第四章(1)

   一


「ユラといいます」


「そうか。かたじけない、ユラ」


「いえ」


 ユラはそう言いながら手桶に新しい水を汲んできて手ぬぐいを絞った。


「ここはいずこじゃ」


「城の中でございます」


「供の者たちは……いてて」


 起き上がろうとする俺を軽く制して、ユラは俺に柔らかく微笑みかけた。


「まだ痛みますね、ごめんなさい、もっとそうっとしますね。お連れだった方々は、もう長い間別室でうたげを催しておられます。ご安心を」


「長い間? 俺はそんなに長い間、気を失っていたのか」


 俺の傷口を濡れ布で押さえていない方の手でユラは口元を隠しながら、クスクスと笑った。


「もう、外は夜です。疲れておられたのですね」


――そうか。俺はあの緑鬼にさんざ殴られたのだった。


 天井を見たまま、次々と記憶がよみがえってきた。


 俺はまず、猿どもに怒りを覚えた。


「あいつら、俺が気を失っているというのに、宴なぞに興じておるのか」


 ユラが少し慌てて説明した。


「心配しておられましたよ、皆さま方。ですが、鬼婆さまの命令で、桃太郎さまに近づくことを禁じられているのです」


「ええ? それであ奴ら、納得しておるのか?」


「桃太郎さまのご容態を逐次お知らせすると、監視の者がお約束いたしました。そして、静かにおやすみでいらっしゃるとお伝えしましたら、ようやくご納得いただけました」


「ううむ、しかしそれにしても、宴なぞ不用心な……。毒を盛られておれば何とするのだ」


 そうするとユラは再びクスクスと笑った。


「もし皆さまをあやめるつもりなら、もうとっくに」


 む。言われてみればそう思えた。


 あの鬼、ハヤトにしても、本気で俺を殺すつもりなら、武器なり使って有無を言わさずればよかったのだ。それなのに、何かずっと俺に問いかけていた。


 そうだ、気を失う前に確か、こんなことを言っていた。


「俺は、ハヤトだ。お前は、誰だ?」


 おかしなことを言う奴だ。俺? 俺は、桃から生まれた、桃……


「……太郎さま、さすが、素晴らしい回復力でございますね」


「ん」


 俺は我に返った。


 ユラは、感心したようにそう言いながら、ユラを見つめる俺の額を、濡らした手ぬぐいでぬぐった。冷たさが心地よかった。だがもう、顔面を殴られた痛みはほとんど引いていた。


「まだ、腫れているか」


「いいえ、切れた額の傷口ももう乾いております」


 では……。


「いたたた……」


 起き上がろうとした俺を再びユラが制止する。


「桃太郎さま、いましばらくはご安静に」


 肋骨にヒビでも入っているのか、胸に走るズキリとした痛みに、俺は再び仰向けに横たわった。


 俺は寝台のような、少し高さのあるとこに寝ていた。身体の下に敷かれている綿が詰められた布団の柔らかさは格別だった。また、身体からだに掛けられている布も、厚みがあり、温かなわりに軽いもので、大変に心地良かった。


「なぜ――」


「え?」


「なぜ、そなたやこの城の住人達は俺に、俺達に優しくするのだ」


 ユラは微笑みを絶やさずに即座に答えた。


「もともと、優しいからでございます」


「いや、ユラ。俺は戯れで問うておるのではない」


 ユラは笑みを抑えて、眉根を寄せた。


「わたくしも戯れてはおりませぬ」


「この島の住人は皆、鬼や化け物たちだ」


 ユラは急に怒気を含んだ声色になった。


「鬼、化け物……。桃太郎さまは、わたくしをどうご覧になりますか」


 ユラは俺の寝台の横に掛けていた椅子からさっと立ち上がった。


 淡い色の小袖を着て、長い黒髪を後ろで束ねているユラの全身の姿が、ほのかな灯りの元で、俺の視界に入った。


 若い女子おなごらしい華奢な体つきで、怒った眼差しも、まだ微かにあどけなさの残るかんばせも、たいそう美しかった。


 ただ、ユラの肌の色は、ハヤトと同じ、緑色だった。ツノもわずかながら、あった。


「わたくしは、鬼、化け物にございますか」


 俺は答えに困った。


「ユラは、優しい」


 俺が苦し紛れに答えたのをユラは察して、わずかに表情を緩めながら、再び俺の傍らに腰かけた。


「桃太郎さま、鬼はすべて恐ろしい、化け物はすべて優しくない。いいえ、恐ろしくて、優しくないものが鬼、化け物というのは、当たっておりませぬ」


 腰かけても、両手を膝に揃えて置き、背筋をピンと伸ばしたユラの姿は美しいと俺は思った。


「もし、あなたさまの村の人々を怒らせ、悲しませ、苦しませる存在を、鬼と申すなら、わたくしたちは、鬼ではありませぬ。わたくしたちは、この城とその周辺で普通にくらしている民です」


