第42話 佳織姉ちゃん

 砂川は部屋を後にして、エレベータで降下してからロビーに入った。フロントを担当していた大橋の息子――大橋正勝が、こちらに視線をくれた。

「お出かけですか。岡松さん。それならキーをこちらに」

「ああ、分かってる」岡松和利。それがこのホテルでの名前だ。忘れてはいけない。「一週間宿泊すると決めていたわけだけど、延長するのは可能なのかな? 可能なら、もう一週間くらい泊まりたいんだが」

「取材が長引きそうなんですか?」

 疑り深い視線。

「そうだ」

 キーを渡して、ホテルを去ろうとすると、正勝が言った。

「すみません。ホテルに戻ってきたら、免許証などを提示してもらうことは可能でしょうか? まだ確認しておりませんでしたので」

 まずい、と思う。大橋老人がなんとか誤魔化してくれたのに、これでは全て水の泡だ。警察を呼ばれてしまう。

 砂川は咳払いをすると、怒ったような態度を取った。

「待ってくれ。わたしは君の父親と一緒に来た。それだけで充分じゃないか。なんで、わざわざ、そんな面倒なことをさせるんだ? まさか、わたしを逃亡犯とでも疑っているんじゃなかろうな?」

「え? いえ、そんなことは――」

 見る限り、このホテルは儲かっていない。この男も経営者として、一週間も宿泊してくれる客を逃したくはないのだろう。彼はすまなそうな表情を作った。

「申し訳ありません。失礼なことを言って」

「いや、いいんだ。それと、ベッドメイキングや部屋の掃除はしなくていいから。わたしがいない時は、部屋に入らないでくれ」

「分かりました」

 幸い、それ以上、追求を受けることはなかった。しかし、身元の証明は非常に重要だ。大橋老人には悪いが、このホテルにも長居は出来ないだろう。そう思いながら、玄関から外に出た。雪は降っておらず、晴天だった。雨や雪が降っていれば、傘を差して顔を隠せるが、晴天では出来ない。逃亡犯が潜伏していた場所とあって、不審人物を探すパトロールやパトカーが街中を走り回っている。今日はショッピングセンターでじっとしていた方がいいだろう。

 灰色の暗雲が垂れ込めている。繁華街から出ると車の行き来が激しくなり、鼻を顰めたくなるようなガソリンの臭いがした。ダウンジャケットをしていないので、冷たい風が刺すように吹いて、鳥肌が立つほど寒かった。マスクと眼鏡について少し考えたが、堂々と歩いていれば、怪しまれないと気付いた。冬の季節であるのだから、これくらいの装備は普通だろう。それよりも、軽装で出歩いていることのほうがパトロールに怪しまれる原因になるのかもしれない。

 そのまま歩いて行き、目的のショッピングセンターに入った。平日であるが、駐車場には隙間なく車が敷き詰められている。

 最初に入った店は、世界的に規模を拡大しており、安いことで有名な服屋だった。前のダウンジャケットもここで買った。

 購入したのは、温かそうな肌色のコートだった。これなら、ニュースで報道されている黒色のダウンジャケットとは正反対であるし、怪しまれにくいだろう。

 カウンターのレジ係に差し出すと、金を払った。クレジットカードを使わないかを尋ねられた。出来るだけ釣り銭は欲しくなかったが、現金で支払った。クレジットカードを使うと履歴が残って、居場所を警察に伝えてしまうことになるからだ。どこかで部屋でも借りられれば、と思うが、この顔ではどうしようもない。

 次は本屋に立ち寄って、数冊本を購入した。旅館「あらはま」に向かう時に、購買で購入した文庫本は、全て読み終えてしまった。サラリーマン時代は、ほとんど本を読む習慣を失っていたし、読んだとしても、上司から勧められた「自己啓発モノ」という類の本だった。

 途中、警備員と擦れ違ったが、こちらに注意を払っている様子はなかった。犯人は仙台市に潜伏していたが、警察の襲撃を受けて、東京方面に逃げたと報道していたはずだ。そして、そこでの銃撃戦。犯人のうち、一人が死亡。もう一人の犯人、砂川耕司は現在、行方不明である。

 映画を見たあとはフードコートで飯を食べようと思った。しかし、人が多いところはまずいと考えて、たこ焼きを買って、歩きながら食べた。食べ終えると包装などをゴミ箱に捨てた。

 やることがなくなったので、ショッピングセンターを出た。時間にして、午前四時。まだホテルに戻るのには時間が早すぎるように感じた。携帯で辺りを検索して、身分証明書のいらない漫画喫茶を見つけた。狭い個室の中で、ジュースを飲んだり、食べ物を食べながら、本屋で買った文庫本を読み耽った。午後七時を回ると、ホテルにへと戻った。あまりに遅く帰ると、パトカーに見つかる可能性があるからだった。

 砂川がロビーに入ると、中がやけにやかましかった。フロント係が警官となにやら話しており、大橋の息子は困り顔だ。

 俺の行動が不審を買って、砂川耕司だとバレたのだろうか。だから、正勝は警察に通報したのか。まずい。早く逃げなければ――。

 警官がこちらに向かって歩いてきた。はっと表情を変えて、叫んだ。

「いたぞ! 捕まえろ!」

 咄嗟に身動きが出来なかった。二人の警官が砂川の方向に向かって走ってくる。逃げることも出来ただろう。しかしそれでは、自分が犯人だと言っているようなものだ。ここで、終わりなのかと思う。あの銃撃戦を生き残ったのに、こんなにもあっさりと。やはり、大橋老人が警察に通報したのか。信じていたのに――。いや、一般人として、それは当然か。脳裏にちらついたのは、麻友でも荒浜でもない、佳織姉ちゃんの姿だった。きっと、殺人犯として指名手配されているのを見て、驚いているに違いない。

