第九章(2)

   二


 イットゥは、キヨの肩に手を回して、グイと引き立てるように立たせた。


「ひぃぃ……」


 キヨは、まるで獅子に咥えられた兎のごとく、もどかしいほど無抵抗のまま小さく鳴いた。


 イットゥは片頬を吊り上げて笑った。


「ふん、キヨと申すか、この女子は」


「イットゥ、なぜだッ。なぜキヨを連れ去ってまいったのだ」


「手下にさらわせて来た。無論、貴様が想いを寄せる女子だからだ」


――なぜイットゥは、俺がキヨを愛しく思っていることを知っておるのだ。


 一瞬、その疑念が浮かんだが、キヨの命が危険にさらされていることに対する怒りが今は勝った。


「うぬぬッ、イットゥ、貴様、許さぬぞ」


 俺は最高に頭が痒くなった。股間にぐっと力を入れると、さらに怒りがほとばしり出た。


「桃どん……」


 傍らの犬吉がいよいよ当惑気味にそうつぶやいて目を伏せたのが視界の隅に見えたが、俺はイットゥから目を逸らさなかった。


「桃太郎よ、馬鹿か貴様は」


 イットゥは、いきり立つ俺を見下ろして呆れたように言った。


「おのれの置かれた立場をよく考えろ。今、許す許さぬの選択肢は俺が握っておる。よいか、貴様らがこの砦に近づくほど、この女子は死に近づくのだ」


 イットゥは、右手に持っていた大薙刀をわずかに傾け、キヨの喉元の皮膚に刃先を這わせた。


 刃先に沿ってキヨの首筋に血が浮き出た。


「キヨッ!」


 キヨは固く目を閉じた。目尻から絞り出された涙がたまらず筋を引いた。


「分かった、イットゥ。分かったゆえ、キヨを傷つけるな」


 俺は完全に気が動転していた。


――なぜこんなことに……。


「ふっ、なるほど、余程大切な女子のようだ。効き目があるわ」


 イットゥは右手に大薙刀を、左腕にキヨをそれぞれ抱えたまま、一瞬ニヤリとすると、俺に言った。


「では貴様にこの女子の命を助けられるか、選択の機会を与えてやろう」


 イットゥは大きな声を張り上げた。


「皆の者、闘いをいっときめよ。交渉を始める」


 イットゥの横に立つ女は、念珠を爪繰りながら相変わらず何やら唱えていた。


 ハヤトは危険な状態にさらされていた。俺に後方から襲いかかった黒悪鬼と闘っていたが、脇腹の傷の痛みに耐えかね、闘いの途中で思わず片膝をついていた。イットゥが停戦命令を出したとき、黒悪鬼はハヤトに向けて剣を振り下ろさんとしていたところだった。


 命令を出したイットゥにいちばん近いところで闘っていた黒悪鬼は、「うぬ!」と、振りかぶった剣をしばらく震わせていたが、ついに命令に従い、剣を構える腕を少し下げて待つ体制になった。ハヤト自身も、相手が攻撃を停止したのを見極めた上で、これから何が起こるのかと物見台のイットゥの方を仰ぎ見た。


 波打ち際に沿った砂浜いっぱいに展開した鬼ヶ城軍の兵たちも、敵の悪鬼軍が矛を止めて、サッと数間退いた上で揃って物見台を注視したので、いったい何事かと思わず同様に矛を止めて、物見台を見やった。


 両軍の動きが止まった中、イットゥは大きな声で俺に言った。


「桃太郎、貴様の戦いぶりを見させてもらった。貴様、確かに強いな。ついては、我らが京の都に上るのに、貴様の力を借りたい。我らの味方になってくれ。さすればこれなる女子を助けよう」


――何を馬鹿なことを言い出すのだ、この悪鬼は。


 俺は半ばあきれながら答えた。


「嫌だと言ったら?」


「嫌だと言ったら、悲惨なことになる、かもな」


 イットゥはキヨの首に二つ目の血の筋をつけた。キヨはビクリと震え、必死に嗚咽をかみ殺して泣いた。


 それを見て俺は即座に答えた。


「よしっ。嫌だと言わない。俺はたった今からお前の味方になる」


 犬と雉が驚いて俺を見上げた。


「桃どん、何を言い出す」


 俺はイットゥから目をそらさずに、二人に答えた。


「言った通りだ。俺はたった今から、あ奴の味方だ」


 犬吉は幾分怒気を含んだ声で俺に言った。


「はて、何を奇怪な! とても信じられぬわ」


 すると、


「そうよ、とても信じられぬわ、イットゥの兄貴」


 と、聞き覚えのある声がイットゥのすぐそばで聞こえた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る