第十一章(3)
三
ぴゅう。
意識の中で矢が放たれた。
俺が飛んだ。
向かう先にあるのは、刀こそ構えているものの、血にまみれ、泥にまみれて、ようやく立っているだけのみすぼらしい男だ。俺は、男の眉間の鉢巻に刺繍された桃印の、ど真ん中を貫いた。
男が死んだ。
だが俺はそのまま、その先へ飛んで行く。
おじいとおばあを貫いた。
おじいとおばあが相次いで死んだ。
次にキヨが死んだ。
次に村人。
最後に、村が滅びた。
俺は思った。
――この、鉢巻を巻いてツノを生やしたみすぼらしい男が、浅はかにも、ある日鬼征伐を思い立ったばっかりに、今日をもって皆が死に絶え、村が全滅するのだ……。
脳裏にイットゥの声が響いた。
桃太郎よ、貴様が殺すようなものだ。せいぜい苦しめ。そして不用意に俺にたてついたことを一生悔いろ。
――ハヤト……。俺は、どこから間違えておったのかな。
そう思った途端、俺の意識は、今度はアカギが構えている矢の後ろの延長線上に沿って、時間を逆向きに飛んで行った。
黒悪鬼メルゲの肉をたすきに斬り裂く手の感覚。怒れるユラに浴びせかけられた手水。息子をそそのかすなと俺を睨む、息子とよく似た母御の目。弥五郎どんの墓にかたき討ちを誓った台詞。誰も動かせなんだ大岩を動かして見せたときの、村人たちのぽかんと開いた口。キヨと登った地蔵の木の肌のざらつき……。
矢じりは瞬時に俺の記憶を戻るだけ戻って、とうとうそこに、ぽとりと落ちた。
妙見山に源を発し、田原村を流れる、あの清流……。
俺は、景光を構えたまま、声にならぬつぶやきを発した。
――なんで、桃から。
俺は、俺の死から始まる、全滅を覚悟したのだった。
ところが、俺に向けてキリキリと弓を絞っていたアカギは、にやりと笑うと、急に照準を変え、戸板に向けてぴゅうと射立てた。矢はおじいとおばあが隠れていた戸板の真ん中あたりに矢が突き立ち、戸板はパカンと真っ二つに割れた。
「あっ!」
無防備なおじいとおばあが現れた。二人は抱き合ったまま、その場にへなへなと座り込んだ。割れた戸板で身を守ることさえ思い及ばず、二人はただ驚愕に目を見開いて、身じろぎひとつせずアカギを見つめた。俺は景光を振りかざしてアカギに突進した。
「ダメだっ、射るなッ!」
「もう遅いッ!」
俺がアカギに斬りつけるより少し前に、二本目の矢が、アカギの弓から放たれた。俺の視線の左、おじいとおばあの方向へ、矢は消えていった。
――くうっ、間に合わなんだか……。
俺はそう思いながら、景光を手にアカギに斬り込んだ。切り込む動作の流れで、俺の顏は家の方に少し向いた。すると俺の視野の隅を、矢とは違う何かがサッと横切っていった。俺は、射終えた直後のアカギに力いっぱい斬りつけた。
「ぎゃあッ!」
何が横切っていったのか視線を移そうとしたそのとき、アカギの返り血が俺の顔と身体に飛び散った。
「うがあ!」
アカギは身をよじってその場に倒れ、転げまわった。俺は血を拭って実家の方に目を凝らした。
「おじい! おばあ!」
二人は割れた戸板の傍らに倒れていた。
「うわあッ!」
取り乱しかけて俺は初めて、おじいとおばあの前にうずくまる緑の塊を認めた。矢はおじいとおばあではなくて、その緑の塊に命中していた。
――はっ! では、おじいとおばあは、気を失っているだけなのか……。
緑の塊が、わずかに動いた。
「ハヤト……?」
四肢が少しずつ伸びた。まぎれもなく細身で筋肉質の緑鬼がそこにいた。しかし、その胸板に、完全に矢が突き刺さっていた。
