第17話 アルバム

 雨が降っていた。

 深い灰色を湛えた曇天は、気分を暗くさせた。

 薄暗い部屋の中で、殺人の証拠隠滅をしている。そんな自分が信じられなかった。

 ベッドの血塗られたシーツを剥ぐと、ゴミ袋の中に押し込んだ。部屋の中はひどい異臭がしている。数匹の蠅が網戸に張りついたまま離れない。

 床に転がっている麻友の歯を拾う。血眼になって探し、四本の歯を見つけた。麻友の部屋で見つけた小さなポーチの中に入れる。あとで川に捨ててこようと思う。雨により水嵩が増しているので、すぐにどこかに流れていくことだろう。

 ベッドのマットレス本体が血を吸っており、これも廃棄するしかないだろう。しかし、どこに捨てるかが問題だった。血濡れている時点で、誰に見られてもまずい。すでに乾燥しており、赤茶けた色に変色していた。

 解体の仕方は調べていた。家の駐車場でやりたいと思ったが、隣家の住人に見られるとまずいので、止めておくことにする。

 マットレスを床に敷くと、解体作業を始めた。

 自室の鉛筆入れから、大きめのカッターナイフを持ってきた。マットレスの側面に、ぐるり、と切れ目を入れていく。そして、スプリングを足で押さえて、カバーを引き抜いた。ビリビリという音がして、時間はかかったが、引き剥がすことが出来た。

 スプリングには毛玉やマットレスの欠片が張りついており、手で剥がして、ゴミ袋の中に入れていく。スプリングの片付け作業を終えると、押し入れに立てかけた。

 カバーは血の付着している部分だけを切り取って、別のゴミ袋に分けておいた。夜のうちに河原に行って、シーツと一緒に燃やそうと思う。

 血のついていないマットレスの袋詰めを終えると、スプリングと一緒に、不用品回収業者に金を払って引き取ってもらった。

 夜。

 血のついたシーツと切り取ったマットレスをトランクに載せて、いつもの河原に向かう。誰かに見られているのではないかと辺りを見渡すが、誰かに通報された様子はなかった。鉄橋の柱に隠れて作業を行えば、道路に車が通りかかっても見えることはない。

 投げ捨てた一斗缶は、川に面したぼうぼうの雑草に落ちていた。拾い上げて、柱の背後に置く。新聞紙に火をつけて、中に投げ込んだ。

 まずは、血のついたシーツから燃やしていく。決定的な証拠を、自らの手で処分していくという一種の快楽があった。

 血が付着した部分自体はそこまで多くはなかったので、三十分ほどで終わった。

 次は、マットレスだった。

 火の燃え方が悪いので、ガソリンを少量投入すると、火の勢いがかなり強くなった。

 この調子で作業を進め、一時間ほど経つと、全ての過程を終えた。

 ポーチの中から歯を取りだして、濁流の中に放った。すぐに見えなくなり、どこかに行ってしまう。

 一斗缶を河原に投げ捨てると、車に乗り込み、家に帰った。



 雨が降り続いている。

 美容整形の手術に向かうために、車を走らせていた。顔を覚えられないために、県外の病院を予約していた。

 雨滴が窓ガラスを打ちつける音が、絶え間なく聞こえてくる。

 ラジオでは、男性パーソナリティが女性パーソナティを小うるさい声でなじっていた。不快になり、番組を変えた。次は、洋楽が延々と流されるチャンネルだった。

 麻友の死体をあの建物に遺棄してから、自分の中で、なにかが決定的に変わりつつあった。なにが変わったのかは分からないが、目の前に広がっている世界が、微妙に変化しているように思えた。

 道行く人々の視線が怖くなり、目線を外すようになった。監視カメラが怖くなり、マスクをして出歩くようになった。慢性的な頭痛がして、すぐに眠くなるようになった。

 鬱の初期症状ではないか。まずい、と思った。このままでは、逃亡に支障が出る。鬱病の逃亡犯など、聞いたこともない。

 湿っぽい、ナルシスト的なバラードが聞こえてきていた。チャンネルを変えるが、良さそうな番組が見つからない。次の赤信号で一時停止して、CDケースの中からアップテンポの曲を見つけ出して、ディスクに入れた。

