第33話 引き金を引いた

 とても幸せな夢を見た。今までに起きた全てのことが元に戻り、あるべき場所に戻る。俺は麻友を殺しておらず、彼女は今も生き長らえている。不倫もしていない。いつまでも帰ってこない夫を待ちながら、憂鬱そうな表情を湛えている。傍らには小さな子供がいた。彼女との間に産まれた子供だ。なかなか子供が出来なかっただけあって、産まれた時の感動は一入だった。やがて、俺は小谷の家で目覚める。なぜ、こんなゴミ屋敷にいるのだろうか? 俺はロードバイクに跨がって、自宅に戻る。俺が帰ってくると、二人は嬉しそうに家から飛び出してくる。そして、俺は二人を抱き留める……。

 砂川はゆっくりと瞼を開いた。頬には、一筋の涙の跡があった。どんなに幸せな夢を見たとしても、現実は変わらない。

 昨日、深夜に見たニュース番組を思い出す。番組の前半は、最近に起こったニュースや事件についてだった。小谷が誘拐して殺した、女子高生についても取り上げられていた。問題は後半である。

 高そうな背広を身に纏った、男性のニュースキャスターが顔を強張らせている。

「さて、次のニュースです。仙台市青葉区のみずほ銀行で、現金の不正引き出しがありました」

 砂川は呆然とした。開いた口が塞がらないとはこのことだった。少し経ってから、現実に引き戻される。とうとう、バレたらしい。

 番組で流されたATMの監視カメラの映像。そこには、マスクを着用し、黒いダウンジャケットを羽織った中肉中背の男が立っていた。

「男はダウンジャケットの右ポケットの中から、ビニール袋に入った不審なものを取り出しました。男はそれを生体反応センサーに翳すと、現金百万円分を引き出しました。みずほ銀行キャッシュカードの一日あたりの限度額です」

 隣に座っている女性キャスターが尋ねる。

「誰の口座から引き出したのですか?」

「現在、行方不明になっている久保木英彦さんの口座からです。そのあとも、宮城県内のコンビニで、同様の手口を使い、金を引き出しています」

「同様の手口とは、どのようなものなのでしょうか? 確か、ATMには生体反応センサーがあったはずです。本人でないと、引き出すことは出来ないのではないでしょうか?」

「はい。元警察官であり、コメンテーターの高畑紀彦さんに、お話を窺いたいと思います」

「恐らく、ATMから不正引き出しをした犯人は、久保木さんを殺害した犯人と同一人物だと思われます」高畑という名の老人が言った。細身で地黒の肌。丸い縁の眼鏡をかけている。その目は異様に細かった。

「久保木さんは殺害されたのですか?」男性キャスターが尋ねる。

「先日の報道で、久保木さんが経営している美容院傍の道路で、ルミノール反応が検出されています。正式な警察の見解ではありませんが、わたしは久保木さんが殺害されたものと見ています」

「犯人はどのような手口で、不正引き出しを行ったのですか?」

「犯人がダウンジャケットのポケットから取り出したのは、久保木さんの指だと思われます。指を切り取って、ビニール袋の中に入れたのです。現金を引き出すためだけに」

「指?」

「はい」

「なんてこと……」女性キャスターは悲鳴を上げかける。「なんて恐ろしい手口でしょう。普通の人がすることではありませんね」

「そうですね。犯人はかなりの異常者でしょう。すでに口座は利用停止されており、これ以上、犯人が現金を引き出すことは出来ません」

 異常者……。この俺が?

 女性キャスターが尋ねる。「久保木さんは裕福な人物なのですか?」

 高畑は首を振った。

「いいえ、違います。彼は美容師として独立してからも、人並みの収入を得ているのみでした。特別裕福とは言えません」

「なぜ、犯人はそのような人を狙ったのですか?」

「これはわたしの予想ですが、極めて個人的な――私怨が原因だと思います」

「私怨……ですか。それはどのような?」

「久保木さんは殺害される前、離婚に関する裁判に関わっていました。彼は言わば、間男の立場でした。不倫相手の女性も現在、行方不明になっています」

「即ち、不倫相手の女性の夫が犯人、ということでしょうか?」

「わたしはそう考えています。警察も女性の夫を追っていますが、現在、足取りが掴めていません。夫の自宅には、失踪宣告書が残されていましたが、久保木さんの口座から現金を引き出しているところを見る限り、失踪というよりも、殺人罪に問われるのを避けたいのではないでしょうか?」

 小谷が風呂場から上がり、部屋に入ってきた。

「ニュースを見ているのか?」

「見てみろ。口座から現金を引き出したのがバレたらしい」

「マジかよ」

「警察は俺の足取りを追ってる。でも、俺は整形しているし、書類上は小谷将という人物になっている。阿部茜も殺した。そうそう捕まることはあるまいよ」

「そうだといいけどな」

 小谷はそう言うと、髪を乾かし始めた。



 その晩、けたたましいパトカーのサイレンが鼓膜を震わせた。

 砂川は座布団に頭を置いた状態で、薄く目を開けた。また、パトカーか。女子高生が行方不明になってから、頻繁にサイレンが聞こえる。この迫り来るような音を聞くと、鼓動が速くなり、自分たちのところに警察がやって来るのではないか、という恐怖感に駆られた。

