第38話 戦闘
部屋の中を飛び出してすぐに、手摺りに手をかけて街の様子を短い間だが目視した。回転灯を点滅させて、道路の向こうからやって来ているようだ。回転灯の点滅が、夜の街を染め上げていく。道行く人々は大量のパトカーを見て、何事かと視線を巡らせているようだった。
エレベータを降りる余裕はなかった。二人は階段を数段飛ばしで下りた。エンジンが止まる音、扉が開閉する音、何人もの人々が車の中から出て行く音を聞いた。最後の階段を飛び降りるとカフェの中に出た。数人の警官が店内に入ってきていた。
警官の傍を駆け抜けると、店の外に出た。
「逃げることを止めなさい! あなたたちは完全に包囲されている!」
鼓膜が張り裂けそうなほど大きな、拡声器の声。
これは映画かドラマのワンシーンではないのか? 砂川は現実と妄想が入り乱れていくのを感じた。自分たちを取り押さえようと、店の中から飛び出してくる警官たちはみな、役者ではないのか?
小谷は通りを横切り、すでに向こうの歩道まで走っていた。彼は振り返って言った。
「どうした、早く来い! こっちだ!」
彼の声で、無理矢理に現実に引き戻された。間一髪、警官の手を躱して、小谷の後を追った。向かう場所は、ランドクルーザーを止めていた有料駐車場だ。
街灯がほんのりと明るい夜道を走っていく。背後からはパトカーが金切り声のようにタイヤを軋ませて、恐るべきスピードで追ってきていた。二人は車一台通れるほどの狭い道の中に飛び込んだ。これなら、やってこれないはずだ。
だが、パトカーは猛然と狭い道の中に飛び込んできた。その拍子に右側のサイドミラーが、ビルの外壁にぶつかって折れて、くるくると宙を舞ってから道路に落ちた。鏡に罅が入る音までも聞いた。
俺たちを轢き殺すつもりだ!
とてつもない恐怖が頭をもたげてきた。犯罪者である自分たちがこのまま轢き殺されたとしても、警官が罪に問われることはないだろう。背後から迫り来るパトカー。どこまでも続いている狭い道。
道から飛び出すと、右手に大きく飛んだ。肘を思い切り道路にぶつけて、ひどい痛みが走った。出てきたパトカーのサイドミラーはどちらも壊れていた。
小谷がフロントガラスめがけて、散弾銃の銃弾をぶち込んだ。ガラスに大きな亀裂が走る。パトカーが突進してきて、ヘッドライトが小谷の体にまともに命中した。小谷は顔を苦痛で歪ませて、遠くのほうまで飛ばされた。スローモーションのようにゆっくりと倒れていき、後頭部を縁石に強く打ったところまでを見た。明確な殺意を持ってさらにアクセルを踏んで、縁石を踏み越える勢いで、小谷の体に衝突した。耳をつんざく悲鳴が聞こえて、砂川の全身に鳥肌が立った。タイヤに踏み潰された体はぐにゃり、と歪んでいて、腕や足などがタイヤの内側に巻き込まれていた。
狭い道のほうに顔を出すと、もう一台のパトカーが突っ込んできているのが分かった。運転座席と助手席から警官が一人ずつ出てきて、ビルの壁際で呆然としている砂川を目視した。
「そこを動くな! すぐに手錠を嵌める」
死刑台のイメージがこちらに向かって、ゆっくりと近づいてきていた。刑務官が恐怖のあまり震えている砂川の両腕を、強い力で逃げられないようにがっちりと押さえ込んでいる。目の前に吊されている一本の太いロープ。刑務官はそれを砂川の首にかける。それから、吊された時に暴れないように、両足の膝をひもで縛り付ける。所長が死刑囚――砂川に対して、白々しい別れの言葉を告げると、処刑が実行される。地を踏んでいた両足の感覚が喪失し、ロープが頸動脈に食い込んで、思い切り締め上げる……。
砂川は背中に背負っていたクロスボウを手に持つと、二人の警官に向けた。震える声で叫んでいた。
「動くな! 俺は武器を持っている!」
警官は身動ぎせずに拳銃ホルスターから、拳銃を取り出すとこちらに向けた。砂川は気付いた。こいつら、俺のことを全く怖がっていない――。
両手で顔を庇うような体勢になった。撃たれないと思っていた。このまま捕まってもいいではないか、とさえ思った。
「武器を下ろせ! それなら撃たない」と、警官は言った。
