第二章(2)

   二


 東の闇がわずかに白んだ。


 消炭色けしずみいろの絹糸を流したような滑らかな海の先に、朝靄あさもやに紛れて鬼ヶ島の影が黒々と浮かび上がって来た。


 俺たちは、「鬼ヶ城」と村人が呼ぶ城塞があるその反対側に夜明け前から回り込んで、後方から島に近づいていた。


 鬼はもっぱら夜活動し、昼は寝ていると聞いているが、確たる根拠はない。


 突き出た岬の高い峰には、先ほどまで見張り小屋が見えていたが、船は後ろ側から岸沿いギリギリを回航することで、見張り小屋の足元の死角を縫うことに成功していた。荒波ならたちまち岩場に打ちつけられて船はひとたまりもなく座礁するところだ。朝靄と、珍しいほどの凪が味方をしてくれていた。


 船は岬の峰の真下で止まった。


 相当な銭を積んで、嫌がるのを何とか説きふせ、渋々船を出してもらった船頭が、声をいっそう低くして俺に言った。


「さあ、ここまでだ。ここから先は小舟に乗り換えて早いとこ行ってくれ。夜が完全に明ける前に大急ぎで逃げ帰らねえと、大変なことになる」


 船の衆が手早く手漕ぎ船を下ろした。


「かたじけない」


 俺は船頭に残り半分の銭を手渡すと、


「帰りもよろしく頼む」


 と言った。


「しかし旦那、約束の狼煙が上がらなければ、俺たちは決して船を近づけねえぞ。それは分かったな」


「ああ、分かった。三日目の夜にあの見張り小屋で狼煙を焚く。あおい煙が見えなかったら、金太と銀次に俺は死んだと伝えて、郷里へ帰してやってくれ」


「武運を、祈ってるぜ」


 俺は頷くと、猿ノ助や犬吉に続いて小舟に乗り換えた。雉右衛門が飛び移ると、母船は音もなく後ずさりし、方向転換して靄に呑み込まれていった。


 犬と猿が漕ぎ手を務め、雉を見張り兼水先案内役にして、薄い紺の絵の具を溶かし込んだような薄明の中、俺の小舟はそろそろと岬を回り込んでいった。


 朝まずめに湧く魚群なぶらを海猫が騒々しくついばむ。波音が静かなだけに、その宴が見張り小屋の鬼どもの海への注意を引くのではないかと犬吉はやきもきして、そばだてた耳を右に左にせわしなく動かした。


 小舟は岬の先を回り込んだ。


 船頭から事前に聞いていた通り、目の前に鬼ヶ城があった。波打ち際すぐから、高く切り立った岬にこちらと向こうを挟まれ、その間に急斜面の崖が手前まで続いている。崖の中腹に建物があり、さらに斜面に沿って、上方奥まで人工物が続いているようであった。中腹の建物の手前には何があるのか分からない。なぜなら、猫の額ほどの砂浜の向こうに威風堂々とした城門がそびえ立ち、何人をも固く拒絶していたからだ。


 固く閉ざされた城門も、その奥に見える楼閣も、幼少の頃おじいに幾度となく話に聞いた、備前の殿さまのお城のように立派なしつらえに思えた。しかし、朝靄が晴れるにつれ、逆に城そのものの形容として、全体にどことなくくすみ、疲れているように見えるのだった。もちろん、人影ないし鬼の影は全くうかがえない。生気がないのがその理由なのかもしれないが、


――気味が悪い。


 一言で言えばそういった印象だ。これから空が明るくなっていくというのに、物の怪じみたおどろおどろしさが小舟を包んだ。

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