第八章(4)

   四


 俺とハヤト、それに犬、猿、雉は、ガムガラ軍とも別れ、さらに稜線を大きく反対側まで回り込んだ。


 敵の砦は岩山の際に建っている。


 建物のすぐ背面の急な傾斜を一面に覆っている灌木の茂みに身を隠して、俺たちは敵の様子をうかがった。


 悪鬼軍の砦が、鬼ヶ城よりかなり小さいことは、物見の者の報告で出陣前から分かっていた。いずれわれらの鬼ヶ城を乗っ取るつもりで、ここは仮の拠点に過ぎぬのであろう。


 ここから見える砦の二階の部屋には、淡く灯は入っているようだが、動く影などはない。


――まだ大手軍に気づいておらぬようだ……。


 先刻けもの道を行軍中、高みから目を凝らすと、悪鬼の砦の前浜に、物見やぐらが見えた。今夜は雲が多く、月が出ておらぬから、うまくいけば上陸し始めるその時まで、見張りは大手軍に気付かぬのではなかろうか、そして逆に、味方である小舟の漕ぎ手たちからは、物見やぐらの松明が、上陸の格好の目印になるはずだ……と俺は思ったのだった。


 だが、悪鬼どもにとって俺たちの奇襲がいかに思いがけぬことであるとしても、奴らにとっても出陣前夜なのだ。大手軍の二百の軍勢、三十隻の小舟がいかに静かに寄せたとしても、夜番に見つかることなく無傷で全軍上陸できるとはとても考えられなかった。


――参謀どのは兵を首尾よく上陸させていようか……。


 生暖かく弱い海風が時折り潮の香りを運んでは来るが、海は凪いでいるようで、波音はここからは聞こえなかった。


――搦め手のガムガラはいかがか……。


 大手軍に気づけば、砦が小さいゆえに包囲されては不利と、悪鬼どもは迎撃に撃って出て来よう。さすれば、大手軍が布陣し終える前から波打ち際での戦闘になるゆえ、その機を狙って搦め手軍は、砦の左後方の森より出でて敵を挟み撃ちにせよ――というのが、軍議でガムガラ軍に課せられた役目であった。


 その、砦の左後方にあたる森で不如帰が低く鳴き始め、いったん泣き止んで、また鳴き始めた。ガムガラ配下の猩々どもの配備が完了した合図である。


――しめた。あとは大手軍が全員上陸できれば良いのだが……。


 ハヤトと俺は無言のまま目交ぜをした。


 もう四半刻ほどで漆黒の空が西に引き始め、青味を帯び始める。このままうまくいけば、夜が明けかけて敵が気付いたときには、味方の軍はすでに布陣を終えている、という有利な状況で開戦できるやもしれぬ。無論、物見の者を射落として、砦との連絡を絶たねばならぬだろうが。


――それにしても……。


 俺の胸に一抹の不安がよぎったそのとき、隣りのハヤトが声を殺して俺につぶやいた。


「桃太郎、おかしくないか」


「うん?」


「静か過ぎる」


「ああ、俺もそう思っていた」


 そうなのだ。頃合いから言って、大手軍はもう次々に上陸し、粛々と布陣にかかっているはずだ。だが、すぐ足元、凪の波打ち際で、無数の草擦りの音や砂を踏みしめる音が鳴っているはずなのに、物見やぐらから敵の襲来を砦に知らせる鉦や太鼓が鳴らぬどころか、渚の状況を確認するための松明の数すら増えぬ。動きがまるでないのだ。


「ハヤト、これは……罠ではないのか」


「ああ、あり得る」


「では、敵はすでに俺たちの動きを……」


 そう言いかけて俺はぞっとして、思わず後ろを振り返った。


 見えた!


 後方斜面の十間ほど向こう、ひときわ高い木の枝に座ってこちらをうかがっていた、大きな黒い塊と、俺は目が合った。


「ハヤト、いかん、罠だッ」


 俺が身体ごと後ろを向いたので、脇に控えていた犬、猿、雉も驚いて俺に倣った。ハヤトが振り返った時、黒い塊はすでに枝を蹴って俺に向かってきていた。奇怪きっかいな叫び声を上げて。


「ケーッケッケケケケッ!」


 俺が景光かげみつを抜く間もなく、黒い塊は、滑空するように宙を飛んで俺に飛び掛かってきた。


「うわっ!」


 俺はその場で塊と組み合い、犬と雉が飛び退いた辺りをゴロゴロと横に転がった。


――鳥か?


「ギョヨヨヨ」


 組み伏せられた俺の目の前で、奴の黒目が小さくなり白目の輪郭が広がった。と思えば、大きな嘴がくわっと開き、赤黒い、いや、黒赤い口腔の奥から舌らしき突起が別の生きものように動いた。


 と、


ガツッ!


「ギョエッ」


……と鈍い音と化け物の悲鳴がして、奴は俺の前から突然消え去った。ハヤトが奴の頭部を渾身の力で殴りつけたのであった。化け物はもんどり打って急斜面を二、三回転がり落ちたが、その後は羽根をバサバサさせ、よろめきながらも体勢を整え、その場を飛び立った。そしてガムガラ軍が潜む、向こうの森の方へ飛び去りながら大きく鳴いた。


「ケラケラケケケ……」


 これは何か合図のようだった。化け物が目指した先の森からも、海側の闇のどこかからも、また、俺たちの背後からも、呼応するように一斉に同じ叫び声が聞こえたからだった。俺は、予想し得なかった展開にかなり衝撃を受けた。


