第36話 青山

「目的地に到着しました」

 ここか。運手座席のフロントガラスから、シェアハウスがあるマンションを見上げた。ファッションやアクセサリー、雑貨ショップやネイルサロンなど、様々なテナントが混合した建物のようだ。その中の一つにシェアハウスがある。

 辺りを窺うが、警察の姿はない。問題はないようだ。

 近場の有料駐車場に車を止めると外に出た。小谷は帽子と眼鏡とマスクを身に着けていた。

 砂川は久保木を殺害したのち、県外のホテルへ向かった時のことを思い出していた。朝食を買いにコンビニに出かけた際に、ヤンキーカップルに言われた言葉。「見て、あいつ。変装してるみたい」

「小谷、とりあえず、帽子は取れ。眼鏡とマスクはそのままでいい」

「あ? なんでだよ?」

「変装しているみたいなんだよ」

「そういうことか」

 小谷は帽子を取ると、小さく丸めてポケットの中に突っ込んだ。

「これでいいか?」

「ああ。それでいい」

 二人は平然を装って通りを歩き、街の中に入り込んでいった。午後五時過ぎ――サラリーマンの帰宅時間ということもあり、背広を着た者たちが多い。人混みの中には、学校帰りの学生たちも見受けられた。

 信号が青になると、人々が横断歩道を歩き始めた。薄い闇の中で、サイレンと共に回転灯が点滅していることが分かった。殺人犯が逃亡中のため、駆り出されたパトカーだろう。犯人の傍を通り過ぎると、街の喧噪に消えて行った。

 目的のビルに辿り着いた。一階はカフェらしい。学生や主婦、サラリーマンなど、多種多様な客層が揃っていた。中に入るとエレベータに乗って、目的の階で下りた。廊下には煙草の吸い殻や空のペットボトルなどが散乱している。ここに住んでいる輩は、拾おうとは思わないのだろうか、とぼんやりと思った。

 小谷がチャイムを押すと、鉄製の扉が重々しく開いた。丸刈りで刺青だらけの男が立っていた。肌は地黒でやけに人相が悪く、如何にも悪人といった面構え。人相の悪さとは対照的に、履いているスリッパはくたびれているが、熊の模様が描いてあり可愛らしい。右手の指は一本もなかった。小谷の話によれば、ヤクザの拷問によって、全て切り落とされたらしい。

 部屋の奥からごそごそという物音が聞こえた。廊下に顔を出したのは、茶髪で化粧っ気のない若い女だった。そばかすとシミだらけで、とても見られた顔ではない。サイズが大きいぶよぶよのニットを着ており、服の中央にはハローキティの絵柄が縫い付けられている。目は異様に細く、吊り上がっている。一目で分かるような、意地が悪そうな顔。

「敏広、誰か来たの?」女の声。

「地元のダチだよ。ほら、今、ニュースで報道されてる小谷修平って奴」

「ニュース見てないから知らねーっ。まあ、敏広がいいなら、早く部屋に上げてあげれば。つうか、早く扉閉めて。冷たい風が入ってくるから」

「あいよ」石岡は砂川を見た。「あんたは、小谷のダチの……」

「砂川です。よろしく」

 手を差し伸べる。石岡はその手を握った。

「あんたもなんか、後ろ暗いところがある雰囲気だな」

「分かりますか?」

「分かるもなにも、真っ当な人間が警察に追われるかよ」

 小谷が笑った。「違いねえな」

 砂川と石岡はクスクスと笑った。

 部屋の中に入るとすぐに扉を閉めた。リビングからまた廊下に顔を出して、先程の女が睨んできていたからだ。



 広い部屋の中は生活臭と煙草の臭いが入り混じったような、特有の匂いがした。

 ビル自体の劣化が進んでいるのか、壁はぼろぼろで、殴ってあけたような壁穴や、猫の引っ掻き傷が無数にある。

「古い部屋ですまないね」石岡は指のない右手を隠そうともしなかった。「古い傷でね。高校を卒業してすぐの頃かな。ヤクザが当時付き合っていた彼女を無理矢理家に連れ込んで、強姦しやがったんだ。だから、必死で戦った。それがこのざまだ。まだ未成年だから実名報道はされなかったが、地元では、俺が少年院にぶち込まれたことは知れ渡ってた。地元を離れても、頭の悪い学校に通っていたし、こんな腕じゃ、就職することもままならなかったんだ」

