていく上で、より大切なことは、わたくしが誰かを愛しているという事実だと気がつきました。桃太郎さま、愛は痛(いと)うございますね。ですが、その痛みが、ユラを支えておりまする」


 ユラは、小袖の懐から布の包みを取り出した。片手の上で包みを丁寧に開くと、桃の刺繍のあしらわれた鉢巻が折りたたまれていた。


「申し訳ありませぬ。何度も洗ってみましたが、どうしても血がきれいにとれませなんだ」


 ハヤトと拳を交えたときの血が白地に薄くにじんでいた。俺も頭から流血していたが、ハヤトも俺に殴られて血が出た口元を拳で拭っていたので、あるいは奴の血もここに混じっているかも知れなかった。


 ユラが言った。


「お母上さまか、ご姉妹か――。これは、桃太郎さまを愛しておられるどなたかが縫われたものでございますね。桃の刺繍の丁寧な仕事ぶりを見れば分かります。あなたさまの無事のお帰りを願うお気持ちが、よく伝わってまいります。これを巻いて、ご出立なされませ。道中のご無事を、お祈り申し上げまする」


「ユラ」


「はい」


「すまぬが、お許の手で、今、その鉢巻を俺に巻いてもらえぬか」


「……はい」


 ユラは俺に柔らかく微笑んで頷いた。初めて会った日に見たのと同じ笑顔だった。

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