第15話 大扁死出虫
翌日、目覚めるとけたたましいサイレンの音がした。救急車や消防車とは違う、パトカー特有の、迫り来るような音色。
窓の前を、赤い回転灯が通り過ぎて行った。
自分の家に来るわけがないと分かりきっていたので、砂川はソファの上で身動ぎ一つしなかった。治安が悪い地域であるので、警察の仕事も多いのだろう。
福島原発事故のあとから、街の中に原発作業員が増え始めた。奴らは社会の最底辺の人間たちで、大阪のような治安が悪い地域などから、全国から福島県に集まってきていた。
今日の朝食は、昨日、スーパーで買ったカップラーメンの残りだった。砂川はどろどろしたスープよりも、あっさり風味のほうが好きだった。一つ、百円程度の安いカップラーメンであるが、これでも充分、食欲を満たすことは出来る。
犬の散歩をしたあと、風呂場でシャワーを浴びた。
熱いお湯を頭から浴びながら、思考は止め処なく溢れ出た。
麻友を殺した以上、いずれは不審に思った者が現れてくるだろう。彼女の家族や友人などが、連絡を取れないことを不思議に思い、警察に通報する可能性が高い。突然に、警察がやって来た場合、逃げることは困難である。ならば、早めに手を打っておいたほうがいいのだ。
美容外科において、自らを別人に見せるためには、顔の輪郭を変えるのが一番だと言われている。目や鼻を少しいじったところで、知り合いにはすぐに見破られてしまうからだ。
すでに、県外の美容外科で、翌日の予約を取っていた。無論、偽名である。美容整形は健康保険が適用されないので、どんな偽名を使って受診しても発覚することはない。
電話に応対した女性職員の話では、顔の輪郭を変える手術に必要な費用は、百万円から百五十万円といったところだそうだ。他にも、二重瞼にして、鼻の形を変える手術も受ける予定なので、二十万円ほど追加の予算が必要である。
美容外科に向かい、すぐに手術、というわけにはいかない。カウンセリングを受けたあと、後日、改めて手術を行う手立てとなっている。手術後も一週間から一ヶ月の入院が必要なため、かなりの長期間を見積もる必要があった。
そうなった場合、麻友の死体が気にかかってくる。
今はブルーシートに包んだまま、押し入れに入れて放置しているが、一ヶ月もの期間が経つと、さすがに腐臭が溢れ出してくるのは間違いない。
寝室に入って様子を見てみると、網戸に五、六匹の蠅が張りついているのが見えた。無論、死体の臭いに誘われてきたのだろう。
他にも、コロ助の散歩の帰り、家の庭に、不思議な黒い虫が蠢いているのが分かった。ダンゴムシを縦に長くしたような、気持ちの悪い虫だった。
家にあった虫の図鑑で調べてみると、オオヒラタシデムシという虫だと分かった。漢字では「大扁死出虫」と書く。別名は「埋葬虫」と言う。この虫の食性は、生き物の死体を食べることだ。人間の腐乱死体が埋まっている時などに、大量発生するようだ。普段は小動物の死体や糞を食べている、森の掃除屋といったところだろうか。
見つけた時、まずいな、と思った。警察の鑑識など、この虫を知っている可能性も高いだろう。隣家の老婆も迷信深いところがあり、この虫を知っているかもしれなかった。馬鹿に歳だけを食って生きてきたわけでもないだろう。
どこかに、死体を移動させなければ。そう考えた時、思いついたのは山に埋めに行く、というものだった。結局のところ、それしか方法はない。
昼間はなにもすることがなく、死体の処理を頭の片隅に置きながら、インターネットサーフィンをして過ごした。会社からは度々連絡が入るが、電話に出るつもりはなかった。
夜。午前零時を過ぎた頃に、砂川は動き出した。車のトランクに、倉庫に入っていシャベルを入れて、一旦、トランクを閉じた。
問題は、死体をここまで運んでくることだった。
近隣住民が起きていない時間帯を選んだとはいえ、もしも、という場合もある。
二階のベランダから、五分ほど様子を窺って、大丈夫だと自分を安心させてから、実行することにした。