「だが、門のところで俺はガムガラに殺されかかった」


「桃太郎さま、人間のあなたさまがもし、人間のお殿さまのおわすお城の城門の中へ勝手に入ったら、やはり殺されても文句を言えないのではないですか」


「それは、そうだ。だが、鬼と人間は、恐れ、嫌悪し、憎悪し合うものと相場が決まっておる」


 それを聞くとユラは、深くため息をつき、しばらくの間、膝に置いた自分の手元に目を落とした。そして、自分に言い聞かせるかのように目を落としたまま口を開いた。


「わたくしたちから見れば、肌の色の白い、ツノのない、おかしな生きものが、わたくしたちに危害を加えに来た。それがあなたさまなのですよ」


 ユラは続けた。


「桃太郎さま。仮にわたくしたちを「鬼」と呼ぶとして、人にしろ、鬼にしろ、一括りに『これはこうである』と決めつけることをなさいますな。人にも鬼にも善悪それぞれございますゆえ」


 俺は返す言葉がなかった。


 確かに人間にも善人と悪人、そして、時によって善人にも悪人にもなる、多くの「普通の人間」がいる。ならば、鬼の社会にも、良い鬼、悪い鬼、そして普通の鬼がいると考える方が自然ではあった。わが村で狼藉をする鬼だけを通して、「鬼とは一頭残らず、そのような忌むべき存在である」と、俺自身が思い込んでいた。憎悪は無知より生まれているのかもしれない。


「いかにも。あい分かった」


 俺は素直に認めた。


 ユラは、雲が途切れてお天道さまが顔を出したようにパッと目を輝かせて、


「ありがとう存じます」


と俺に礼をした。


 ユラは椅子を少し俺の方に寄せた。


 恥ずかしそうに目を伏せながらユラは言った。


「ですが、わたくしたちにも非はあるのでございます」


「というと」


「わたくしたちもこの島で、本土の人々が使う、鬼という言葉を使っております。例えば、わたくしたちの今の首領さまは、鬼婆さまと申します」


「ああ、あの、老婆だな」


「あのお方は、あなたさまや人間にとって、悪い存在ではありません」


「そうか、ユラがそう言うのであれば、きっとそうであろう」


「まあ、嬉しいことを」


 ユラは少女のようにはにかみながら言葉を継いだ。


「ですが、お方さまがこう言っておられました。人間は、人間にとっての憎悪の対象、悪の象徴のことを『鬼』と呼んでいる。わしら自身が鬼という言葉を使うては、人間にとって悪たる存在であることを自ら受け入れるようなものじゃ、と」


「そうか……」


 俺は実のところ、そういう理由ばかりではないと思った。どんなに善き存在であっても、ツノが生えておれば、鬼と呼びたくなる。しかし、今それを言うとユラを傷つけてしまうと俺は思った。


 俺は質問を変えた。


「ときにユラ」


「はい」


「聞きたいことがある」


「はい、なんでございましょう」


 一瞬、続く言葉を見失った。小首をかしげるユラの仕草に俺は心を奪われたのだった。それをユラに気づかれるのが恥ずかしくて、動悸が早く、高くなるのを慌てて声でかき消した。


