第九章(3)

   三


 俺は驚いて目を凝らした。


 最初からイットゥの足元におったのかもしれぬが、下から見上げる角度になっていたので、今までその姿が見えていなかった。しかし、そう言いながら前に歩み出てきたので、声の主の顔が俺にも見えた。


「おお、猿ノ助どのではないか!」


 絶好の頃合いで絶好の場所に現れた猿ノ助に俺は感動しながら、早速あごをしゃくって、キヨをイットゥの手から奪い、素早くこちらへ運ぶよう合図した。


「あん? 何を寝ぼけている」


 猿ノ助はとぼけた顔で俺を見下ろすと、振り返ってイットゥに言った。


「イットゥの兄貴。見ての通り、あんたの味方になるという桃太郎の言葉は偽りじゃ」


「であるか」


 イットゥは目の前の猿を無表情で見下ろして、そのように答えた。


 犬吉が怒りの声を上げた。


「猿ッ! おのれ、寝返ったのか」


 猿ノ助は吠える犬吉を見下ろして、ふふんと鼻で笑った。


「人聞きの悪……、いや、鬼聞きの悪いことを言うな。寝返ったのは俺ではなく、そこなる日本一のなんとやらであろうが。まさか、人間が寝返って鬼の味方になるとはな」


「人……間……」


 犬吉は、猿ノ助の言葉を受けて、また恐る恐る俺を……いや、俺の「ツノ」を見上げた。


――同じだ……。


 砦の裏の斜面から移動しようとしていた俺を指さして「見間違いでござろう。何でもござらぬ」と言っていた、あのときの雉右衛門の当惑した顔と同じ顔を、犬吉がしていた。


――なるほどこれが、犬吉たちのよそよそしさの訳だったか。


「犬吉どの、雉右衛門どの。最初から隠しておったわけではない。ハヤトと闘うまで、俺自身も知らなかったのだ。だが、俺の本質は何ら変わっておらぬ。安心してくれ」


 俺の訴えを聞いたからといって、犬も雉も、必ずしも腑に落ちたわけではなさそうだった。


「いったい、桃どんは、人間なのか、鬼なのか……」


 心の曇りが晴れない犬吉のつぶやきにかぶせるように、猿ノ助が俺や犬や雉たちにうそぶいた。


「言うたであろう。俺は勝ち馬にしか乗らぬ。桃太郎よ。あんたの弱点は女子おなごに弱いところだ。そんなうわついた心の持ち主では、とても戦に勝てぬ。そして俺はそんな男に、とても命を預けることはできぬ……と、そういうわけだ」


 俺は猿ノ助に問うた。


「猿ノ助、キヨを拉致するよう進言したのはお前か」


「知らぬ、そのようなことは」


 するとイットゥが地鳴りのような声で遮った。


「そのようなこと、どうでも良いわ! おい、桃太郎。貴様、赤心よりわが方につく気はないのか。なければ交渉不成立だ。この女は叩っ斬って、次に貴様を血祭りにあげる。今答えよ」


 俺はイットゥの目をまっすぐ見すえて答えた。


「イットゥ、お前の味方になると、先ほどから言うておる」


 すると即座にイットゥは言った。


「そうか、ではその証しにそこのハヤトにとどめを刺せ」


 イットゥは、俺と二、三間離れて片膝をついているハヤトを顎で示した。


「何だと?」


 俺もハヤトを見た。ハヤトは、イットゥの命に従って動きを止めている黒悪鬼と剣を挟んで向き合いながら、俺にちらりと視線を向けた。顔をゆがめ、脂汗をかいているのは、脇腹の傷が相当痛むからだと思われた。俺は、イットゥと俺とのやりとりを聞いていたはずのハヤトの表情から、何らかの意図を汲み取ろうとしたのだが、ハヤト自身も俺がどう答えればよいのか分からぬようで、結局、何の合図も発し得ぬようだ。ハヤトは視線を変えて物見台のイットゥを睨んだ。


 だが、白拍子風の女の隣りでキヨを腕に抱え込んだイットゥは、ハヤトではなく、俺を見ていた。そして奴は、苛立ちを含んだ声で俺を急かした。


「桃太郎、早ようせぬかッ!」


 だが、そのとき俺は、ハヤトの横顔から目が離せなかった。物見台を二度見したハヤトの目が驚愕で大きく見開かれ、次第に憤怒の光を宿していくのが分かったからだ。それは単に脇腹の痛みに耐える目つきとは明らかに違っていた。


――どうした、ハヤト?


 ハヤトに睨まれていることに気づいておらぬイットゥは、声を荒げた。


「桃太郎! うぬッ、これでも動かぬか」


 気の短い冷徹な悪鬼の大将は、キヨの片腕を逆向きにねじり上げた。


 ポキリ。


 音が確かにここまで聞こえた。


「ぎゃあぁぁ……」


 キヨは天を仰いで絶叫した。


「やめろーッ、馬鹿ッ!」


 俺も思わず数歩前に進んで、併せて絶叫した。怒りをあらわに、イットゥは俺に怒鳴った。


「おいっ、桃太郎。貴様、俺を舐めているのか。早ようハヤトをやらねば、もう一方の腕もへし折るぞ」


 俺のツノは、はちきれんばかりに怒張した。俺は目を血走らせて、視線をハヤトに戻し、歯を食いしばりながらハヤトに一歩、にじり寄った。ところがハヤトが意外なことを口走った。


「桃太郎、騙されな! あの女はお前の村の娘ではない。化かされておるのだ」


 それを聞いてもなお俺は、ハヤトにもう一歩にじり寄った。だがハヤトは続ける。


「イットゥの隣りの白拍子は妖術使いのようだ。桃太郎、お前の心を読んで、あ奴がお前に幻影を見せているのだ」


 しかし俺は、ハヤトを見つめながら、さらに一歩、一歩と足を進めた。


「俺は妖術から覚めた。女子の足に気づいたのだ。桃太郎、あの女子の足首の色を見よ、緑だ。キヨではない」


 俺は、ハヤトに向かって景光の切っ先を向けたまま、一瞬、キヨの足元に目をやった。


 俺が見た瞬間、キヨを抱えたイットゥがわずかに体勢を変えたため、キヨの足首が隠れた。俺はハヤトに視線を戻した。ハヤトが続ける。


「あの女子を俺は知っている。今は敵となって戦っておる、川向うの村のサンジの妹、サエだ。おい、サエ! お前はサエであろう」


 するとそのとき、痛みでがっくりうなだれていたキヨがにわかに頭を上げ、決死の顔つきでハヤトに叫んだ。


「ハヤトさまッ! サエです。わたくしはキヨとやらではござりませぬ。サンジの妹、サエでございます。この悪鬼にさらわれ、人質になりました。ゆえに兄サンジはハヤトさま達と戦わざるを得なくなりました。緑鬼同士の戦、無念でございます。もうわたくしは覚悟を決めました。この悪鬼を討ち取って、また元の暮らしをもたらしてくださいましッ!」


 すると、女子の激白を聞いていた白拍子の顔がゆがんだ。呪文のようなものを止め、初めて大きな声を出した。


「黙れ女ッ、お前はキヨだと言うに!」


 その白拍子の声とときを同じくして、ハヤトに向かっていた俺は、ついに雄叫びを上げてハヤトの方に突進した。


「ハヤト、目をつぶれッ!」


 ハヤトは目をつぶった。


 駆け寄りざま、俺は景光を振り下ろした。


「ごめんッ!」

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