――監視されていた。俺たち別働隊でさえ……。


 いわんや、ずっと大人数のガムガラ軍や方相氏軍をや。


 果たして、山の後ろ側から、海辺の岩陰から、無数の松明が急に燃え上がった。待ち伏せを受け、挟み撃ちにされたのは、俺たちの方だったのだ。


「しまったぁ!」


 ハヤトは歯噛みをして悔しがった。いまや敵方の無数の松明で、砂浜一帯が海までがほんのり明るく照らし出されていた。


 時を同じくして、砦からもわらわらと人影が飛び出して来た。人影は鬼影であろう。鬨の声が上がった。声の主たちは、上陸作業中のわが軍の小舟に襲い掛からんと砂浜を駆けていった。すでに上陸を終え、各々の配置に着こうとしていた味方の軍勢は、当惑しながらも砦からの不意の敵勢を迎え撃とうとしたのだったが、横手の岩陰から、松明に導かれた敵の別働隊が襲い掛かって来たので、大変な混乱に陥った。


「うぉおおおむ」


 右向こうの森から、ガムガラらしき叫び声が聞こえた。続いてその回りでも鬨の声。ほら貝が鳴り、松明が激しく揺れた。


――あちらもか。


 俺もハヤトも、犬、猿、雉も、全てが予想外に動き始めたことを悟った。


「ハヤト、後ろだ」


「むう、隠れておったのか」


 鳥の化け物が止まっていた木の、さらに後方の灌木の影から、黒い塊が十か二十、一斉に起き上がってこちらへ向かって怒濤の行進を始めた。


「桃太郎、敵方の牛鬼どもだ」


「なんとハヤト、奴らツノに松明を括り付けておる」


「うむ。だが熱さだけに気を取られるな。毒を吐くゆえ、気を付けよ」


「分かった」


 ドドドドド……。


 身体が巨大な蜘蛛で顔面が牛の化け物が、群れをなして急峻な山肌を駆け下りてきた。ツノの松明を燃やし、目を血走らせ、牙を剥いて、灌木をなぎ倒しながら、一列の横並びで逆落としに駆けて来る。


 ハヤトと俺、猿、そして犬と雉は、牛鬼たちを充分引きつけておいて、奴らに蹂躙される直前で勢いよく飛び上がった。犬は雉に助けてもらって充分に高く跳躍した。


 牛鬼たちは勢いつけて駆け下りてきているので、急には止まれず、俺たちを見失って、そのまま山裾に駆け下りていった。


 後には煙と土煙がもうもうと立ち昇った。


「コホッ。へっ、どうということはないわ」


 雉につかまって緩やかに着地した犬吉が半ば咳き込みながら息巻いた。


 ハヤトが心配そうに言う。


「いや、奴ら、そのまま砦を回り込んで浜を駆け、参謀殿の方へ向かって行ったようだ。大事なければ良いが……」


 いまだ晴れぬ埃の中、俺が回りを見回しながら訊いた。


「犬吉どの、雉右衛門どの、猿ノ助どのはどうした」


「えっ、おらぬか」


「どこにも見当たらぬ」


 雉右衛門が言った。


「猿どのがわれらと一緒に跳ぶのはこの目で見た。このあたりにひしゃげておらぬところを見ると、群れに連れて行かれたか……」


 犬吉はかぶりを振って答えた。


「いや、雉どん。猿どんのことだ、おれぁ、猿どんが、何か思うことあって、自分から進んで牛鬼の背に乗ったのではないかと思うておる。あの素早い身のこなしだ。よもや踏みつぶされたり、とっ捕まったりはしまいて」


 雉右衛門と犬吉のやりとりをそっちのけに、ハヤトは桃太郎に問いかけた。


「桃太郎、われら鬼ヶ城軍の挟み撃ち作戦は失敗だ。奇襲がばれていた以上、イットゥは警戒して、形勢を見極めるまでは出て来まい。逆に俺達はここにいることがばれている。大勢で取り囲まれてはやっかいゆえ、かくなる上はできるだけ早く、参謀どの率いる大手軍と合流を図るがよいと思うが、お前はどう思うか」


 波打ち際に敵と戦っている大手軍の人影が多数見え、叫び声や金属音が聞こえていた。ここからの距離、およそ二、三町。


 俺は頷いた。


「もう明るくなってくる。夜討ちが失敗した以上、浜でひとつに集まって、多勢を頼みに闘う方が勝算があろう」


 見ると、右手前方の森から、黒い影の塊がゆっくり砂地を移動している。ガムガラ率いる搦め手軍の猩々どもも、寄せる敵中を突破して本軍に合流を試みているようだ。


――猿は、どうする?


 構わず放って行って良いのか。だが俺は、あの抜け目のない猿ノ助がしくじって命を落とすはずはないと、楽観的に考え直した。


「猿ノ助どのとも、そのうち戦場いくさばで再会しよう。各々方、いざ参ろう」


 俺は犬と雉を見やって頷いた。


「あっ!」


 そのとき、雉右衛門が叫んだ。


「いかがした、猿どのが見つかったか」


 雉右衛門は、何事かといぶかしむ俺の方を指さし、目を見張っていた。


「桃どの……」


 その指さす先を俺は振り返った。前方には砦の外壁があるのみだ。先ほど駆け降りていった牛鬼たちはもういない。


「雉右衛門どの、何か見えるのか」


 俺に問われた雉右衛門は、伏し目がちに目をクルクル左右に動かしながら答えた。


「い、いや……、見間違いでござろう。何でも、ござらぬ」


 まだ完全に明けきっておらぬうちから鳥目の雉右衛門に何が見えたというのだろう。俺は首をひねりながらも、あるいは本当に雉が砦内の敵か何かを見て、それが俺たちに矢を射かけてくる場合があるやも知れぬ……と、細心の注意を払いながら、土埃の収まりかけた傾斜を、ザッザッと足早に下っていった。

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