 石岡は部屋を横切って、冷蔵庫の扉を開けた。食器棚の中から二つグラスを取り出すと、カウンターの上に置いて、緑茶を注いだ。グラスを寄越されて、そのうち一つを受け取った。グラスの底はひどく汚れていて、液体の中に、食べかすのようなものが浮いていた

「他の連中はどこに行っている? 保坂や志田は?」小谷が聞いた。「奴ら、もしかして捕まったんじゃないだろうな? あの――ロリコンペド野郎。いつかは警察にバレるとは思ったが」

「まだ警察にはバレちゃいない」石岡はそう言って、ヤニでくすんだ黄色い歯を見せた。「最近は大人しくしてるからな。今は仕事に出かけていていない。帰ってきたら紹介する。なに、反対はしないさ。当分の間はな」彼は「当分の間」を少し強調して言ったので、なにか含みのある言い方になった。「砂川さん。あんた、一体、どんな悪いことをしたんだい? 小谷も相当の悪だからな――。二人で人を殺して、逃げてのこのこ、ここにやって来た。違うかい?」

 石岡の顔には、全てを見抜いているといった表情が浮かんでいた。確かに、小谷と一緒に逃げてくれば、そう思われても仕方がないように思える。

 それよりも砂川が驚いたのは、人を殺したということを、いともあっさりと口にすることだった。普通ならば、もっと精神的な葛藤があってもおかしくないだろうに。殺人犯が逃げてきたというのに、驚いている様子や、早く帰れと騒ぐ様子も見られない。

 濃い茶髪の女は、こちらには気も留めずに、テレビのバラエティー番組を眺めている。スピーカーから聞こえる、芸人たちの不愉快な笑い声が鼓膜を震わせた。女はこちらの視線に気付いたらしく、棘のある声で「なんだよ」と言った。

「いえ、なんでもないです」砂川は即座に弁解する。いざこざを起こして、ここから追い出されたら元も子もない。

「ジロジロ見てくんじゃねえよ。視姦するなら別の奴にしな」

「視姦なんてそんな……」

 女は立ち上がるとキッチンに入った。湯沸かし器を荒々しく引っ掴むと蓋を開けて、中に水道水をたっぷりと流し込んだ。そのあと、それをセットして、スイッチを押した。十秒ほど経つと、沸騰する音が聞こえてきた。

「砂川さんって言ったね?」

「え? ええ」

「あんたのこと知ってるよ。砂川耕司。高校時代、同じ学校じゃなかったけど、小谷の友達だったから、顔と名前だけは知ってた」

「そうだったんですか」

「正直あたしには、小谷みたいな本当の悪党には見えないけどね。あんたはどちらかといいうと、ヒステリックで、女っぽくて、カッとなるとすぐに人を殴っちゃうような奴に見えるね」

「そんなことしませんよ。俺は別に女っぽくもない」

「じゃあ、なんでここに逃げてきた? このシェアハウスには、悪いことやって、逃げてきた奴が大勢いるんだ。石岡もその一人だよ。石岡がなにをやったと思う? 強姦だよ。右手の指もない癖に、小谷と組んで女を無理矢理ハメやがったんだ。とんだ悪党だよ、全く」

「なぜ、僕たちのような人間を、ここに匿ってくれるのですか?」

 女は笑った。心の底から侮蔑しているようなけたたましい笑い声だった。

「別にあんたらが可愛いとか、同情してるとかそんなんじゃないよ。わたしは働かずにお金が欲しいのさ。この部屋も元々はシェアハウスじゃなかった。匿ってやる代わりに賃料をいただいているっていう単純な関係だよ。賃料が払えなけりゃ、すぐにこの部屋から追い出す」

「もしも抵抗したら?」

「抵抗する場合は、居住者全員で、そいつを締め出すのみさ」

「なるほど」

「生憎、個人部屋を与えてやるほど、わたしは金持ちじゃないんでね。他の連中が住んでいる部屋に、あんたらも住んでもらうよ。狭い部屋で、二段ベッドがいくつか置いてあるだけなんだけどね。それで構わないだろ? 砂川さん。小谷」