寝室の押し入れに手をかける。心臓の鼓動はいつになく激しく、腹の中を蛇が這いずり回っているように、気持ち悪くなった。
決心を決めて、押し入れの扉を開ける。ブルーシートに包まっているので、死体そのものが見えることはなかった。
死体を抱えると、ずっしりと重かった。普通の人間ならば、抱えられる時に、持ちやすいように体勢を変える。しかし、死体はもう人間ではなく、単なる「モノ」であるので、体勢を保とうという働きを持たない。
階段を下る時が難儀だった。何度も死体を階段に下ろそうと思いながらも、なんとか一階まで下った。
死体を床に下ろして、額に張りついた汗を拭った。
玄関の扉をゆっくりと開け放つと、トランクを開けたままにして、家の中に戻る。
周囲に人がいないことを確認したあと、死体をトランクの中に入れた。
死体を載せた軽自動車は、もたつくように道路を走っていた。トランクの死体が重く、馬力が足りていないように思えた。
前後に車が来ていないことを確認すると、一時停止した。キーを入れたまま外に出て、トランクを開ける。街灯のある薄らとした闇の中に、ぼんやりとブルーシートの青が見えた。
後部座席の扉を開け放ち、死体をそこに運んだ。運転のストレスと死体を運ぶ緊張感、あまりの重さに、汗がどっと溢れてきた。脇に鼻を当てて臭いを嗅ぐ。やんわりと湿っていた。
埋める場所は特に決めていないものの、家から離れていて、人が寄りつかない山の中にしようと決めていた。田舎であるので、そのような場所はいくらでもあった。東日本大震災の津波の影響で、沿岸部の家はほぼ壊滅状態にあった。よって、人の出入りが少ない場所が多くなっている。
ほぼ直線の道路で、運転座席から見て右側には、田園が広がっていた。その傍には偏差値があまり高くない高校がある。コンビニに行くと、その高校の生徒が多く、時折、煙草をふかしているのを見ることがあった。
田園を切り開くように、高速道路が走っていた。巨大なトラックが何台も連なって走り抜けていく。クロスボウの試し撃ちをしたのも、この鉄橋の下だった。結婚当初に花火をしたのもここだった。
高速道路を駆け抜けていく車の走行音と、手持ち花火のパチパチと弾ける音。紫陽花の模様がある浴衣を着た麻友と、水の入ったバケツ。辺りを飛び回る、小うるさい蚊の音。虫たちの合唱。風で草花が揺れる音。笑い声。
なにもかもが、色鮮やかに思い出されていく。それを、俺は、全て、ぶち壊した。
ふっと、目尻に涙が浮かんだ。
全部、俺が悪いのか? 不倫したあいつが悪いんじゃないのか? 全部、全部、あの女が悪いんじゃないのか?
砂川は首を振った。
そうじゃない。悪いのは全部、久保木だ。俺の家庭を完膚なきまでに破壊して、のうのうと美容院を経営している、あの屑野郎が全て悪いのだ。
クロスボウを手に、あいつの美容院に乗り込んで行けたら、どれだけいいだろうか?
しかし、警察から逃げ切るためには、まだ準備が必要だ。大掛かりな準備が。それらを全て終え、逃走準備を完璧に整えなければ、久保木を殺すことは出来ない。これは、俺の全人生を擲った復讐なのだ。
道路はゆるやかなカーブを描きながら、海岸線へと向かっていく。荒浜の旅館は、仙台漁港付近にありながら、震災によるダメージは少なかったらしい。
もう一度、あの旅館に行けるだろうか? 逃げ切って、また彼女に出会うことが出来るのだろうか?
全てを断ち切る覚悟が必要なのだ。結局のところ、逃亡犯は孤独との戦いに過ぎない。俺は、打ち勝つことが出来るのか。
ほぼ直線だった道は、二手に分かれた。直線に進むことも出来るが、砂利道となっている。道の両側には田園しか広がっていない。
大きなクレーンが設置されていることが分かった。人が入れないように赤い三角コーンが並べられ、放射能で汚れた土を詰めた、黒い袋が大量に積み重なっていた。
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