第32話 ニュース

 死体を部屋の中に運び込んだのは、午前三時過ぎだった。大家が住んでいる部屋の前で耳を澄ますと、やかましい鼾が聞こえた。二人は大丈夫だと判断して、ランドクルーザーのトランクを開けた。そこには、自らが絞殺した阿部茜の死体があった。首元は不自然にねじ曲がっており、ロープの跡が痣のようになり、くっきりと残っていた。蒼白した肌の上では、まるで火傷のようにも見えた。心臓の鼓動が停止すれば、血液は下方へ降下していき、やがて、顔などは青白くなっていく仕組みになっている。

 死体の皮膚は、まるで大理石のように冷たく、ひんやりとしていた。皮膚の水分が空気中に奪われる際に、一緒に熱も逃げていってしまうので冷たくなるのだと、高校時代に図書室で読んだミステリー小説に書いてあった。荒浜を目的に図書室に通っていたのに、その時の知識が今役に立つとは、当時の自分は思いもしなかっただろう。いや、自分が人を殺すとさえ、考えていなかったはずだ。

 死体冷却速度は、阿部のように身体が小さいほど速い。他にも、子供や老人、痩せている者も同じだ。皮下脂肪が薄いために、熱が奪われていくのが速いためだろう。

 トランクの闇の中から彼女の死体を引き摺り出すことは、己の勝手な都合で殺害した、せめてもの罪滅ぼしのように思えてならなかった。小谷は辺りを見渡して、誰もやって来ていないことを確認してから言った。

「俺たちゃ悪くねえよ。もともとは、この女が砂川を脅して、金を毟り取ろうとしたからだろうが? 原因を作ったのはこいつだよ」

 単なる欺瞞だと分かっていながらも、砂川は同意しておくことにした。そうしているほうが、気持ちが楽だからだ。

「そうだな。悪いのは、こいつだ」

「そうだ。その通りだ」

「こいつが下手なことしなけりゃ、殺されることもなかったんだ」

「ああ。全部、こいつが悪いのさ」

 二人で死体を抱えて、鉄の階段を登っていく。二階まで上がり、廊下の昭明で彼女の顔が照らし出された時、砂川は小さく悲鳴を上げた。

 今までは暗いトランクの中に隠されて見えなかったものが、姿を現した。おぞましさと自らの罪深さに、砂川は恐怖を禁じ得なかった。

 ロープによる頸動脈の圧迫によって、頭部に激しい鬱血が生じていた。まるで、風船のように膨れ上がっている。眼瞼の辺りの膨隆が激しい。唇は浮腫しており、針で突き刺したら弾けそうになっている。魚のような顔になっていた。もはや、阿部茜という女の面影はない。眼球の結膜には、ぽつ、ぽつと点状の赤い染みが出来ていた。これは溢血点と言い、窒息死体に特有の症状だと言われている。青紫の死斑が、体中に浮き出ている。体は石のように硬く、硬直している。

 喉の奥から、激しい吐き気が込み上がってくる。警察の検問が続く以上、この死体と共に、部屋の中で過ごさなければならない。その苦痛と恐怖を考えると、今にも逃げ出したい気分になった。

 階段で転びかけて、死体の尻に手を置いてしまった。べちょり、と異体の知れないものが掌に張りついた。その瞬間、ひどい異臭が鼻を突く。阿部が首を絞められている時に出した、糞便と尿だ。

 臭いは容赦なく、鼻孔を攻撃してくる。攻撃に耐えかねて、砂川は激しく嘔吐した。

 喉の奥から湧き出てきたのは、コンビニで購入した弁当の中身だ。胃液によってどろどろに溶けたメンチカツ、茶色の粘性を持った大量の米粒、気泡の混じったゲロ、消化し切れていないきゅうりの漬け物、味噌汁のワカメ、ゲロに浸かったレタス、トマト……。

「なに吐いてやがる?」

 砂川が吐いたゲロの臭いで、小谷も吐き気を覚えたようだ。

「おいっ、うるせえぞっ!」どこかの部屋から叫び声が聞こえた。「寝られねえじゃねえかっ!」

 明らかに男の声。声の低さから推測するに、五十代後半といったところだろうか。

「早く済ませなけりゃ。とりあえず、部屋の中に運び込むんだ」小谷が落ち着きを払って言った。ポケットの中から鍵を取りだして、砂川に投げて寄越す。それをしっかりとキャッチした。鍵穴に鍵を差し込んで解錠する。