二人の警官のうち片方が、白い歯を見せていることが分かった。タイヤに巻き込まれた小谷は、すでに息はなく、不自然な姿勢のまま、白目を剥いていた。
警官に対してクロスボウを向けて、引き金を引いた。
一本の矢がほぼ直線の放物線を描いて、笑っていた警官の左胸の辺りに命中した。不明瞭な叫び声が上がり、膝の力が抜けて、木偶のように倒れ伏した。
拳銃を手にしていた警官は、同僚が倒れていくのを見たあと、砂川に銃口を向けて、躊躇いもなく撃った。
撃たれる寸前、顔を庇うように両腕を前に出した。銃弾は左腕を貫通し、砂川は痛みのあまりに叫び声を上げて、地面に倒れ込んだ。クロスボウが地面に落ちて、ガツン、という派手な音を立てた。傷口からは、絶え間なく血が噴き出してきていた。
突っ込んできたパトカーの運転座席から、小谷を轢き殺した警官が現れて、二人でなにかを会話した。二人の警官が安心した様子でこちらに向かって歩いてくるので、クロスボウに矢を番えると、拳銃を持っているほうに対して、矢をぶち込んだ。辺りに鮮血が跳ね飛んで、パトカーの窓ガラスを赤く染めた。
もう一人の警官は悲鳴を上げつつ、よろめきながら踵を返して、狭い道のほうに逃げ始めた。膝に力が入らない様子だ。
砂川は左腕の撃たれた傷口にシャツを宛がって、強く力を込めた。直接圧迫法といわれる止血法だった。一分ほど力を込めたり、力を緩めたりしていると、次第に出血が弱まってきた。サイレンの音はまだどこからともなく聞こえて、夜の街に反響している。タイヤに巻き込まれた小谷の脇腹の皮膚が裂けて、腸のような細長い内臓が、どろり、と地面に出てきていることが分かった。砂川はおそろしく冷めた気分になって、自分の生死の問題だけが重要なように思えていた。タイヤに巻き込まれた彼の死体を引き摺り出すと、近くに放り投げた。
相棒は死んだ。自分で運転するしかない。
小谷の死体からランドクルーザーのキーを抜き取ると、倒れている警官の手から、拳銃や銃弾を奪い取り、狭い道の中を走った。背後のパトカーの無線から、ガラガラヘビのようなしゃがれた声が湧き出ていた。まるでお経のように聞こえて、震え上がるほど恐ろしかった。
有料駐車場に入るとロックを解除して、サイレンの音に耳を澄ませながら運転座席の扉を開け、なかに入り込んだ。撃たれた左腕が痙攣していて、痺れているかのように上手く動かなかった。
右手で拳を作って、痺れている左腕を叩いた。
「くそっ、動けっ、動けったら!」
有料駐車場の前を、回転灯を点滅させながら、パトカーが通り過ぎて行った。
落ち着け。落ち着いて、左腕の筋肉を解すんだ。
固く握っていた拳を開くと、左腕の上から下まで、ゆっくりとマッサージを始めた。筋肉を揉むと、傷口から少量の血が噴き出してきて、鉄臭さが鼻孔をくすぐったが、意外と痛みは感じなかった。それと、なぜか煙草臭に入り混じった薬のような臭いもした。
マッサージが功を成したのか、左腕の筋肉が緩和され、痺れた感覚が抜けて、次第に動かせるようになってきた。
アクセルを踏むと、有料駐車場から、通りを出た先にある交差点にへと合流した。赤信号で沢山の車が立ち止まっている。警官が検問を作って、一台、一台、運転している者をチェックしているようだ。
警官は淡々とチェックを続けながら、こちらに向かって近づいてくる。
まずい、と思う。拳銃を持つ右手が汗で滑り、今にも取り落としてしまいそうだった。一旦、拳銃を左手に持ち替えて、右手の汗をシャツで拭うと、もう一度、拳銃を持ち直した。
やがて、自分の番になった。警官はコツコツと運転座席の窓ガラスを叩いて、なにかを呼びかけている。恐らく、開けろと言っているのだろう。緊張が一気に高まって、動悸は先程以上に早くなった。
砂川はパワーウィンドウを下げると、左腕の傷口を隠しながら向き合った。警官は、砂川が異様に汗を掻いていて、シャツが血だらけであることを目視した。
警官が言った。「お前、砂川耕司だな?」
「……」
心の底で、誰かが諦めなさいと言ったが、暴力的な生への欲望で、瞬く間に掻き消されてしまった。
砂川は隠し持っていた拳銃を警官に向けると、躊躇わずに引き金を引いた。
激しい発砲音。警官は左眼を撃たれて、道路に倒れ込んだ。
検問を終えた前の車が発進した。
