第七章(2)

   二


 俺は一瞬あ然とした。


「手は、今洗ったところなのだが……」


 力が緩んだその隙に、ユラは俺の腕を素早く振りほどいて、俺の寝台から飛びのいた。その勢いで、盆が宙に舞い、載っていた握り飯のひとつが俺の伸びた腕にぶつかって、幾つかに割れて床に落下した。続いて盆が乾いた音を立てて床に転がった。落ちた盆から目を上げると、暗緑色あんりょくしょくに変わった顔色とは対照的に、くっきり黒く白く、涙をたたえたユラの二つの目が、吊り上がった眉の下で、燃えるように俺を睨みつけていた。ユラはわずかに口を開き、その下唇がわなわな震えていた。


「腹の……腹のやや子の実の父御ててごになるやも知れぬお方との、今生の別れゆえ、恨み言や悪言を申さず、おだやかに笑顔で送り出してやろうと、せっかく情けをかけてやっておるのに、この見下げ果てた卑怯者が、調子に乗って何を言い出すかと思えば――」


「ユラ……」


 ユラはいっそう眉を吊り上げた。


「下郎ッ、気安くわが名を呼ぶでないッ」


 ユラのツノが大きく、鬼らしくなっているのを見て、これは戯れ言ではない、ユラは本気で怒りに震えているのだと俺は悟った。


「お前さまが城から無事に出てゆくのを見届けよとの命が、お方さまからわたくしに出ている。供の者は後ほどわたくしが城門まで案内あないしようほどに、今すぐ着替えてここを出て行きなされ」


 俺は寝台から降りて床に立った。ユラは小袖の襟の合わせ目を両手で隠すようにして、いっそう壁に背中をつけて身構えた。


「早ようしなされ」


 汚いものを見るような目つきで、畳まれた鎧直垂をあごで示して、ユラは俺を急かした。俺はとにかくユラに向かって頭を下げた。


「ユラ、俺が悪かった。この通りだ」


 ユラは俺を見すえたまま、一度首を横に振った。


「言葉で謝って済む話ではありませぬ。あなたさまの本心を知ってしまった以上、わたくしがあなたさまを許すことはありませぬ」


「いや、ユラ。鬼婆から、お前は赤子の頃、人間であったのに、親に捨てられてここへ連れてこられ、ここで育つうちについに鬼になったと聞いた。鬼になってさぞや悔しかろう、さぞや自分の運命を恨んでおろう、さぞや人間の村に戻りたかろうと。それで、俺がユラを守ってやるゆえ、一緒に逃げようと言うたのだ」


 それを聞くとユラは、目を大きく見開き、


「はああっ!」


と、まるで湯が一気に沸騰したときに湧き上がる蒸気のような声を発して、寝台の傍らに駆け寄り、先ほど俺が指を洗った器の水を、俺の顔めがけて力任せにぶちまけた。そして、空の器を床に叩きつけて、部屋を出て行こうとした。部屋を出たところで立ち止まり、しばらく小刻みに震えながら後ろ向きに立ち呆けていたが、ユラはついにうなだれて部屋へ戻ってきた。


「わたくしはあなたが城を出て行くのを見届けなければならない。早よう……早よう、出て行って。お願い」


 俺はかなり混乱していた。訳も分からず謝ってみたが、それでさらに火に油を注いでしまった。何がユラを怒らせているのか、今になっても皆目見当がつかなかったのだ。


 ユラと過ごした時間は、その後の俺の中で次第に甘美な思い出に増幅され、その思い出自体が生命を得て脈動するに至っていた。至近距離で見たユラの笑顔が思い出され、唇の柔らかな感触が思い出され、語らいを通して、いくばくかでも心が溶けあえたものと思い、それらすべてがひとつのかたまりとなって、俺の胸の奥のどこかに居場所を確保し、切なくうごめいていた。その印象のままに、今日のユラも、俺の中のユラのかたまりに、柔らかく積み重なっていくのだと思っていた。


 もちろん、俺が村へ帰ると誰かから伝え聞いて、ユラは最初、怒るだろうと想像していた。「わたくしは連れて行ってはいただけぬのですね。緑色の鬼ゆえ」と。だが俺はもはやユラを見捨てることなどできなかった。むろん、村へ帰ると、鬼の女子おなごを連れ帰ったと、村人はユラを受け入れぬやもしれぬ。だが、何としても俺が守ってやろうと考えていた。俺がこの島を出るにあたって、「ユラを連れていく」と言ってやれば、思いがけない申し出に、ユラは感動で咽び泣くのではないかと思っていた。そこへ、この仕打ちだった。訳が分からぬので、本来なら俺は逆に腹が立つのだろうが、ユラの怒り具合は尋常ではなく、俺はその迫力に圧倒されていた。ただ、圧倒されながらも、何とかユラの怒りを収めて、一緒にこの島を出ることを考えていた。


 俺は、小袖の袖口で、びしょ濡れの顔をゆっくり拭った。


「どうすれば怒りを解いてもらえる」


「いかにしても無理です。わたくしの前から早よう、いなくなってくだされ。お顏を見とうありませぬ」


 俺はしばらくユラを見つめていたが、ユラはそっぽを向いて、もう俺に目を合わせようとはしなかった。俺はしゃがんで、散らばった飯を拾い上げ、盆に広げた竹皮の上に丁寧に積み上げていった。


「貴重な、最後の食糧を俺に出してくれたのに、申し訳ないことをした。持って行って、腹がすいたら戴くことにする」


 水が入っていた椀も丁寧に寝台の隅に戻し、飯はもろくなったが、何とか竹皮にくるんだ。その間、ユラはぶすっとした顏で横を向いたまま黙っていた。俺は小袖を新しいものに着替えると、畳んであった鎧直垂一式を不器用に着付けながら、独り言のようにユラに語った。


「ユラ、この間、お許から、愛という言葉について教わった。愛とは、誰かを深く慕う気持ち、何においても大切にしたい気持ち、愛する相手のためにはわが命を差し出しても構わないという気持ち、と言うておったの。また、お許は、愛とは考えるものではなく、感じるものだ、とも言った。俺は……おそらく、その、愛なるものを、今、感じておると思う。お許を愛おしく思うゆえ。ユラ、俺のこれは、愛だろうか」

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