「ハヤト! なにゆえ、ここに来たッ?」
俺は仰向けに広がるハヤトに駆け寄り、その頭を支え起こした。ハヤトは即座に俺に訊いた。
「アカギはどうした。やったか」
「ああ」
俺はアカギを見やって、奴が相当な深手を負っていることを確認した。ハヤトは安堵して一瞬、俺に笑いかけたが、すぐに咳き込んだ。咳が収まると、やっとのことで俺に言った。
「お前……ひとりでは……悪鬼二頭は無理だと思って、あれからすぐ……もう一つかごを作らせた」
「しかし、お前、脇腹の傷がまだ治っておるまいが」
ハヤトは今度は顔だけカラカラと笑った。
「桃……太郎、俺は俺の役割を……果たしに来た。俺の……大事なものを……守る」
「ハヤト、鬼ヶ城は助かった。ユラも死なずに済んだ。お前の役目は済んだであろう」
「俺には……大事なものが、まだ……あるのだ」
「何だ、お前にとって大事なものとは」
そう問いかける俺の肩を揺らして、ハヤトは俺に恐怖の目で訴えかけた。
――う、後ろ……!
俺は心得てそっとハヤトの頭を置くと、振り返りざま、景光を薙ぎ払った。
「ぐはッ!」
残る力を振り絞って俺に斬りかかって来ていたアカギが、返り討ちにあって身をよじってのけ反り、そのまま仰向けにどうっと倒れた。俺はすぐさまその場で立ち上がって臨戦態勢を取ったが、アカギは、さすがにもう反撃してくる力を残していないようで、痛みに歯を食いしばってただ横たわっていた。顔を上げて見ると、村人たちがもう数人、遠巻きに様子を見に集まり始めていた。
――ああ、良かった……。
俺は、村の女房たちが築山の前に横たわったままのキヨに気づいて、介抱を始めたのを見て安堵した。
俺はハヤトを振り返り、ハヤトの前に再び
「コホッ、コホッ」
ハヤトは力なく咳き込んだ。
「まずい……。ハヤト、お前なぜ島を離れた。脇腹の傷だけなら島におれば完全に治ったものを……」
ハヤトの緑の顔色が土気じみてきた。肺の臓を貫かれ、胸板の上下動も絶え絶えになって、俺はどうして良いのか分からず、ただ頭を抱いて「ハヤト、ハヤト……」と呼びかけるしかなかった。
ハヤトが何か言おうとして口を開いた。
「なんだ、ハヤト」
声にならぬハヤトの言葉を聴き取ろうと、俺は顔を近づけた。
「桃太郎……、お
ハヤトが目線をおじいとおばあに向けた。おじいとおばあはまだ気を失ったままだ。
「お父うと、お母あ……?」
俺は一瞬、きょとんとした。
ゲボッ。
苦しそうに顔をしかめたハヤトが、血を吐いた。
「おい、ハヤト! しっかりせよ」
しばらく息を整え、ようやくハヤトは消え入りそうな声で俺に乞うた。
「目が覚めたら……俺は……惣太郎は……恨んではおらなんだと……伝えてくれ」
――恨んではおらぬと? ……あっ!
俺は思い当たって顔を上げ、庭の隅を見た。そこには小さな地蔵があって、柿が一個、備えてあった。
言葉のない俺を、しばらくの間ハヤトがじっと見ていた。澄んだ目だった。そしてハヤトは、わずかに唇を動かした。最期なのだとわかった。
「何だ、ハヤト」
俺は、何か言いかけたハヤトの口元に耳を寄せた。
「弟よ……会えて……嬉しかった」
俺は顔を起こし、ハヤトの目をしっかり見て答えた。
「俺もだ、兄者」
ハヤトは、俺の姿をしっかり目に焼き付けると、わずかに笑顔を浮かべ、それから、ゆっくりと瞼を閉じた。
ツノが、色褪せていった。
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