第三章(3)
三
ハヤトと呼ばれた男が影から歩み出てきた。
俺を見すえてまっすぐ歩いてきた。ともかくもその目は、白目が白く黒目が黒く、思いつめたような生真面目な人間の男の目だった。ようやくまともな人間のような奴に出会えたと俺は思った。しかし、奴の頭にも二本のツノがあった。やはり鬼だ。そして肌は人間離れした
ぐあっ。
ごふっ。
視界が真っ暗になったと思ったら、俺の目の前に、恐怖におののきつつ逆さまに覗き込む犬吉の顔が徐々に認識できた。
「立て、桃太郎!」
緑鬼の声が足元の方から聞こえた。
――立て? なぜ俺は寝ている。
そう思うと、腹のあたりがじーんと熱くなっているのに気がついた。
「桃太郎どん、起き上がってくれ。反撃だ、反撃してくれ」
犬吉は上下逆さまに俺に言った。
顏にも痛みがあった。鉢巻をした額に触れると、ぬめっとした感触があった。血のようだ。
――たしか、ハヤトといったな。やってくれたな、この野郎。
ふつふつと闘志が湧いてきた。
――これだよ、この現実の痛み。恐怖ってのは本当は、痛みを感じる前に襲ってくるんだ。殴ってくれたおかげで、恐怖心が取れたぜ。俺は鬼ヶ城の中枢にあって、まだ生きておる……へっ。
そう思いながら俺は、痛みに苦しむどころか、笑いすら浮かべながら、ゆっくり立ち上がった。
視界に再び緑鬼が現れた。
「怖えーかっ!」
興奮した雉が叫んだ。
「怖くないッ! なんのこれしき」
俺は緑鬼に向かっていった。
ハヤトの拳がうなりながら横から飛んできた。
俺は屈んだ。
拳は空を切って、勢い余ってハヤトはよろけた。
そこへ俺が頭をかがめて突っ込んでいく。
ガッ。
ハヤトもろとも地面に倒れこむ。
素早く起き上がった俺はハヤトに馬乗りになって顏に左右から拳固を食らわせようとした。俺の右拳はハヤトの手で弾かれたが、左拳は奴の右頬に命中した。
――くうっ。
手応えを感じた刹那、俺は充足感に満たされる。
が、その途端、
ガボッ。
俺の視界にまた火花が飛んだ。俺の右拳をやめた、奴の左手がそのまま俺の顔に突入してきたのだった。
俺は目が見えないまま、起き上がるハヤトに身体ごとひっくり返された。
火花が収まったその向こうから、足の裏を俺の顔に力任せに落とそうとする奴の顔が見える。
ひゃっ。
俺は身体を横にひるがえした。と、そこへハヤトの次の足が落ちてくる。
とっ。
俺はもう一回転した。ハヤトの次の足……。
ぐえっ!
なんでだ?
ハヤトは、俺がもう一回転する、その先を見越して足を落としてきた。俺はわざわざ奴の足が落ちてくるところへ転がっていくという羽目になったのだった。
「き、雉っ……」
柔らかい腹が踏みにじられた。
ぐええ……。
俺はあまりの苦しさに顏をしかめた。
ハヤトは言った。
「ガムガラの腕を裂いたらしいな。さぞや痛かっただろうな、ガムもガラも」
――なんだ、あいつら下半身は一つのクセに、二つの頭に名前があるのか。……というか、おい、苦しいじゃないか!