今だ。
パワーウィンドウを下げてアクセルを踏むと、後に続いた。
雨が窓を叩き始めた。
左腕の傷口から噴き出してくる血は生温かく、ハンドルを手に持っているので止血することが出来ない。たしか、三分の一から二分の一の血液量がなくなると、出血多量で死に至るのではなかったか。貧血のような症状を呈しており、目の前が霞んで見えて、頭がクラクラした。今にも倒れてしまいそうだった。
赤信号で停止すると、シャツを使って直接圧迫法を開始する。しかし、驚くほど速く、赤から青に変わり、血で濡れた手でハンドルを握る。運転していると、ときどき、自らの血糊で手が滑りそうになった。フロントシートは血塗れで、誰かに見られればすぐに異常だと分かる。信号で止まった時、隣の車から覗き込まれることが、最大の恐怖だった。
ぼんやりとした意識の中で、青田芳子と石岡敏広のことを思う。奴らが警察を呼ばなければ、短い間ではあるが隠れていられたのだ。
まんまと騙された。指名手配犯に対する捜査特別報奨金のことを知っていて、最初から通報するつもりだったのだろう。そうでなければ、危険な殺人犯二人を家に上げるわけがない。いつもそうだ。他人の悪意に振り回され、やろうとしていることを台無しにされる。
小谷は殺された。次は、自分の番だ。
途方もない恐怖と絶望。迫り来る警察の追っ手。出血による生命のタイムリミット。これは、何人もの尊い命を奪った、逃亡犯に対する天罰なのか。
都心を抜けると、人気のない道に出た。松の木が鬱蒼と生い茂っており、街灯の類が全くない。ここなら、誰もやって来ないだろう。
路肩に車を止めると、血塗れのシャツを脱いで、バックパックの中から綺麗なシャツを取りだした。それを傷口に宛がって、直接圧迫法を再開する。傷口を手で押さえて止血を図るのは、想像以上の激痛を伴った。べっとりと嫌な汗がどこからともなく滲み出てきて、思考を掻き乱そうとする。
十五分後、傷口から、血がぴちゃぴちゃと溢れ出てくることはなくなった。シャツを千切って傷口に巻きつけて、包帯代わりにする。
視線を巡らせると、背丈の高い木々が一面を覆い尽くしている山の中――整備されていない凹凸の激しい舗装道路が続いているのが見えた。道路の状態からして、ほとんど人も寄りつかないのだろう。
山中に逃げ込もう。そこで睡眠時間を確保して、次なる手立てに備えるしかない。
闇の中へ、ランドクルーザーは入って行った。変わり映えのしない景色の中、砂川は深い森の中へ続いていく、一本のけもの道を見つけた。ランドクルーザーのような大型車でも入って行けそうに思える。若干の坂道になっており、雨でスリップしやすいので注意が必要だった。
上手く停車すると、傷口から血が出て来ないかを再度確認した。傷口はほぼ円形で、シャツが赤く染まっている。痛みはあるが出血はない。よし……大丈夫だ。
運転座席の椅子を倒すと、瞼を閉じた。扉をロックしてあるので、人がやって来ても開けることは出来ない。
瞼の裏で、今日起こった様々な喧噪と惨劇が再生された。
いつの間にか、目尻には涙が溜まり、それは頬を伝って落ちた。
なぜ、俺は生き続けるのだろうか。こんなにも必死になって。それとも、ただ死にたくないだけなのか?
砂川は未来のことを考えた。どれも、暗いビジョンしか見えない。警察から逃げ続けたとして、そこにはなにが待っているのだろうか。いずれ、警察は美容整形をした病院を特定し、カルテをもとに、整形後の顔写真を公開することだろう。そうなった時、どこにも逃げ場はなくなる。他人になりすますことも不可能になるだろう。
暖房を全開で効かせているにも関わらず、凍えるほどに寒く感じた。
警察に捕まらなかった場合、俺はやがて自殺するだろう。たった一人、孤独の中で……。
砂川は首を振った。
嫌だ。一人では死にたくない。孤独のまま死にたくはない。
次第に瞼が重くなってきて、砂川はもう一度、目を閉じた。
極度の不安を抱えたまま、眠りの底へ落ちていくのを感じた。明日からどうするのかは、目覚めてから考えるとしよう……。
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