第十一章(2)


 どの血を引いておるか。鬼か人間か。何の仲間か。それらはすべて、おのれ自身が何者であるかを説明するための理屈に過ぎぬ。そして、理屈に過ぎぬ己という存在は、己より劣る何かをよすがにして立とうとするのじゃ。そうせねば、己を保ち得ぬ。それほど弱いのじゃ。




 わしらは昔、京の都から交易にやってきた渡来人から「愛」という言葉を学んだ。桃太郎、己の本質を知る上でまっこと大事なのは、己が何者かではない。己が何に優越しているかでもない。己が何を愛するかじゃ。愛の対象が己を規定する。




 緩やかな丘陵の上にあるキヨの家を目指して必死に駆けている間に、出陣直前、部屋から広間へ並んで歩きながら鬼婆が言った台詞が瞬時に脳裏に浮かんだ。


――ユラも同じようなことを言っておったな……。


 キヨの家と鬼が遠くにちらと見えた。俺は、村からの失踪を試みたあの日の夜にキヨから言われた言葉をも思い出していた。




この鉢巻には、おらの祈りが籠ってるのよう。巻いていれば、きっと桃太郎どんを守るから。




 実際俺は、キヨの鉢巻……いや、キヨの祈りによって、幾度となく救われたと信じている。あのときのキヨの、赦しを乞うようなひとみ。月に白く照らされたかんばせ。わずかに開いた口……。俺はあの夜、キヨの着物の匂いを守りたいと思った。それに象徴される、キヨの日常を平和ならしめたいと思った。そのために、村を荒らす鬼を退治しに行こうと決めた。鬼からキヨを守るために、俺は逃げるのを止めて闘おうと思ったのだ。そして、それが「今」なのだ。


――走れ、桃太郎!


 俺は必死に走った。そして、立木の向こうに、赤黒い一頭の悪鬼と、家から放り出されたキヨの一家を認めた。


――ああ、遅かったか……。


 キヨの両親はアカギの足元に倒れていた。そして、意識のないキヨが、ちょうどアカギの肩に「く」の字に担がれたところだった。


「アカギッ、おのれ、キヨをどこへ連れて行くッ」


 叫びに近い俺の呼びかけにアカギは振り向いた。俺を認めて、アカギの形相はみるみる変わった。


「も、桃太郎! 貴様、なぜ今ここにいる。いくさはどうなった」


 驚きはもっともだ。もう何刻も、紅葉を通じてイットゥから新たな指令が来ない。ということは、鬼ヶ島の合戦では、イットゥ軍が敗れ、紅葉が死んだのではないかと容易に想像がつく。そこへ俺が現れたのだから、もしやイットゥまで戦死……と思うのも無理はない。俺は、緩やかな坂を、アカギに一歩ずつ近づきながら、諭すように答えた。


「島での戦は終わった。イットゥが死ぬ間際に、お前たちが俺の村に向かっていると聞いたゆえ、追いかけて来た」


 アカギは明らかに戸惑いを見せた。


「何、イットゥが死ぬ間際……とな」


 俺はアカギの足元に横たわるキヨの父御、母御を目で示して問うた。


「おいアカギ、お前、キヨの親を殺したのか」


 アカギは戸惑いを隠して嘲笑するかのように答えた。


「まだだ。だが、望みとあらば、今ここでこ奴等の頭を踏み潰しても良いぞ。この女子おなごは倒れた親どもを見て気を失いおったわ。一息には殺さぬ。じわじわ、だ」


 キヨたちがまだ殺されていないと聞いて、俺は心中安堵した。そこで俺は立ち止まって、アカギを逆上させぬように説得を試みた。


「アカギ、イットゥや紅葉もみじを含め、島にいたお前の仲間たちは全滅した。お前にはもう、帰るところがない。属すべき社会もない。ゆえに、この村を襲い、村人の命を奪うことも、もはや意味がないのだ。アカギ、お前の命は助けてやる。その女子をそこに置いて、アオジと共にこの村を出ろ。俺は追わぬゆえ」


 アカギは、帰るところがないと言われ、一瞬、あきらかに狼狽したが、俺をあざ笑って言い返した。


「誰の命を助けてやるだと? 馬鹿も休み休み言え。それはこちらの台詞だ。俺とアオジの二人おれば、この村を壊滅させることなどわけない。桃太郎、貴様一人が戻ってきて、俺達に敵うと思うか。いや、ちょうど良いところに現れた。これなる女子と村人どもが恐怖で鳴きわめきつつ死んでゆくのを、貴様、歯噛みして見ておれ」


