第一章(5)

   五


 旅立ちの朝は晴れ渡っていた。が、俺は沈鬱な面持ちで、おばあの出す朝餉を黙ってかっ込んでいた。


――あのままどうして俺は、キヨを連れて逃げなかったのか。


 物見遊山ではないのだ。荒海を手漕ぎ船で渡り越え、八尺の鬼どもの巣窟へ渡って、悉く成敗した上で、奪われた財宝を合切持ち帰る――そんな神業を、どうして為し得ようか。


「命あっての物種じゃて」


 猿ノ助がゆうべ何かの折に、しれっとのたもうたのが、つくづく正解に思えた。


 おばあは、俺の旅支度を手伝い終えると、昨日多めに作っておいてくれた黍団子を布袋ぬのぶくろに入れて持たせてくれた。


「道中食べながら行ってくれろ」


 そして、おばあは泣いた。ひい、と声を出して俺の陣羽織にすがった。


「きっと、お百度を踏むよう」


 犬吉と雉右衛門は朝からそれぞれ、村外れのゆかりの墓へ参っていて留守だったが、猿ノ助は濡れ縁に腰かけて、たくあんの筋が歯に挟まったのを飄々と楊枝でしごいていた。


 村人が三々五々見送りに集まって来た。村長むらおさの孫の、若い金太と銀次が旅支度を整えてやってきた。村長は俺に、村人一同からの餞別だとして、いくばくかの路用の銭を手渡しながら言った。


「こいつらは腕っぷしが弱うてとてもお前たちの力にはならぬが、鬼ヶ島へ渡海するこちら側までは同道させて、何かと御身の回りの世話をするよう、また、持ち帰る品の運び役として岸で帰りを待つよう、申し伝えておるでな」


 危険のないところまで孫を出して、おさとしての面子を保ちながら、俺の逃走を防ぐ。老獪で用心深い村長の布石だった。


 そのとき。


「おうい」


 昨夕から姿を見なかったおじいが、息せき切って地蔵道(みち)から戻ってきた。担いだ風呂敷包みをほどいて傍らの村人に手渡したおじいは、膝に手をついて全身で息をした。


「朝寝してしもうたが、間に合うてよかった」


「与兵衛どん、これはなんじゃ」


「まあ、開けて見てくんろ」


 村人たちに広げられた白布しろぬのは、のぼりだった。おじいはあらかじめ家に用意してあった竹竿を持って戻ってきた。


成願寺じょうがんじの和尚に揮毫してもろうたものを、八幡はちまんさまのお堂に持ち込んで、夜通し願を込めてきた。これで百人力間違いないよう」


 俺は「日本一」と書かれた幟を睨んで唇を噛んだ。八幡さまのお堂は地蔵の木の手前にある。夜半あのまま俺が逃げていたら、俺は、俺のために祈るおじいと鉢合わせしていたことになる。


――草鞋の紐の結び間違いは、まさか八幡さまの……。


 おじいは俺の肩に手をおいて、おどけたように語りかけた。


「なあに、お前は立派にことを成し遂げて帰って来るて。八幡大明神が日本一と認めたおのこじゃけんの」


 そのまま俺の肩を引き寄せると、おじいは背伸びして、皆に聞こえぬように、俺の耳元で囁いた。


「もし鬼どもに勝てずとも、お前はやっぱり、わしらの日本一のせがれじゃ。桃太郎や、おお桃太郎。武運を……のう」


 痩せた腕を回して俺を抱くおじいの目尻が、せっかく乾いた俺の陣羽織の胸のあたりをまた濡らした。


 俺も泣きたかった。


――何が日本一なものか。


 俺は、日本中どこにでも無数にいる、普通の「太郎」として、なぜ人間から生まれてこなかったのか。平凡な太郎が「鬼ヶ島に行く」と言っても、きっと笑って聞き流されるであろう。いや、太郎を生んだ親は、長男を死路へ追いやることを頑として拒み通すであろう。


――何で、桃から。


 古来より桃には神通力が宿るなどと、そんなのは単なる迷信に過ぎない。現に俺には、何の神がかった力も……。


 そう否定しようと思わず額に手をやると、そこには鉢巻があった。正面に桃印を擁した鉢巻が、キュッと頭のぐるりを「封印」していた。


 キュッ。


「あっ」


 突如、俺の体をいかずちが貫いた。ゆうべ、生まれて初めて感じた力が、たちまち蘇って、直感でつながっていった。益荒男の、手弱女を守る力。生き延びようとする精の力。死の対極にある生命の力……。それは何だかむず痒いような感覚を伴った。俺はぎょっとして周囲を見回した。キヨは、見送りには来ていなかった。

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