「ハヤトと闘っているとき、奴が俺に訊いたのだ。『お前は、誰の愛を受けてきた? そして、誰に愛を注ぐのだ?』と」


 ユラは黙って頷いた。俺はユラに訊いた。


「愛とは何だ?」


 ユラはしばらく黙っていた。


「ユラ、分かるか」


 俺は今一度ユラに問うた。


 するとユラは、俺の目を覗き込むようにして答えた。


「愛は、その昔、海のはるか向こうからこの島に流れ着いた異国の船乗りから伝えられた言葉ときいております」


「そうか、して、その意味は」


「愛の代わりにそれを表す言葉をわたくしたちは知らなかったゆえに、愛という言葉を使うようになったのだと思います。ですから、別の言葉で説明するのは難しゅう存じます」


 俺は、じれた。


「ユラ、そういうことを言わず、何とか説明してくれ」


 ユラは困ったような顔をしたが、視線を宙に泳がせながら、独り言のようにつぶやいた。


「誰かを深くお慕いする気持ち、何かを好いて何においても大切にしたい気持ち、そのためにはわが命を差し出しても構わないという気持ち――」


 そこまで独り言のようにつぶやくと、ユラはハッと我に返ったように、


「やっぱり、わたくしもよく分かりませぬ」と首を振った。


 そして俺に視線を戻して、きっぱりと言った。


「桃太郎さま、愛は、説明するものではなく、感じるものだと、わたくしは思います」


 だが、俺はさらにユラを問い詰めた。


「であるなら、ユラ、お前は愛を感じたことがあるのか。それがどういうものか、分かっておるのか」


 ユラは再び桃太郎から目を逸らせて、当惑したように視線を目まぐるしく変えた。


「さあ、それは……」


「愛とは、不思議なものなのかも知れぬのう。ユラがこんなにも戸惑っておる」


 ユラは俺にそう指摘されて、心を見透かされたように感じ、頬の緑色を鮮やかに変えて俯いた。


「いじわる」


 ユラとのやりとりが楽しかったが、俺は愛なる言葉の、おぼろげなる意味は合点したものの、もっと深い何か、例えば、わが命を差し出しても構わない気持ちなどというものはよく分からなかった。


「ユラ、喉が渇いた。済まないが水をもらえまいか」


 ユラは俺の言葉攻めから解放されて、ホッと笑って、かしこまりましたと答え、絹の仕切り布の向こうに消えた。


 しばらくののち、ユラは盆に水呑み杓と、器に入った粥を載せて現れた。


「お食事も一緒に召されませ。まだ腹が痛むようですから、粥でございます」


 俺はユラに礼を言って、水を飲むために起き上がろうとしたが、先ほどと同じで痛みでどうにもならなかった。


 ユラは杓に水を汲んで、仰向けの俺に手渡した。俺は口元で少し杓を傾けるようにして、少量の水を口に流し込んだ。冷たい清水は口中を鮮烈に潤したが、流れが撚れて、俺は激しくむせた。咳き込むと胸のあたりと腹がズキズキ傷んだ。おさまらぬ咳と痛みで涙が目尻ににじんだ。


 ユラは慌てて俺の肩のあたりをさすった。


「桃太郎さま、大丈夫ですか。やはり寝たままですと、息が詰まって危のうございますね」


 ユラは杓の水をしばらく見つめていたが、新しい水を汲んだ杓を手に持ったまま、桃太郎に言った。


「桃太郎さま、お顏だけ少し斜めにお向けください」


「こうか?」


 俺は横たわったまま、ユラの方に頭を向けた。


 ユラは立ち上がって、怒ったような眼差しで俺を見下ろしていた。俺が斜め上方に顏を向けたのを確認すると、ユラは水を口に含み、杓を置いて、右の横髪を、耳に懸けるようにかき上げ、しゃがんで俺の口に自分の口を押し付けた。


 俺は思わぬことに慌てたが、その声を上げるべき口を封じられているので、喉の奥で「うう」と呻いただけだった。


――な、何を!


 ユラの口から俺の口へと水が少しずつ流れ込んできた。俺はぞれを口の中で転がしきれず、水を呑み込んだ。喉仏がごくりと音を立てた。俺は、今度はむせることなく胃の臓に水を流すことができた。


 久しぶりに喉を通る清水は瞬時にして体中を潤すような感覚があった。


 ユラが口を離した。


 俺は、


「旨い!」


と、素直に感動を口にした。


 ユラは、かすかに笑ったような、あるいは泣いたような表情を一瞬浮かべて、二口目を口に含み、再び俺に口づけた。さらに三口目は、俺の方からユラの唇をむざぼった。柔らかな果実から甘露を吸い出すと、それは意のままにほとばしり出た。


 ユラは匙を注意深く使って、一口ずつ俺に粥を食べさせた。傍から見ると病人のように情けないことになっていると思ったが、ユラにそのようにしてもらうのが心地よくて、雛鳥のように、あーんと阿呆な口を開けていた。滋養が五臓六腑に沁み渡っていった。

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