第5話 コンビニ
携帯電話のやかましい着信音で、無理矢理に現実の世界にへと引き摺り戻された。
一体、誰からの連絡だろう、と反射的に思った。誰からの電話かはすぐに分かった。会社の同僚、もしくは上司からだろう。
ソファに寝そべった位置から、頭を少しだけ持ち上げて、掛け時計を見やると午前九時過ぎだった。始業時間を少しばかり回っている。
うるさい連中だ。俺は旅館に泊まったあとに、久保木を殺して死ぬんだ。お前らごときにどうこう言われる筋合いはない。
着信をぶち切りすると、頭に来た上司が家に押しかけて来る可能性があるので、止めておいた。着信音が止まったのは、三分以上も経過してからだった。
俺一人が出社しなかったからといって、会社は滞りなく回るはずなのだが。奴隷が鎖を外して逃げるのが、同じ奴隷として気に食わないのだろう。俺たちサラリーマンは所詮、社会の歯車。何者になれるはずもない、顔のない無数にいる個体の一つに過ぎない。
水面台で顔を洗い、寝癖を直したあと、二階の寝室に入った。押し入れの扉を開けて、黒いダウンジャケットを取り出して、羽織った。
ブルーシート越しに、死体の硬直を確かめる。まるで、石のように硬かった。死体硬直は、平均二時間おきに、関節ごとに現れるとされている。約五時間後に上肢、約七時間後に下肢、十二時間後に手足の指、それ以降は全身に硬直が及ぶ。ブルーシートを開いて、硬直具合を確かめる勇気はなかった。
死体を押し入れの中に押し込むと、扉を閉めた。
自室に入ると、オーディオの電源を消した。誰が聞くでもない音楽を、寝室まで聞こえる大音響で垂れ流していたことになる。近隣住民が文句を言ってこないといいが。
出社に使っているリュックの中から、財布を取り出して、ポケットの中に入れた。
階段を下ると、玄関で靴を履いた。外に出て、しっかりと鍵を閉める。
振り返ると、隣家から渋い顔をした老婆が近づいて来るのが分かった。名前は津村佳苗と言い、いちいち細かいことで文句をつけてくる面倒なババアだった。
「ちょっと砂川さん、いい?」ガラガラヘビのようなしゃがれた声で、佳苗は言った。
砂川は心の中で深い溜息を吐いた。なんでもない風を装い、「はい、なんでしょう」と言った。
「なにか御用ですか?」
「昨日、奥さんとごちゃごちゃ騒いでたでしょ?」
老人性色素斑の浮き出たしわくちゃの老婆は、こちらを糾弾しようとしているようだった。
「それがなにか?」砂川は素っ気なく答えた。
「それがなにかだって?」気に入らない様子で、佳苗。「それと、クラシックの音楽がうるさいんだよ。昨日は音がうるさくて一睡も出来なかったのさ」
「それはすいませんね」
「あんた、反省してないだろ? 警察を呼んでやってもいいんだよ」
「そんなことで警察が動くとでも?」
佳苗は鼻で笑った。
「あたしはちょくちょく警察署に差し入れしてるからね、あっちも親身に動いてくれると思うよ」
「ああ、そうですか。なら、そうすればいいんじゃないですか?」
老婆のもとを去ろうとすると、強い力で腕を掴まれた。
「なんだ、その態度は? 謝れ!」
掴まれた腕を振り払うと、砂川は低い声で「黙れ、ババア」と語気を強めた。佳苗は突然の反逆に呆然として、立ち尽くした。
佳苗のもとを離れ、すぐ近くのコンビニまで歩いた。コンビニの駐車場には、数台の自動車があった。どうやら、レジは混みそうだ。
入店すると、愛想のないパートの主婦たちは、「いらっしゃいませ」さえも言うことはなかった。こいつらは、客によって態度を分けているのだろう。容姿が整っている男や強面の輩には、首尾一貫して、腰を低くして振る舞うが、砂川のような、なんの変哲もない中肉中背の男には、挨拶さえしようとはしない。
緑色の買い物籠を手に取り、ジュースやサンドイッチ、おにぎりなど、朝食を投げ入れていく。商品の選別が終わると、長い列の一番後ろに並んだ。土木作業員や鳶職の人間が多く、作業服には泥やら汚れやらがこびりついている。
そのうちの一人が、ジロリとこちらを睨みつけてきた。砂川にとってはよくあることだった。ガンを飛ばす仕草は、言わば動物の威嚇や威圧と同じである。
普段ならすぐに視線を外すものの、もうこちらに怖いものはないので、ガンを飛ばし返してやった。
男との睨み合いは、男がレジの順番になっても続いた。
「お客様?」レジの女性が声をかける。
「さっさと行けよ」
砂川が声を上げると、メンチのきりあいを傍観していた作業員たちは、ニヤニヤと笑いながらこちらを見やった。
どうやら、反応したのは相手の思う壺だったらしい。
男はレジを終えるとこちらに近づいてきて、数秒間、至近距離で睨みつけたあとに去って行った。男の仲間たちは、またもやニヤニヤと笑いながら砂川を見ている。砂川は鋭い眼で連中を睨み続けた。
作業員たちが去って行き、レジが自分の番になった。
メンチのきりあいを見ていた女性店員は、迷惑そうな態度で、レンジで商品を温めるかも聞かずに、レジ袋の中に、無造作に商品を投げ込んだ。
普段なら、そのまま見逃していただろう。
「おいっ!」砂川は大きな声を上げた。
女性店員は上目遣いにこちらを睨みつける。
「なんですか?」
「おにぎりを温めるか、聞けよ」
女性店員はチッと舌打ちすると、レジ袋の中からおにぎりを取りだして、レンジの中に放り入れた。砂川は女性店員を睨みつけた。
わざとらしく溜息を吐くと、「レジ休止中」と書かれた立て札をカウンターに置いて、店の奥に引っ込んでしまった。
砂川は舌打ちした。なんなんだ、こいつは。
ピーというレンジのアラームが鳴ると、女性店員が騒々しく戻ってきて、レンジの中からおにぎりを取り出して、レジ袋に放り入れると、また店の奥に引っ込んでしまった。
「ふざけるなっ!」砂川は怒声を張り上げた。
十秒ほど経ってから、店長と思われる太った男が現れた。
「どうか致しましたか?」
砂川は事情を説明する。
「それは申し訳ありませんでした」
店長は恭しく頭を下げた。
砂川はふん、と鼻を鳴らすと、コンビニを去った。
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