オレは景光の鯉口を切って、その刃を、俺を踏みつけているハヤトの腱に当てた。
「痛ッ!」
ハヤトは腱を傷つけられた痛みで後方へ飛びのいて尻もちをついた。
苦しかったが俺は素早く起き上がった。
「こら鬼! お前にもガムガラと同じ痛みを味わわせてやろうか……おえッ」
すると後ろのどこかで、
「気持ち悪いなら余計な台詞、喋らなけりゃいいのに」
――あいつ! 後で一発喰らわしてやる。
俺はハヤトに歩み寄った。
そのとき、傍らから、ガムガラが叫びながら俺に襲い掛かろうとした。
「うおーむ!」
その叫び声にかぶせるように、ハヤトが叫んだ。
「手を出すな! 俺に任せろ」
それを聞いて俺は、思わず後ろの雉右衛門に叫んでいた。
「そうだ思い出した。なんで手を出さなかった! 俺一人に任せるな」
ガムガラは足をやめた。雉は足を進めなかった。
ハヤトが、その黒い黒目で俺を見すえて言った。
「桃太郎、お前は見下げ果てた卑怯者だな」
「なぜだ」
「これは、お前の闘いではないのか」
「なんだとぉ……とでも言うと思ったか。オレはそんな簡単には釣られん。『俺たちの闘い』で一向に構わん」
「違う、伴の者のことではない。お前は何と闘っているのだ」
「何って……お前とだ」
「そうかな。俺は今、俺自身と闘っている」
ハヤトはそう言いながら立ち上がった。
「はあ?」
――しまった。言葉に惑わされて時間的余裕を与えてしまった……
オレは後悔した。
案の定、ハヤトが殴りかかってきた。
「お前は、自分の意思でここへ来たのか」
俺を襲いながらハヤトが訊く。
奴は腱を傷つけられているせいか、踏込みが甘く、拳が勢いに乗って来ない。俺は上体を逸らせて奴が浴びせてくる拳を次々と避けながら答えた。
「そうだ」
するとハヤトも続ける。
「本当にそうなら、自分と向き合っているのだろうが、伴の者を頼るようでは、必ずしもそうではないな」
「鬼、お前、何が言いたいのだ」
「桃太郎、お前は、自分と向き合うことを避けている、希代の卑怯者だと言いたい」
「自分と向き合うこと……?」
避けながら腕に触れた絹布を、俺は素早く奴の腕に巻きつけ、床に垂れ下がったもう一方の端を足で踏みつけて固定した。ハヤトは一瞬ひるんだ。ハヤトの左腕は布がひっかかって、胸より上に行かなくなった。
俺は守りが薄くなった奴の顔に数発、拳固を喰らわせた。
「鬼、俺に何と向き合えというのだ?」
血をペッと吐き出したハヤトが俺を睨み返して言った。
「自分の――」
ドウッ。
ううっ。
俺はまた腹に奴の蹴りを喰らってよろめく。
「自分の、宿命とだ」
ハヤトはもう片方の手で腕に絡まった布をほどきながら言った。
「桃太郎、お前は、なんで――」
反撃してくるハヤトの目が、なぜだか悲しみの色を帯びていた。
「なんで、桃から生まれて来たんだ」
俺は殴られた。
がっ、がふっ。
「桃太郎、お前は、誰に育てられたんだ」
がしっ。
痛い。さっきよりずっと、奴の拳が固く感じた。
「答えろッ、お前は、誰の愛を受けてきた」
ぐはっ。
俺は平衡感覚が怪しくなってきた。
「そして、誰に愛を注ぐのだ」
ごりっ。
俺は、ハヤトに応戦しようと拳を振り回すが、ことごとく精度を欠いて空を切った。
「お前は……そして俺は……」
――あ……頭が……痒い。てっぺんが、むずむずと痒い……。
意識が遠のいた。
「誰なんだッ!」
がぐっ。
格別重く固いハヤトの拳が、俺の頬を直撃した。しかし、俺はむしろ、頭のてっぺんの痒みの方が、処理不能の感覚として残っていた。
俺は膝をついて、次にうつ伏せに倒れた。
ハヤトは闘いをやめ、意識が遠のく俺に言い残した。
「俺は、ハヤトだ。お前は、誰だ?」
そして緑鬼は、
「
と言って、壇上の老婆に一礼してから、少し足を引きずって去っていった。
「うむ。しかと見届けた。確かに、な」
鬼婆は、闘いを観戦していた部下の鬼たちに、犬・猿・雉を、倒れている俺に近づかなせないよう命じた。
――ああっ、頭が……むず痒い。
「桃どの!」
「桃太郎どん!」
「桃の兄貴!」
鬼たちに遮られて近づけない彼らの、俺を呼ぶ声も遠くに聞こえた。
薄れゆく意識の中で、懸命に頭を掻こうと手を伸ばすのだが、指先が鉢巻に触れたあたりで俺は力尽きて、暗闇に包まれていった。
股間が床に抗っているのを感じながら。
全身傷だらけの中で、俺は勃起していた。
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