 そして、その想像は、現実のものとなった。

 チャイムが押された。

 小谷はベッドから跳ね起き、砂川は上半身を起こした。

 なんだ? この時間帯に。玉城のババアか? いや、違う……。

 外を歩き回るバタバタという足音。明らかに複数。そして、さっき聞こえたパトカーのサイレン。これは一体……。

 また、チャイムが押された。声が聞こえた。ひねくれた、音程の低い男の声だ。

「小谷修平くん。この部屋にいるんでしょ? もう調べはついているんだよ」

 小谷が囁いた。「サツだ。とうとう、やって来やがった」

「どうする、相棒。まさか、こんなにも早く、警察が来るなんて――」

「ごちゃごちゃ言ってねえで、さっさと出て来いや! 扉、蹴り破るぞっ!」

 刑事が怒鳴り声を上げる。

「くそっ、どうすればいいんだ?」

 砂川は頭を抱えた。どちらも警察に追われている身ではある。小谷は女子高生の殺人がバレた。自分は久保木英彦の失踪事件の重要参考人として、身元を洗われている。どちらも捕まれば、警察にとっては漁夫の利といったところだろうか。

「やるかしかねえ」決心したように、小谷。「この日のために、ずっと準備していたんだ。そうだろ?」

 小谷は押し入れの扉を開けた。扉にもたれかかっていた阿部の死体が、畳の上に崩れ落ちてくる。それを眼中にも入れずに奥から取り出したのは、狩猟用散弾銃の入ったジュラルミンケースだった。

「砂川、お前もクロスボウを持っていたよな。それを使え」

「わ、分かった」

 扉を蹴り破ろうとしているようだ。軋み、今にも壊れてしまいそうに思える。クラブケースからクロスボウを取り出し、矢を番えた。財布を持ち、金の入ったバックパックを背負う。

 共同住宅の天井は低く、二階といっても大した高さはない。小谷がベランダから飛び降りて、闇の中に消えた。砂川もそれに続く。靴を履いていないので、素足の状態だった。尖った石が足の裏に食い込み、小さな悲鳴を上げた。

「馬鹿、声を上げるな!」と小谷。

「裏側だっ!」

 刑事たちがやって来る足音。



 さすがにもう駄目だ。

 砂川はそう思わざるを得なかった。足の裏に食い込んだ尖った石。こんな時になって血が滲み出してきて、どうにも走れそうになかった。闘争心を失わせるには充分だ。立ち上がることが出来ずにいると、刑事たちがやって来た。

「そこにいるお前、小谷だなっ」

 刑事たちが羽交い締めにされた。凄まじい力が体に加わり、いつの間にか腕と足を押さえられていた。肺を強く圧迫され、砂川は激しく嘔吐した。このまま殺されるのではないか、とさえ思った。

 砂川の持っていたクロスボウを見て、「こいつ、武器を持っているぞ」と言った。彼らはまだ、小谷の存在に気がついていないようだった。

「小谷っ、撃て! 俺に構うな!」砂川は叫んだ。

 はっとして、砂川の視線の向こうを見た。散弾銃を持った小谷が立っていた。刑事に狙いを定めると銃弾をぶち込んだ。

 発砲音。飛散するように辺りに音が響き渡った。肉の塊が四方八方に弾けるのを、砂川は目にした。

 驚いた刑事たちの力が緩んだ。拘束を抜け出すと、しゃがんだ姿勢を取っていた刑事の顔を蹴り飛ばした。小谷がもう一度、こちらに狙いを定めたのを見て、駐車場から道路に大きく飛んだ。

 また、発砲音が響き渡り、もう一人の刑事が撃ち殺された。砂川は道路に這いつくばり、喉の奥から湧き上がってくる嘔吐物を、思い切り吐いた。吐き尽くした。顔にまとわりつくキツイ血の臭いが、吐き気をさらに加速させた。

 刑事たちは身を翻して逃げ始めた。足音が遠ざかって行く。悲鳴を上げている者さえいた。

「砂川、クロスボウを拾え! 逃げるぞっ」

 砂川は唇に張りついた嘔吐物を、左腕の袖で拭い、応えた。「分かった」

 駐車場の白い白線が引かれているところに、クロスボウが場違いに転がっていた。幸いにも、弦が切れたり、外れたりといったことはなかったらしい。

 武器のもとまで歩いている間、右足の裏がジクジクと痛んだ。まるで、針で皮膚を突き刺されているような感覚だった。

「おい、怪我をしてるのか?」小谷が尋ねた。

 砂川は唇を強く噛んで強がった。「裸足だったから、怪我をしたらしい。大丈夫だ。走れる」

「そうか。なら、さっさと行くぞ」

 小谷が闇の中を走り始めた。砂川はクロスボウを拾って後に続いた。

 コーポの傍にはパトカーが数台、駐車場や道路にはみ出して止まっているのが見えた。

 パトカーがエンジンの唸り声を上げて、こちらに向かって突進してきた。一台だけだった。他の刑事たちは、どこかに逃げてしまったのだろうか?

 小谷は駐車場のどこかに逃げ去ったが、右足の裏が痺れて、傷口がコンクリートに張りついており、砂川は身動ぎが出来なかった。

 何度も頭の中でシミュレーションしてきた動作で、クロスボウを構え、リアガラスに矢をぶち込んだ。ガラスには亀裂が走った。矢の先端がハンドルを持つ右手の中指に、深々と創傷を作った。パトカーは駐車場に止められた車に激突した。エアバッグが作動して、車内は大きく膨らんだ白いクッションで満たされた。刑事は窮屈そうにしており、バタバタと手足を動かして、車内から脱出しようと懸命になっている。

 砂川は運転座席へ回り込んだ。助手席の扉を開けて、抜け出そうと苦しんでいる刑事に狙いを定めた。引き金を引いた。

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