第一章(4)

   四


 満月が高く昇っていた。燭台の火はとうに消え、連中は鼾をかいていた。


 俺は濡れ縁から庭へ降りた。雉右衛門は夜目が利かぬので欺くのはたやすいが、犬吉は耳が良いので、気づかれぬよう神経を使った。


 敷地の外へ出て、枝折戸をそっと閉じつつ庭をうかがう。ジージーと庭の隅で蟋蟀こおろぎが低く鳴いているほかは、もの音ひとつ漏れてこない。


 そのとき、月に千切れ雲がかかってきて、俺の姿が闇に溶け込みかけた。


――こいつは都合がいい。


 よく登って遊んでいた地蔵の木あたりまでは、目をつぶってでも行ける。あのあたりまで一目散に走れば、誰かが気付いても、もはや追いつけまい。


 厩の方を見た。苦い汁が腹のわたを巡った。俺は心の中でおじいとおばあに詫びた。猿が指摘したように、おじいとおばあが、俺のことを本心では、桃から生まれた、素性不明の卑しい男だと思っていてくれと願った。もう今生で会うことはあるまい。俺は片手で厩を拝むと、身をひるがえして地蔵の木へ向けて駈け出そうとした。


「もし、桃太郎どんでは」


 いきなり呼び止められた。俺は、体の中身が全部、心の臓になった。のけぞった拍子に、腰に結わえた和銅銭が鞘とこすれて、じゃらりと濁った金属音を立てた。俺は耳をひそめた。


――誰か、起きたか?


 鳴くのをやめた蟋蟀が、ジージーと再開した。誰も起きた様子はなかった。俺は闇に眼が慣れてきた。


「なんとキヨか? どうした、こんな夜半に女子(おなご)一人で」


 俺は低く押し殺した声でようやく訊いた。


「桃太郎どんこそ、明日に備えて、どうしてしっかり寝ておらんのよう。何の用で出てきているの」


「あれだ、ほら、鬼がな、この、こっそりとな、そのう……わが企てをだ、聞きつけて今宵のうちに返り討ちに忍び寄ってはおらぬかと、見回ろうと思ったのだ」


「裸足でかえ?」


「いや……それは、おじいとおばあを起こしては気の毒と、ほら、家の外でな……」


 俺は急いで懐から草鞋わらじを取り出してパサリと地面に置き、しゃがんで履こうとした。が、足首に巡らせるべき緒が、どうにもうまく結べぬ。けば急くほど、長く伸びた緒の先は指先からぽろりぽろりとこぼれた。夜陰にうずくまって舌打ちする俺の頭上から、キヨがおずおずと言葉を振りかけた。


「あの……これを……これを桃太郎どんの」


 雲が切れ、月が出た。その光を頼りに中途半端ながらようやく緒を結び終え、俺は立ち上がってキヨの差し出すものを見た。キヨが両手で包むように持つのは、折りたたまれた綿めんの白い帯。


「おとうとおかあが寝てから隠れて縫うたのよう。そんで今になったの。ここの戸口に置いて帰ろうと思って……」


 キヨの手から帯を取って広げてみると、それは鉢巻だった。額に当たるところに、薄紅の糸で桃をかたどって刺繍してあった。


「もうキヨと一緒に遊ばぬようになってかなりになるから、俺のことなど忘れていると思っておったよ」


「そんな、忘れてなんか……」


 しかしキヨは反論をやめ、続く言葉をすり替えた。


「この鉢巻には、おらの祈りがこもっているのよう。巻いていれば、きっと桃太郎どんを守るから」


 本来、鉢巻に鋼板が仕込んであって、敵の刀で額がばっくり割られるのを防ぐためにつけるものなのかも知れぬが、俺にとってはそのようなことはどうでも良かった。桃に込められたキヨの祈りの方が百倍も心強く思えた。


 満月は頭上にあって、うつむき加減のキヨの頭のてっぺんをじんわりと白く照らしていた。俺は本来、居心地が悪いはずだった。ここでぐずぐずしている暇はないのだ。なのに、何か、不快ではない、不思議な感覚に包まれて、今はただそこに佇むほかなかった。


 キヨは枝折戸越しに家を見つめ、それから後ろを振り返った。遠くからは、ケレケレ、コロコロと、かわずどもが何かをしきりに主張する声が聞こえていた。


――あいつら、鬼が来たときにも騒いでいたっけかな。


 そう思った矢先、キヨがこちらに向き直り、顏を上げてまっすぐ俺を見つめた。月がキヨの顔を白く照らした。唇が緩く開いて、微かに震えているようだった。


「あの……」


 キヨの消え入るような声は、ほとんど唇の動きでしか判別できなかった。


「おらに……おらに一度、つけ……させてくんろ」


 こんなに間近にキヨを見るのはおそらく数年ぶりだった。今のキヨは、俺の記憶とはずいぶん違っていた。俺は、許しを乞うようなキヨの二つの眸をまっすぐ見返すことができず、代わりに、じんわりと白い、その額髪ぬかがみや、おとがいや、耳朶に不器用に目をやりながら答えた。


「お、おう」


 キヨは俺の手から鉢巻を受け取ると、俺の後ろに回り込んで、鉢巻を額に回してきた。


「も少し……上だ」


「こうかえ?」


 布を通すキヨの手が横髪を逆立て、月代さかやきに触れる。


 キュッ。


 キヨの手によって鉢巻が締められるたびに、俺は初めて、ちょっとむず痒いような感覚に襲われ、若い益荒男ますらおの生命力が身体にみなぎる気がした。


 結び終えた後、キヨに礼を言おうと俺は振り返った。とたんに足がもつれ、俺はキヨにもたれかかり、そのまま崩れた。先刻俺は、左右の草鞋わらじの緒を一つに結んでしまっていたのだった。


 俺に押し倒されたキヨは、「ひっ」と小さく言ったものの、そのまま身体を固くしてじっとしていた。


 以前はよく木登りをしたり、兎の罠を仕掛けに山に入ったりして、毎日のように一緒に遊んでいた。同じ村で育ち、同じ空気を吸ってきたはずなのに、キヨの着物は俺の着物とは違う匂いがした。そして、この匂いは、とても大切なものだ、と俺は思った。


 月が傾いた。一番鶏が鳴かぬうちに、俺は客人たちが雑魚寝している部屋に戻っていた。

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