 アカギがうそぶくので、俺は顎で向こうを示した。


「すでにアオジは戦力ではない」


「何だと! 貴様、何をした」


「まだとどめを刺してはおらぬが、手当せねば時間の問題だ。それより……」


 俺はアカギを見すえ、再び緩やかな坂を一歩、また一歩と近づいて行った。


「その女子をそこに置け。もう分かったであろう、無益な行為だ」


「うぬぬ……」


 俺はわずかに柔和な目になってアカギに語りかけた。


「今や、お前たちの行為には目的がないのだ」


 アカギはキヨをかついだまま首を振った。


「いや、あるッ! 俺たちは、この田原村を完全に破壊しに参ったのだッ」


 俺は思いがけぬアカギの答えに驚いた。


「なにゆえか」


「この村に恨みがあるからだ」


 俺は声を荒げた。


「恨みだと? 馬鹿を申せ、これまでのうぬらの所業にこそ村人が恨みを持っているのじゃ!」


「桃太郎、貴様には分からぬ!」


 俺はため息をついて首を横に振ったが、『完全に破壊』という言葉にひっかかって、いてアカギに問うた。


「アカギ、お前、よもや俺のおじいとおばあに手を出してはおるまいな」


 アカギは、わずかに考える素振りを見せたが、俺に向かって不敵な笑いを浮かべた。


「さあな。すでに何軒も壊したゆえ、どの家だったかな……」


 俺は少し伸びをするようにして、丘向こう、地蔵道沿いの一軒家を見た。


 見えた。


 無傷だった。


 俺が安堵したとき、アカギが笑った。


「ほうあれか、貴様の大事なおじいとおばあの家は」


 アカギはそう言うや否や、キヨを抱えたまま身を翻し、俺の実家へ向かって走り出した。


――しまったァ!


 キヨの家から俺の実家までは、ものの二町ほどだ。俺はキヨの家の前を通り過ぎて、アカギの後を追った。もう、俺の実家の様子は見えていた。


 おじいとおばあは、こともあろうに庭に出ていた。厩の裏から大きな戸板を外してきて、母屋へ二人で運んでいる最中だったのだ。これまでも嵐の前によくしてきたように、母屋の扉を補強しようとしているのは、おそらく鬼が村を襲っているのを知り、その襲来に備えてのことだろう。


――おじい、おばあ……それは無駄な努力だ。むしろ裏山にでも逃げ込んでいて欲しかった……。


 もう間に合いそうになかった。アカギが振り向いて俺を挑発した。


「貴様の育ての親どもを先に殺(や)ってやる。貴様の目の前でな。せいぜい苦しめ!」


 そのとき、アカギに担がれていたキヨが目を覚ました。キヨは自分がどこにいるかを理解したとたん、混乱の極みとなり、アカギの肩で絶叫しながら手足をバタバタさせて暴れに暴れた。


 おじいとおばあは、近づいてくるキヨの叫び声に気がついて、歩みを止めて声の方を見た。そして赤鬼がこちらを向いてみるみる駆けて来るのを認めて、仰天した。うろたえたおばあが地面に躓き、戸板が地面に落下した。その戸板につられておじいも尻もちをついた。それまでだった。あまりの恐怖に二人とも腰が抜けてしまい、それ以上逃げることができなくなったようだ。


――これはまずい!


 アカギを追いかけながら俺は焦った。アカギはもう家のすぐ近くまで迫っていたが、担いだキヨがあまり暴れるので、持て余してしまっていた。ついにアカギは、掛けている肩とは反対の腕でキヨの首根を後ろから掴むと腕一本で持ち上げ、自分の前にキヨの顔を持ってきた。


「かあぁ! 喰うぞ、こらぁ!」


 眼の前五寸でアカギが目を剥いて口を大きく開けて見せたので、キヨは再び気を失って、手足をだらりとさせた。


「お前は、後の楽しみだ。そこへ寝ておれ!」


 アカギはキヨをそこへ放り出した。意識のないキヨは、俺の家のほど近くの、築山のようにこんもりしている、その傍らに身を崩して横わった。


「キヨッ!」


 俺はキヨも気になったが、アカギがおじいとおばあに襲い掛かることを恐れた。


 見ると、おじいとおばあが隠れた戸板が、ずるずると母屋の方に動いていた。腰を抜かしたおじいとおばあが、戸板に身を隠したまま身体を引きずって、必死で母屋に逃げ込もうとしているのだった。その様子を認めたアカギが残酷な笑いを浮かべた。


「へッ」


 アカギは弓矢を背負っていたが、キヨが暴れたせいで、弓の担ぎ紐が切れかかっていた。矢立ても落ちかかっていたので、ここで使ってやろうと思いついたらしい。軽くなった肩を二、三回ぐるぐる回したアカギは、キヨが目を覚まして逃げぬよう、築山のたもとから大きくは離れぬまま、片膝をつき、素早く弓を構えて矢をつがえた。そしてちらと俺を見た。


「あっ!」


 アカギは急に矢の照準を、追いかけて来る俺に合わせ直したのであった。


――なんと!


 俺は驚愕して、立ち止まって身構えざるを得なかった。頭からの流血はもう止まったようだが、全力疾走したせいか、立ち止まるとクラクラした。


――まずいことになった。


 今、この状態で、この至近距離で射かけられたら、とても避けきれぬ……。アカギと俺の目線が、矢柄の延長線上にピタリと乗った。俺のツノがはちきれんばかりに膨張している感覚がある。張りつめたツノは、傷のせいで痒みよりも痛みをもたらした。


 アカギの目が細くなった。


 イットゥが使っていた、「全滅」という言葉が頭をよぎった。


――全滅……か。


 その瞬間から、死を直前に迎えた人が刹那の時間の中でよく見るという、いろいろな光景が思い浮かび始めた。俺の意識の中では、時間が、アカギが引く弓弦のようにぐっと引き伸ばされた。そして、矢の照準をピタリと合わされた俺の意識は、その矢の先に移った。


 瞬時に、俺の意識は矢じりに重なっていた。

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