「待て! 逃がすか!」

 頭に疑問符が浮かんだ時には、警官は砂川の横をすり抜けて、外に飛び出していった。もう一人の警官が横をすり抜ける時、「君、邪魔だよ!」と叫んだ。

 ロビーから道路に顔を出すと、女性もののハンドバッグを右手に持った貧相な男が、警官に追われて走っていた。彼らが追っていたのは俺じゃない。奴らは――。

「ひったくりだそうですよ」と、正勝が傍に来て言った。「ここら辺も物騒になったもんですね」

「警官はなぜここに?」

「ひったくり常習犯の男が、このホテルに宿泊していたそうなんです。警察がそれに気付いて、ここにやって来て……というわけで」

 膝の力が抜けて、床にへたり込みそうになった。足に力を入れて、倒れないようにする。ひったくりと警官はどこかに行ってしまったようで、完全に視界から消え失せていた。

 フロントでキーを受け取ると、エレベータで四階の自室に上がった。ドアの鍵を開けて、部屋の中に入る。オートロックだった。

 ベッドに倒れ込むと、大きな溜息を吐いた。

 危なかった。正勝が通報していたら、俺はあそこで終わっていたんだ。

 どこかに逃げないと、と思う。けれど、一体どこに?

 佳織姉ちゃん――。

 電話番号は未だに暗記していた。少し手を伸ばして、ボタンを押せば、彼女の声が聞けるかもしれない。

 一時間ほど転た寝をしたあと、コンビニに出かけて、商品を買った。自室で弁当や飲み物を食べたあと、不意に――そして、心の底から、彼女の声が聞きたかった。

 優しかった佳織姉ちゃん。今はどこにいるのだろうか。

 テーブルの上に置いていた携帯を手に取り、彼女の携帯電話の番号をプッシュする。

 もしかすると、携帯を変えているかもしれない。そもそも、繋がらないのかもしれない。もしそうだったら、潔く諦めよう。

 着信音が鳴って、一分ほど経った。

 やはり、もう繋がらないらしい。携帯の番号を聞いたのは高校時代だ。携帯を変えてしまっていても当然である。

 電話を切ろうとした時、マイクから女性の声が聞こえた。

「もしもし……? どなたでしょうか?」

 非通知からの電話。怪しむような声だった。しかし、この優しい声は、やはり、佳織姉ちゃんだ。

「か、佳織姉ちゃん? 俺だよ」

「え……?」困惑したように、佳織。「もしかして、耕司くん? 耕司くんなの? でも、そんなことって――」

「そうだよ。耕司だよ。佳織姉ちゃん」

「……」少しばかりの沈黙。「どうして……? どうして電話を? 今、あなたは警察に追われているんじゃなかったの?」

 懐かしい声を聞けて、砂川は柄でもなく舞い上がってしまった。

「今、仙台のビジネスホテル月光っていうホテルにいるんだ。出来れば、会いたいんだけど、無理かな?」

「……」

 佳織はまた無言になった。一分ほどの空白。なにかを深刻に思い悩んでいるかのように思えた。

「佳織姉ちゃん?」

「分かったわ」佳織は決心したようで、締めくくるように言った。「わたしもあなたに早く会いたいわ」

 やった! 砂川は歓喜に震えた。やはり、佳織姉ちゃんは自分のことを覚えていた。そして、会いたいとまで言ってくれた。二人の絆は昔と変わらずに、繋がっていたのだ。そのことがとても嬉しかった。

「どこで会おうかしら? インターネットで検索してみたら、耕司くんが言うように、ビジネスホテル月光というホテルが、本当に会ったわ。そこで待ち合わせでいいかしら?」

 それでは彼女に悪いだろう、と思う。

「佳織姉ちゃんが住んでいるところに、俺が行くよ」

「でも、警察に追われているんでしょう?」

 なぜか、彼女の声は緊張したように震えていた。砂川は興奮していて、その変化に気付けなかった。

「大丈夫。今、どこら辺に住んでるの?」

 佳織は宮城県内に住んでいると言った。実家から、そう離れてはいない場所だという。学校を卒業したあとも、地元に住み続けていたらしい。それならば、会いに行けば良かったと少し後悔する。

「じゃあ、仙台漁港はどうかな? そこに、あらはまっていう旅館があるんだ。高校時代の同級生がやっている旅館で、一度、そこに行ったことがある」

「……」

 また無言。

 カチャカチャとキーボードを打つ音が聞こえる。ネットであらはまという店を検索しているのだろう。

「あった。「あらはま」って店。そこでいいのね?」

 砂川は電話をしながら、深く頷いた。

「うん。そこでいいよ。そこで会おう」

「分かったわ。じゃあ、それでは」

「うん」

 電話は唐突に切れた。久しぶりに電話をしたのだから、切る時になにかあってもいいものなのに、と砂川は思った。

 けれど、良かった。佳織姉ちゃんは自分のことを忘れていなかったんだ。

 小さな歓声を上げて、ベッドに飛び込んだ。それが致命的な間違いだということも知らずに。

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