第35話 石岡
夜が明けて、朝になった。一睡もせずに走り続けていたため、途方もない眠気が正常な思考力を奪っていく。ガソリンメーターもかなりの量が減っていた。
近くのガソリンスタンドに立ち寄って、給油を始めた。バックパックの中には、会社員時代に溜めた貯金と、久保木の口座から引き下ろした金が入っている。これなら当分は暮らせるはずだった。
堂々と外に出て、給油を始める。一つ向かいのガソリン計量器には、会社に向かう途中と思われる、背広を着た四十過ぎの男がいた。こちらには無関心のようだ。
給油を終えると、喉の渇きを覚えた。車の扉を開けて、後部座席に寝転んでいる小谷に声をかける。
「喉、乾かないか?」
小谷は大きな欠伸をしてから、しゃがれた声で応えた。まだ寝ぼけているらしい。
「……乾いた」
「なにか買ってくるが、なにがいい?」
「缶コーヒー。あと、なんか炭酸飲料を一本」
「分かった」
ガソリンスタンドの店内に入ると、赤い制服を着たスタッフがぺこりと頭を下げた。こちらも会釈で返す。怪しまれている様子はない。
自販機で缶コーヒーや炭酸飲料を購入する。
壁際に設置されているテレビでは、ニュース番組が放映されていた。自然と、そちらに視線が向いてしまう。店内にも監視カメラがあるが、警察がこの店を特定出来るとは思わなかった。
番組では、小谷修平の犯人像について解説していた。司会者は知ったような口で、小谷について語り、光の具合や角度によって、悪い人相に見える顔写真を拡大して、ボードに貼り付けていた。
その男が、さっきまで給油していた車にいるのだから、世の中は分からないことだらけだ。会釈してきたスタッフも、そのことを一生知ることはないだろう。
警官は三人殺害されたと報道されており、砂川の体に緊張が走った。昨日の事件は、予想以上に大きく取り上げられているようだ。
犯罪ジャーナリストと銘打たれた、胡散臭そうなサングラスの男が言った。警官に打ち込まれた銃弾のうち、クロスボウの矢と思われるものも見つかっておりますので、小谷修平には共犯がいるものと思われます。
司会者が相槌を打つ。男は続ける。
わたしの調べでは、とても面白いことが分かりました。それはですね、今、失踪中の男――砂川耕司と小谷修平は、元同級生であり、友人なんですよ。
自分の名前が出された時、心臓が跳ね上がりそうになった。やはり、捕まるのも時間の問題なのだろうか。
司会者は尋ねる。犯人は一体、どこに消えてしまったのでしょうか? 自殺の可能性も考えられますよね?
男は首を振った。小谷の性格を考えれば、自殺はありえないと思います。
砂川は鼻で笑った。お前が小谷のなにを知っているというのか。
昔から、ジャーナリストやコメンテーターが嫌いだった。なにも詳しいことを知らないくせに、ニュースで報道された断片の情報をもとに、自分が博識であるように語るからだ。
スタッフが尋ねてきた。
「お客様、なにか御用でしょうか?」
「ああ、いえ、なんでも」
長くテレビを見過ぎたようだ。すぐに車の中に戻った。後部座席にいる男に、缶コーヒーなどを手渡す。
「買ってきたぞ。寝転んでいなくても大丈夫じゃないかな? 一応、眼鏡とマスクで変装はしているからな」
「……それもそうだな」
小谷は体を起こすと、缶コーヒーのステイオンタブを起こして、美味そうに飲んだ。そういえば、部屋の中には、空き缶の類が多かったように思える。
砂川も缶コーヒーを飲みながら、小谷に尋ねた。
「さあ、これからどこに行く? 金ならあるんだ。都会なら人が多いから、そうそう見つかることはないだろう」
「そうさな」少し考えて、小谷。「俺のダチに電話を入れよう」
「ダチ?」
頭の中に浮かんだのは、高校時代の同級生だった。
「あいつらはまずいだろう。協力してくれるとは思えない」
小谷は顔の前で、チッチッと指を振った。
「違えな。お前も知らないダチさ。砂川が大学に通うために上京している間、一緒に悪さやってた奴だ。名前は石岡敏弘っつーんだ」
「石岡か。名前だけは聞いたことがあるな。確か、学生時代にヤクザと本気でやり合ったとかなんとか」
「そうそう。そいつだ。それで、少年院に一度だけぶち込まれてる」
「大丈夫なのか、そいつ」
「学歴は低いが、頭が悪い奴じゃねえ。安心しろ。俺たちに協力してくれるはずだ。砂川、おめえ、携帯持ってきてるか?」
「携帯は持ってるが、出来るだけ使いたくない」
「なぜ?」
「電話番号を石岡って奴に知られたくないんだよ。警察にチクられるかもしれないからさ」
問題は、自分が整形しているということを、警察が掴むことだった。犯罪がらみの場合、美容整形をした病院は、カルテを公開するだろう。自らの指名手配写真と一緒に、整形した写真も街中に張り出されることになる。
「とりあえず、俺は眠い。一睡もせずに運転を続けていたんだ。とりあえず、どこかで休ませてくれ。どこかの駐車場でいいよな?」
