第13話 帰宅

 翌日。朝起きてすぐに洗面台で顔を洗い、寝癖をしっかりと直した。死地に赴きつつあるとはいえ、荒浜の前でだけは、きちんとしておきたかった。

 食堂に向かうと、早く来すぎたのだろうか。家族連れはどこにもいなかった。テーブルに食事は用意されているので、すぐにやって来るだろう。

 用意された席に座るとすぐに、携帯を取り出した。お届け予定日が今日になっているクロスボウは、ちゃんと届くだろうか。到着日時が午前九時から十二時になっているので、その時間までには家に戻りたかった。

 あのクロスボウで、久保木の野郎を射貫いていやる。そして、苦しんでいる間に、包丁で体を切り刻んで、拷問してやるんだ――。暗い妄想が、際限なく頭の中で広がっていく。

 不意に、不倫された程度のことで、相手を殺すのはどうか、という疑問が上がった。

 砂川は頭を振った。

 それではなぜ、わざわざクロスボウを注文したのかが分からない。妻を殺害したために、離婚裁判は行われないことになる。このまま自分が捕まれば、久保木の一人勝ちではないか。絶対にあの男は殺してやる。絶対に殺してやるからな。

 食堂の出入り口から、お盆を持った荒浜が入ってきた。今日は薄い紫色の浴衣を着ており、時折覗く色白の腕が美しく思えた。

「砂川くん、なんだか怖い顔してる」

「え? そう?」

 しまった、と思う。感情が表情に出やすいのは、昔からの癖だった。警察から逃げることを考えても、注意しなければいけないと思う。

 彼女はお盆をテーブルの上に置き、砂川の前に食器を置きながら聞いた。「なにを考えていたの?」

 適当に言い訳を考えたあと、言った。

「小説の内容だよ。どうにも内容が詰まっててね」

「たしか、濡れ衣を着せられた主人公が、政府の追っ手から逃げる話……だったよね?」

「うん」

 そうだった……気がする。

「もし良かったら、わたしにその小説を読ませて。途中でもいいから」

「え? いいよ。下手だし」

「砂川くんって、小説家に向いていると思うわ。高校時代も沢山本を読んでいたし」

「そうかな」

 荒浜に言われると、鼻が高くなった気分だった。

 小説家……。旅館を経営している彼女を、印税で支えられたら、どれほど理想的だろうかと思う。

 お盆から食器を置き終わると、彼女が「召し上がれ」と言ってくれた。

「いたただきます」

 今日の朝食は、焼き魚、玉子、湯豆腐、梅なめたけ、絹ごし豆腐の入った、なめこの味噌汁だった。

 ご飯から湧き出てくる、ほくほくという湯気を見ているだけで、唾液が溢れてくる。

「すごく美味しそうだよ」

「ありがとう。頑張って作ったのよ」

 この女性が、自分の妻ならば、どれほど良かっただろうか?



 朝食を食べ終えると自室に戻り、リュックの中に荷物を詰め込んだ。一度着た浴衣なども、綺麗に畳んで置いておくことにした。

 この部屋から見える海景色。海面の低いところを、鷲や海鳥が狂喜乱舞している。水面は太陽の光を反射して、キラキラと光っていた。

 玄関のカウンターに向かって歩いて行く。そこに荒浜が立っていた。料金は先払いしているので、後腐れなく帰ることが出来る。

「いってらっしゃい。仕事の疲れは取れたかな?」

「うん」砂川は頷いた。

「これから仕事なの?」

「そうだね。これから大仕事が一つ、待ってるんだ」

「そうなんだ。大変なのね。頑張ってね」

「分かった。荒浜さんも、旅館の経営を頑張って。……それと」

「どうかした?」

「新築のローンを代わりに払ってあげるって話、覚えてる?」

「え? ええ。覚えているけど……」

「その話、忘れないでね。それじゃ」

 自動ドアが開き、旅館の玄関から外に出る。荒浜は不思議そうな顔をしていた。まさか、これから自分が大金を手にするとは思ってもいない様子だ。

 逃走資金に充てたいところではあるが、普段から衣食住に関心がないために、貯金だけはたんまりと残っていた。麻友はいつも、旅行に行きたい、衣服を買え、エステに行きたいとうるさかったが。

 車上荒らしにあった形跡もないようだ。駐車場に止めた車に乗り込むと、自宅に向かって出発した。約三十分後、なんということもない街並みを駆け抜けて、自宅に到着した。

 隣家の角を曲がる時、家の前に警察が張っているのではないか、という妄想が頭をもたげたが、いつも通りの日常が広がっているに過ぎなかった。

 腕時計で時間を確認すると、午前八時半だった。まだ、宅配便がやって来るまで時間がある。

 こぢんまりとした駐車場に車を止めて、外に出る。麻友は車を持っていなかったので、駐車スペースは広すぎるくらいだった。

 本当は、今持っている小型車の他に、子供も乗れる大きな車を買うはずだったのだ。

 しかし、自分たちに子供が出来ず、計画は頓挫してしまった。

 その頃からだろうか、彼女が自分に冷たくなってしまったのは。

 扉を解錠して、玄関に入る。死体の腐臭がここまで届いているのでは、と思ったが、なにも臭いはしなかった。これならば、事件が発覚する前に、色々とやらなければいけないことをこなせるだろう。

 荷物を片付けていると、家のチャイムが鳴った。扉を開けると、いつも家に来てくれる女性の宅配員が、大きな荷物を持って立っていた。彼女はいつも礼儀正しく、笑顔を絶やさないので、砂川は好感を抱いていた。

 商品を受け取ると、彼女は去って行った。

 さあ、計画を始めよう。それも、かなり大掛かりな。

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