 二時間以上走り続けて、ようやくナビは目的地に到着したことを伝えた。

 突然に、鉛のような緊張感が心の中にもたれかかってきた。激しい便意を覚えて、砂川は近所のコンビニへと走った。店員にトイレを貸してくれるよう頼み、トイレの中に入った。あまり掃除されておらず、便器には汚れが所々こびりついていた。すぐにズボンとパンツを下ろした。

 用を終えると、石鹸で綺麗に手を洗い、缶コーヒーを一つと唐揚げ棒を一本購入した。運転座席に戻り、それらを咀嚼した。唐揚げを缶コーヒーで、腹の中に流し込んだ。

 予定の時間が近づきつつあった。砂川は病院へと急いだ。

 駐車場で車を止めて、外に出た。マスクをすることを忘れなかった。知り合いに見られた場合、面倒なことになるからだった。

 財布の中には、自分が用意した嘘の名前、電話番号、住所が書かれた紙が入っていた。名前は永瀬剛。電話番号は029……。茨城県の住所となっている。

 病院に入る前に、傘を畳んだ。玄関に傘立てがあり、そこに入れた。

 受付時に、用意していた偽名と嘘の電話番号、住所を記入した。本で読んでいた通り、怪しまれている様子はなかった。なぜなら、美容整形は健康保険が適用されないためだ。実際に、偽名で美容整形を受ける人も少なくはない。

 カウンセリングを受けた医者は、禿げの痩せた男だった。無意識では小綺麗な女性を想定していたので、少し面食らった。面会自体は、三十分ほどで終わった。すぐに整形を始めるのではなく、後日改めて手術となるようだった。手術後も一週間から一ヶ月は入院が必要であるという。調べた通りだった。

 病院を出ると、ほっと一息ついた。警察は、「整形をした」という情報を手に入れない限り、時間と労力をかけて、病院を捜索することはない。かなりのカモフラージュとなることは間違いないだろう。

 また時間をかけて、車を走らせた。酷く退屈で、なんらイベントのないドライブだった。

 家に戻った時には、午後十時頃になっていた。また、世界は暗闇に閉ざされていた。なぜかその闇の中が、ひどく心地良かった。

 しかし、まだ仕事が残っていた。

 家の中に大量にあるアルバムを手に、運転座席へと戻った。アルバムは助手席に置いた。

 また、いつもの鉄橋の下に向かった。人の気配はなく、周辺に民家もない。ホームレスがここに棲みついていないのは幸運だった。

 新聞紙に火をつけて、一斗缶の中に放った。火の勢いが強くなってくると、アルバムの中から写真を取り出して、炎の中に放っていった。みるみるうちに、思い出の記憶は燃えてなくなってしまった。

 全ての写真を燃やし尽くすと消火した。一斗缶は適当に、河原に放っておいた。誰もここを訪れないのだし、文句を言われることもないだろう。

 空っぽのアルバムを手に、車の中に戻る。

 写真がなければ、警察は手配写真を用意することが難しくなる。使われるとすれば、学生時代の卒業写真などだろうか。幼い顔立ちからでは、整形後の顔を予想することは難しいだろう。

 家に戻ると、すぐに風呂場でシャワーを浴びた。一日の疲れや精神的汚染が、物理的に洗い流されていく感覚があった。

 テレビを見ながら酒をちびちびと呑んだ。テレビの中に映っている人々が、自分とはとてつもなくかけ離れていて、幸福な人々に見えた。街頭インタビューを受ける一般人でさえ。

 どうしてこんなにも、自分は不幸なのだろうと思う。

 それでは、妻を殺さなければ良かったのだろうか。今までずっと、専業主婦として養ってきてやりながら、不倫をされ、托卵をされかけ、あそこまで罵倒されて、辛い思いをしながら離婚裁判を乗り越えて、上司に馬鹿にされながら、生きていかなければならないのだろうか。

 砂川は首を振った。

 いや、あれで良かったんだ。人生の選択肢において、あの場面は「殺人」という道しか残されてはいなかったのだ。

 あれで、良かったんだ。良かったんだよ……。

 急に眠気がやって来て、中身の入った缶ビールをテーブルに置いたまま、部屋の照明を消した。ソファに横になった時、今日、整形外科に行って、途方もない手術料金を支払ってきたことを思い出した。

 自分は、とてつもなく恐ろしいことをやろうとしているのではないのか。頭を抱えたくなるような恐怖が、突然に襲ってきた。

 ソファから起き上がり、缶ビールを煽ると、もう一度横になり、体の全てを酒と睡魔に任せた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る