第二章(4)

   四


 手刀がうなりを上げたとき、俺はとっさに扉の反対側に身を隠したのだった。


 そして怪物は、自分の手刀で壊した屋根が巻き上げた埃でオレの姿を見失った。いや、俺がひるがえりざまに刃を上向きに突き出していた景光が、怪物の手刀のど真ん中をかき分けたことすら目視できなかったのだった。


 繋がっていた皮膚の、肘あたりまで切り裂いたのは俺の刀のせいだが、そこから先、肩までの皮膚は、痛がる自分たちで裂け目を広げたのだ。自業自得だ。


 雉が舞い降りてきた。


「桃どの、ご無事で何より。いや、鮮やかなお手前!」


「なんの」


 俺は実のところ、そう答えるのが精一杯だった。俺はだんだんと我に返ってきつつあった。そうするにつれ、硬直していたその構えのまま、切っ先の震えが大きくなってくるのに自ら気がついて、俺は慌てて刀を鞘に納めた。


――たまたま、だ。


 たまたま、扉の後ろ側に逃げよう、と直感的に思っただけだった。それに、握った刀が、たまたま最後まであちら側に残っていただけだった。たまたま、刃を上にして。


 鬼ヶ島に至るまでの日々、俺はまだ見ぬ鬼に遭遇しても、平常心を保つことができるようになるための修練を、人知れず何度も繰り返していた。といっても、見回りに行くと称して山道を歩き、土鳩が足元から急に飛び立つのにビクつかない練習とか、川を石跳びで行ったり来たり渡るうち、安定の悪い石でぐらっと来たときに、落ち着いて身をどう捌くかとかいった練習だった。


 やっておいてよかった。砂の中から怪物が現れても、少なくとも腰を抜かして小便を漏らすことはなかったからだ。


 しかし、至近距離で雉右衛門が尊崇の眼差しで俺を見ているのがいたたまれなかった。我に返った俺は、身体の芯から恐怖で震えていたからだ。これ以上静止を続けて、雉がそれに気づくよりはと、俺は七転八倒している怪物に向かって歩を進め、さも怪物を憐れんで優しく声をかけるかのように、片膝をついて震えを砂地に吸収させた。


「不本意だった。許せ」


 その言葉を聞くや、歯を食いしばって仰向けに転がっていた二つ頭の怪物は、四つの目を真っ赤にうるませ、両側の手で裂けた方の腕をかばうようにして、桃太郎の前に胡坐をかいた。


 一つの顔が言う。


「殺せ」


 もう一つの顔が言う。


「とどめを刺せ」


「おうそうか、では望み通りにしてやろうか」


 俺ではない声に、俺は振り向いた。


 猿ノ助がいつの間に来たのか、俺の後ろから勝ち誇ったように怪物をめ付けていた。


 雉右衛門もその隣りで義憤に燃えていた。


「犬吉どのを、まるで犬か何かのように邪険に払いのけやがって」


 俺は猿と雉を手で制してたずねた。


「猿ノ助どの、して犬吉どのの安否は」


「目に砂が入ったそうだ。痛いと言っている」


「では、死んでおらんのだな」


 俺は怪物の二つの顔を交互に見ながら、努めて冷静に言った。


「では助ける。ただ、鬼の棟梁に会わせてくれ」


 一つ目の顔は、「ケッ」と言って右を向いた。


 二つ目の顔は、「ケッ」と言って左を向いた。


 その態度に、義に篤い雉右衛門がキレた。


「おい、化け物! こちらにおわす方を誰と心得る。お国は備前田原村、人分ひとわけ入らぬ深山の、清き流れにどんぶらこ、与兵衛とトメに拾われて、神仙桃より生まれ出づ、人並み外れた百人力、並ぶ者こそありもせね」


 朗々たる雉は、そこで息を継いで、それからさらに続けようとしだ。


「お伴は犬猿のみならず――」


 たまらず猿が遮った。


「もう黙れ、雉ッ!」


 自分が登場する直前で怒鳴られて、雉はムッとしたが、猿を無視して続けた。


「残念無念、中略するが、忘れ給うな雉右衛門、雉・犬・猿を従えて、まごうことなき日ノ本一と、誉高きは桃太郎。桃から生まれた、あ、桃太郎どのじゃあ。恐れいったか、怖えーかッ!」


 早朝の鬼ヶ城に雉の誇らしげな鳴き声が響き渡った。


 オレは雉を振り向いてたしなめた。


「馬鹿ッ!」


 怪物は雉右衛門の口上に、たいそう驚いた顔をして俺に問うた。


「ぬしぁ、誰だ」


 俺はこの怪物の味方の鬼たちが今にもわらわらと山を下ってくるのではないかと気が気ではなかった。


「俺は、桃太郎と申す。お前は」


 怪物はそれには答えず、問いを重ねた。


「村は」


「備前田原村じゃ」


父御ててごの名は」


「与兵衛と申すが、なぜそんなことを訊く」


 怪物は流血を忘れたように四つの目で俺をまじまじと見つめた。


「それは育ての父御であって、ぬしぁ、真っこと、桃から生まれたのか」


「そうだ」


「何しに此処へ」


 猿が遮った。


「おいッ、化け物! 二つの口で交互に問いかけるなッ。お前、俺達を鬼の棟梁のところに案内する気があるのかないのか!」


 すると、ようやく猿の横に来た犬が、猿に次いで言った。


「この野郎、命を助けてやるって言ってるんだ。失血死する前に早く仲間の手当てを受けやがれ」


 つぶれていない方の目がまだ開ききっていないので、犬は、ほとんど何も見えていまい。だから威勢よく大口を叩けるのだ。しかして彼の尻尾は後ろ足の間にぴたりと巻き込まれていた。


 俺は努めて低い声で怪物に言った。


「話し合いに来たのだ。狼藉をやめてもらいたい」


 それを聞いて怪物はやにわに立ち上がったので、俺達は思わず一歩後ずさりした。


「よかろう、桃太郎、案内して進ぜる。俺はガムガラだ。ついてまいれ」


 怪物は裂けた腕をもう片方の両手でかばいつつ、石の階段をよろよろと登っていった。


 もう夜はすっかり明け、靄も晴れていた。

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