第12話 ストレス

 夕食の時間になると、荒浜が呼びに来てくれた。

 砂川はすでに起きていた。水面台で顔を洗い、髭を綺麗に剃っておく。昼食の時は寝起きだったので、きっと、ひどい顔をしていたことだろう。

 彼女がやって来るまで、古本屋で購入した本に目を通した。二度読むことによって、内容の理解が深まるのだ。

 小説を書いているという体裁であったが、ノートパソコンや原稿用紙の類は持ち合わせていない。ちゃんと誤魔化せるだろうか。

 コンコン、と扉がノックされる音。

「砂川くん? 夕食が出来たわよ」

「分かった」

 本をテーブルの上に置くと、扉を開けた。そこには学生時代に憧れていた彼女の姿がある。

 荒浜に続き、食堂に入った。昼食と同じ席に、豪勢な料理が並べられている。

 蒸し豆腐のあんかけ、天ぷら、活アワビの焼き物、活ずわい蟹の酢物、お刺身、ご飯、お吸い物、漬け物というメニューだった。

「美味しそうだね」

「ありがとう」

 席に座ると、手を合わせてから食べ始めた。箸で摘まみ、口の中に放る。文句なしの味だった。

「こんなに美味しい料理が出てくるのに、ほとんど人がいないなんて、勿体ないな」

「そうね。でも、人がいないのは事実だから……」

 そう言う彼女の顔は、ひどく暗く見えた。

 荒浜のために、なにか出来ればいいのに、と思う。せめて、月々に払うローンだけでも、賄ってやれればいいのだが。

 食べながら考えていくうちに、ある計画を思いついた。よくよく考えれば、上手く行きそうではある。

 逃げる前に、最愛の彼女のために、一つ、大きなことをしてやろうではないか。

 食事を食べ終えると、箸を置いた。

「美味しかったよ。ごちそうさま」

「お粗末様でした」

 席を立つと、すぐに部屋に戻った。廊下を歩いている時、温泉傍の卓球台で、家族連れが遊んでいるのが分かった。自分に子供が出来ていれば、麻友が不倫することもなく、あのような思い出を作れたのだろうか?

 砂川は首を振った。どちらにせよ、自分には叶いようもないことだ。くよくよ考えていても仕方がない。

 自室に戻るとタオルと下着、旅館で用意されている浴衣を手に、温泉に向かった。

 青色ののれんをくぐるが、中には誰もいなかった。本当に、この旅館には人が来ていないのだな、と思う。福島原発事故が原因なのかもしれない。

 服と下着を脱ぐと、ロッカーに設置されている籠の中に入れた。タオル一枚を手に、風呂場へと入っていく。

 浴槽からは絶え間なく湯気が上がり、天井へと向かっていく。卓球をしていた家族連れしか入浴していないので、それほどお湯が汚れているようにも見えない。軽度の強迫神経症を患う砂川は、浴槽があまりにも汚い場合は、入浴せずに、シャワーを浴びるだけで上がってしまうことも多かった。

 木製の風呂椅子に座ると、シャンプーで髪を洗ったあと、シャワーで水を流した。タオルにボディソープをつけて、左腕、首、右腕、胴体……いつもの順番で体を洗っていく。洗い終えるとタオルを絞り、だだっ広い浴槽に浸かった。

 熱いお湯の中に、体の芯が溶けていくような感覚があった。不意に、目尻から涙が溢れてきた。なぜ、こんなにも動揺しているのだろうか? きっと、妻を殺害したというストレスのためだろう。思いを寄せながらも、絶対に手が届くことのない荒浜のこともあるのかもれない。

 浴槽から上がると、裸のまま水面台に立って、ドライヤーで髪を乾かした。自分とあの家族連れしか人がいないので、他に誰かが来る心配はない。

 髪を乾かすと持参したタオルで体の水気を拭き取り、浴衣を着用した。

 風呂場から出て来ると、卓球台に家族連れはいなくなっていた。自動販売機があり、温泉宿によくある瓶入りの牛乳や、コーヒー牛乳が売られていた。

 手に持っていた財布から銭を取り出して、投入口に入れる。コーヒー牛乳が取り出し口に落下した。

 中から取り出すと、封を開けて、口につける。喉が渇いていたので、いつもよりも甘くて美味しく感じられた。

 また、荒浜と話せたらいいなと思ったものの、皿の後片付けなどで忙しいだろうし、邪魔をするのは止めておくことにした。大人しく、自室へと退散することにする。

 部屋の中に入ると、携帯電話のけたたましい着信音が鳴っていた。着信元を確認すると、予想通り、会社の連中だった。迷惑をかけているのは分かっているが、死ぬ寸前、逃げる寸前まで、奴らに気を遣わなければならないのは御免だった。

 いつまでも着信音が鳴り止まず、うるさいので、座布団の下に入れた。それから二分ほど経ってから、電話は止まった。あまりにもしつこいので、家まで押しかけて来ないといいが。

 座布団の下から携帯を取り出して、テーブルの上に置いた。それから座布団に腰かけて、失踪に関する本を読み始めた。全て読み終えてしまうと、午後九時頃になっていた。

 不意に扉がノックされて、荒浜の声がした。

「布団を敷きに来たわよ」

「分かった。すぐに開けるよ」

 荒浜はものの三分ほど、手早い動作で布団を敷き終えてしまった。

「やっぱり手慣れているんだね」

 彼女は頷いた。「そうね」

 砂川は聞いておきたいことがあった。新築にかかった月々のローンについてだ。

「月々のローンって、いくらくらいなの?」

「ええっ?」驚いた様子で、荒浜。「そんなこと言えないわよ」

「でも、経済的に逼迫しているのは事実なわけだろ?」

「それはそうだけど……」

 砂川はニヤリと笑った。

「もしも、僕がそのローンを払ってあげるって言ったら、どうする?」

「えっ。そんなこと出来るの? そんなに裕福そうには見えないわ」

「そうだね。でも、近々、大金が懐に舞い込む予定なんだ。もしもそうなったら、君にお金を渡しに行くよ」

 荒浜は冗談だと思ったらしく、クスリと笑った。

「そうね。その時はお願いするわ」

「絶対だよ。頼むから警察に届け出るのだけは止めてくれ」

「砂川くんって、そんな冗談を言う人だったのね」

「冗談かどうかは、後々分かるよ」

「分かったわ」

 彼女は部屋を出て行った。

 本当に冗談だと思っているのだろう。しかし、荒浜のためならば、どんな苦労も厭わないつもりだった。

 掛け時計に視線をやる。午後九時半。寝るにはあまりにも早すぎるが、計画のことを考えると、夜更かしをするのは得策とは思えなかった。

 荒浜が敷いてくれた布団の中に入る。心なしか、良い匂いがするような気がした。

 妻の殺害から激しいストレスに晒されていたため、すぐに瞼が重くなり、眠りの世界へと誘われていった。

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