 死体を玄関に運び入れると、しっかりと鍵を閉めた。

 これで、一先ずは安心だった。明日、なんらかの苦情が来ることは間違いないとしても、死体をトランクに放置しておくよりはマシだった。

「さてさて、こいつをどうする? 検問が終わるまで、この部屋に置いておかないとならねえ」

 小谷の意見はもっともだった。

 阿部の死体はトランクに入れていた状態――赤ん坊のように丸まった姿勢のまま、硬直してしまっている。

「ゴミ袋に入れて、封をしよう。死体は腐敗を始めるだろうが、とりあえず、数日間は凌げるはずだ」

 小谷は頷いた。「違いねえ」

 キッチンの棚を開けて、小谷はゴミ袋を探した。彼は突然に急激な吐き気を覚えたらしく、水面台に嘔吐した。

「大丈夫か?」砂川はそう言って、彼の背中を優しく摩ってやった。

「悪い。ゴミ袋がないみてえだ。コンビニに買いに行かないとな」

「お前は具合が悪そうだ。俺が行ってくるよ」

「でもよ、階段でゲロ吐いた音で、玉城のババアが起きていたらどうするつもりだ? それこそ、管理会社に通報されちまうぜ」

「そん時はそん時さ。俺はこの街を去るだけだ。友達に迷惑はかけられねえ」

 財布を持って、玄関へ歩いて行く。玄関口に倒れている阿部の死体。その横を通り過ぎた。

 彼はようやく気がついた。

 もう、自分に平和な日常がやって来ることはない。これからずっと、警察から逃げ続けて死ぬまで、残酷な非日常は永遠に続くのだと。

 なぜ、こんなにも苦しいのか。脳の一部を悪しき者に乗っ取られているかのような違和感。

 これが一生続くのか。警察に捕まるまで……? いや、死ぬまでか。

 俺は、一時の激しい感情に任せて、妻を――麻友を殺すべきではなかった。やるべきではなかったのだ。

 なにもかも、俺が悪かったのかもしれない。子供が作れなかったのも、全て、俺が悪かったのかもしれない。警察に自首するべきか。しかし――。

 逮捕されれば、腰縄を巻かれて、拘置所と取調室を往復する生活が始まる。勾留期間は、最長で二十三日間。刑事たちによる厳しい追及を受けるだろう。俺は、それに耐えられるのだろうか。一時、善意に駆られて自首すれば、豚箱に永遠に閉じ込められて、一生後悔することになるだろう。

 もう三人もの人間を殺害してしまっている。そして、死体遺棄をしてしまった。この時点で、死刑は確定だろう。死刑判決を下されたからといって、すぐに殺されるわけではない。過去に大事件を起こした凶悪犯が、今も刑務所で暮らしていることを考えれば分かるだろう。いつ、何時、自らに死刑が下されるのかをビクビクと怯えながら、暮らすことになるのだ。現在の苦しみに耐えるか、それとも、殺人鬼だと非難され、誹謗中傷されながら、豚箱で一生苦しみながら生きるのか?

 砂川は熟慮のうえに決意した。

 俺は、自首しない。自首なんてしてたまるか。逃げてやる。絶対に逃げ切ってやるからな。

 扉を慎重に開けて、外に出た。階段を下って、玉城がやって来る前にコーポから離れる。角を曲がり、いつもの道を歩いて行くと、行きつけのコンビニに辿り着く。

 敷地内に入りかけて、砂川は引き返した。

 大学時代にコンビニの店員をやった経験から、同じ店を何度も訪れないほうが良いと分かっていた。店員に顔を覚えられると、住んでいるコーポから逃げることになった時に、監視カメラの映像をチェックされて、指名手配の写真に使われる可能性も高い。それに、店員にあだ名をつけられて、陰口を叩かれるのが癪だった。

 三百メートルほど、直線の道路を歩いた先に、別のコンビニがある。暴力団の一味と思われる連中が、駐車場で屯していたことがあった。あまり行きたくはないが、顔を覚えられたくない以上、仕方がないだろう。

 黒塗りの高級車が、駐車場を埋め尽くしていた。柄の悪い男が、コンビニの店長と思われる男と、親しげに話している。この地域の暴力団と親密な関係を持っているのだろう。

 ゴミ袋を買って、さっさと帰ろう。

 コンビニの中に入ると、暴力団構成員は、鋭い視線をこちらに向けた。

 目を合わせるな。関わると厄介なことになるぞ。

 すぐに視線を躱すと、窓際の棚に向かう。確かここに、ゴミ袋が売っていたはずだ。

 ……あった。燃えるゴミの大きめのゴミ袋。家で使っている四五リットルのものではなく、九〇リットルのものを選ぶ。

 暴力団がレジの前からいなくなるまで、雑誌を読んでいる振りをした。偶然に開いたページはギャグ漫画だった。しかし、クスリとも笑えなかった。お色気漫画を探したが、スカートがめくれてパンツが見えたり、胸元が見えたりする程度だった。

 レジ前で話していた男が、店外に出て行った。店長は「ありがとうございました」と言った。

 レジの前に立ち、カウンターにゴミ袋を置く。ポイントカードを持っているかを尋ねられたので、ない、と言った。お作りしましょうかと聞かれた。コンビニに行く度に毎回繰り返される、不毛な会話。砂川はいらない、と言った。

 店長はレジ袋にゴミ袋を入れると、持ち手をこちらに差し出した。レジ袋を手に、コンビニの外に出る。暴力団の車は、いつの間にかいなくなっていた。安心して、ほっと一息つく。

 コーポに戻る時、曲がり角で立ち止まって、玉城が外にいないかを見た。いないことを確認すると、階段を駆け上がって、二〇三号室に入り、鍵を閉める。依然として、阿部の死体は玄関で倒れている。小谷の話によると、阿部の母親は優しい人物らしい。やっと引き籠もりをやめた娘が、無残に殺されたと分かったら、なにを思うのだろうか。

「買ってきたぞ」

 小谷はゲーム機の画面から顔を上げた。

「おう。分かった」

 ゲーム機の電源を切ると、すぐに作業に取り掛かった。硬直した死体は重く、ただ運ぶだけならまだしも、ゴミ袋の中に収めるのは一苦労だった。袋の中に入れると、押し入れの中に仕舞った。どことなく、腐ったような臭いが、部屋の中に漂っている。芳香剤を沢山まいたが、あまり効果が出たようには感じなかった。

 死体の処理を終えると、小谷は風呂に入った。彼がシャワーを浴びている間、砂川はテレビのリモコンを探した。ゴミ山の中では、いつも行方不明になってしまう。リモコンはテーブルの下にあった。テレビの電源をつけると、ニュース番組へチャンネルを変える。

 いつもの習慣だった。いつ何時、麻友と久保木の死体が見つかるか分からないため、ニュースをチェックせずには、不安で眠ることが出来ない。

 小綺麗な顔をしたアナウンサーは、あるニュースを読み上げ始めた。


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