小谷は首を振った。
「いや、もう少し車を走らせて、山の中に車を止めようぜ。そのほうが安全だし、パトカーがやって来る可能性もないだろ? 俺は車中泊をする時、いつもそうしてるぜ」
「……マジかよ」
砂川は正直うんざりしていた。
「頼むぜ、相棒。俺も運転したいのはやまやまだが、Nシステムがある限り、無理なんだ。それによ、一般道路にも設置されている場所はあるわけだろ? 確か、そうだったよな?」
「ああ、そうだ。一般道路にも高速道路にも、目を凝らして観察してみれば、見つけることが出来るはずだ」
人通りのない山の中腹に車を止めると、砂川は後部座席の椅子を倒して、微睡んだ。夢の中ではとても苦しい思いをしていたように思うが、目覚めた時には内容を完全に失念していた。
運転座席の椅子を倒して、小谷はぼんやりと考え事をしていた様子だった。山の中なので電波が届きづらく、ラジオの音声はひどく掠れている。
ここにやって来る前に、公衆電話で、石岡敏広という人物と接触を取っていた。彼の話しぶりから見るに、かなり親しいらしい。受話器を下ろすと、こちらに向けてOKサインを送ってきた。
「大丈夫みてえだ。やっぱりダチは宝だな」
「協力してくれるってことか?」
「そうだ。俺たちの寝るスペースも用意してくれるらしい」
「一体、石岡――彼は、どんなところに住んでいるんだ? もしや、お前が住んでいたようなボロっちい共同住宅か? 外人ばっかり住んでいるような――」
「ボロっちいとは失礼だな。あれでも、月々、きちんと賃料を支払っているんだぜ?」小谷は怒ったように頬を膨らませた。「石岡が住んでいるのはシェアハウスだ」
「シェアハウス?」砂川は呆然とした。やはり、こいつは馬鹿なのか。「シェアハウスなんかに住んだら、お前の身元が他の連中にバレちまうだろうが。そんなことも分からなくなったのか?」
小谷は馬鹿にしたように鼻で笑った。
「なにも分かっていないのはお前だぜ、砂川」
「なに? どういうことだ。ちゃんと説明しろ」
「石岡が住んでいるシェアハウスは、マンションの一室を貸し出しているものなんだ。もちろん、全員石岡の知り合いで、俺も数ヶ月前に、そこに泊まったことがある。居住者とも面識があるんだ」
「面識があるなら、別に構わない。警察にチクられる可能性はないのか?」
「居住者は全員、警察に対して、後ろ暗いところがある奴らばかりだ」砂川のことを指差す。「お前と同じように、人を殺して棄てた奴もいる」
その発言は聞き捨てならなかった。
「俺の場合は仕方がなかったんだ。麻友の奴が浮気しなけりゃ、今頃、普通に働いて、いつものように過ごしていたんだ」
「おいおい、社畜に逆戻りしたいのか? 俺は御免だね」
砂川は信じられない思いだった。
「警察に追われるほうがいい? そう言いたいのか?」
「俺は退屈してたんだよ。日常に」
「退屈だと?」
「そう。毎日、同じことの繰り返しだ。周りの連中は前科持ちの穀潰しばかりで、金、ギャンブル、女にしか興味がない。そんな職場にいたら、心の根っ子まで腐っちまう」
「……」砂川はなにも言えなかった。
「退屈な日常からのブレイクスルーだ。お前も、正直に言って、退屈してたんじゃないのか?」
「俺をお前と一緒にするな。俺は猟奇的に殺していたわけじゃないんだぜ」
「なら、なぜ、パトカーで突っ込んできた警官を撃った? あいつは殺す必要はなかったんじゃないのかい?」小谷はニヤリと笑った。「同じだよ。俺も、お前も、同じ穴の狢。人殺し。逃亡犯。悪い奴。犯罪者。なにも変わりはしねえんだ」
ぐう、と腹の虫が鳴った。小谷は腹を摩った。
「腹が減ったな。ポリ公が押しかけてこなけりゃ、いつものように、ラーメン屋に行っていたんだがな。ああ、ラーメン食いてえなぁ……」
砂川は皮肉に、眉を持ち上げた。
「無理だよ。お前は整形しない限り、働くことはおろか、外出することさえ出来ない」
「そうなんだよな。まぁ、シェアハウスの連中の伝手で、整形する方法もなくはないけどな」
「それよりも、そのシェアハウスの住所を教えてくれ。早く行こう。夜になっちまう」
「あいよ」
彼は暗記していた住所を読み上げた。砂川はそれをカーナビに打ち込むと、すぐに発進した。
山を下っている時、ボロボロの服を着た、農家らしき男と擦れ違った。男はジロリ、と鋭い視線を向けてきた。
「やっぱり、山の中で寝泊まりするのは最善策ではないな」と砂川は言った。「近隣住民に怪しまれるし、警察に通報されかねない」
小谷は同意した。「石岡とダチでホントに良かったぜ。あいつがいなけりゃ、俺は今頃、ポリ公に羽交い締めにされて、死刑台に送り込まれてた」
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