 砂川が言った。「ええ。匿ってもらえるだけでも」

 小谷が言った。「男だらけの部屋は勘弁だが、事態が事態だから、仕方がねえ。我慢してやらあ」

 女の目が狂的に光った。「あたしに逆らわないほうがいいよ。いつだって、あんたのことを警察に通報しようとすりゃ、出来るんだ。捕まりたくないなら、あたしの機嫌を損ねないことだね」

「えっと、少し質問をしてもいいでしょうか?」砂川が聞いた。「あなたと石岡さんはどのような関係なのでしょうか? それに、名前を聞いておかないと、後々、困るので」

「ああ」女は薄ら笑いを浮かべた。「あたしの名前は青田芳子。芳子さんか、姉さんと呼んでくれればいい。みんなはそう呼んでる。石岡とは一応、結婚してるつもり。事実婚だけどね」

 石岡が言った。「俺は姉さんには頭が上がらねえんだ。姉さんが少し手を捻れば、俺は刑務所にぶち込まれちまうから」

 青田はせせら笑った。「その通りだよ。あんたらも注意することだね」

「ついて来てくれ。部屋まで案内する」石岡が手招きしているので、彼の先導に従った。廊下にはいくつかの部屋があり、その全てが、後ろめたい過去がある者たちの、居住スペースとなっているようだった。

 部屋の中は青木が言ったように、男の部屋特有の青臭さが充満していた。思わず、顔を顰める。石岡が部屋の照明を点けると、内装が明るく照らし出された。

 壁に面して設置してある二段ベット。部屋のほぼ全てを埋め尽くしている。ベッドの中には、人それぞれの生活があるようだ。砂川が中を覗き込むと、壁にはポルノスターのポスターや、グラビアアイドルの切り抜きが貼られていた。アイドルのビキニには、ボールペンで乳首を書き足してあった。ベッドの下にはポルノ雑誌が無造作に突っ込んである。シーツはこびりついた精子で黄ばんでいて、ひどい臭いを放っている。

「砂川さんのベッドはこれだ。一応、シーツとかは洗濯して取り替えてある」

 指示された二段ベッドを見やる。上段が小谷で、下段が砂川のスペースのようだ。柵には精子を引っかけた跡が残っていて汚いが、眠れる場所があるだけマシだった。車中泊を続けて、やがて警察に捕まっては元も子もない。

「マスかいた跡が残ってるじゃねえか。汚えなあ」小谷が不満を漏らした。

「嫌なら出て行ってもらっていいんだぞ? なあ、人殺し」

「お前も強姦して、人を殺しているじゃねえか。お前に人殺し呼ばわりされたくねえよ」

「一応、洗濯はしてるんだ。文句があるなら、姉さんに言いな」

 小谷は無言になった。

「七時から夕飯だ。それまでは部屋の中で大人しくしてるんだな」

 石岡は部屋から出て行った。

 部屋の中に二人だけ残された。

 小谷は大きく溜息を吐いた。

「姉さんの面倒にはなりたくなかったけどな。まあ、仕方がねえな。それにしても、ひどい臭いの部屋だ」

「窓を開けよう」

 二段ベッドだらけの狭い通路を抜けて、砂川は窓の前に立った。煤けた緑のカーテンに手をやると、べっとりと埃が張りついた。それを小谷に見せてやる。

「マジかよ。これじゃ、豚箱と一緒だな。姉さんの命令は絶対だから、逆らうわけにはいかねえ。さあ、どんな無理難題を吹っかけられることやら……」

 服で埃を拭ってからカーテンを開けて、冷風で軋む窓を開いた。

「しばらくの間は換気していよう」

 部屋の外から声が聞こえてきたので、扉に耳を宛がった。

 ゆっくりとした大きな声だった。こちらに聞こえているとは、露ほども思っていないらしい。

 石岡の低い声。「小谷の馬鹿野郎と砂川って奴、のこのことやって来やがったけどよ、姉さん、いつまであいつらをここに置いておくつもりだい? 俺はやだね。あいつは軽率だから、警察に捕まったら、一緒にやった強姦のこと、ポリ公にベラベラと喋りそうだからさ――」

 青田の声。「分かってるよ。その時が来れば、すぐにあいつらを追い出してやるさ。なあに、すぐにやって来る。ニュースをよぉく見ておくんだね」


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