第39話 拳銃と老人
眠っている時は、なにかから必死で逃げ続けていた。砂川は勘弁してくれ、と思った。夢の中でくらい、幸福な夢を見せてくれよ。
目が覚めた時には、欠けた月はまだ地平線に落ちておらず、しかし、懐中電灯がなくても出歩けるほどには明るかった。サイレンの音はどこにも聞こえない。誰かがここまでやって来ている様子もない。出血も運良く止まっている。なんとか、昨日の晩は逃げ切れたようだ。腕時計で時間を確認すると、午前四時過ぎだった。
安心した拍子に、右手の甲が左腕の傷口にぶつかった。砂川は思わず悲鳴を上げた。ずきずきとした痛みは、駄々っ子のように疼いていた。包帯代わりに巻いたシャツは、血糊と一緒に傷口に張りついている。このままではばい菌が入ると思い、痛みを覚悟しながらゆっくりと巻きつけたシャツを剥がしていった。繊維の一本、一本が赤く染まっており、べりべりという小気味良い音がした。全て剥がし終えた時には、砂川は痛みのあまりに涙目になっていた。
銃弾を撃ち込まれた丸い傷口を円として、囲うように赤黒い皮膚が興隆していた。傷口はペンキで塗りたくったように真っ黒になっている。左腕を動かせるのを見る限り、骨は砕かれていないらしい。骨の上を通っている肉を、深く抉り取られたと言うべきだろう。ばい菌が入って、傷口から腕が腐っていくのではないか。
昔から「ナマ兵法は大怪我のもと」と、医者気取りで手当てをしてはいけないと言われていた。しかし、山を降りて病院には行けない以上、自分で治療するしかない。いや、治療ですらないのかもしれない。怪我の進行を遅らせるだけの処置、といったところだろうか。
それからまた、うとうととして微睡んだ。
浅い眠りの中では、自分でも出来る医療措置を考えていた。
昔、ボーイスカウトで学んだ知識が使えるかもしれない。ぼんやりとしか覚えていないが、作業しながら考えれば、思い出せるかも。とにかく、物事を前向きに考えよう。そうしなければ、今の絶望的な状況を脱することは出来ない。
次に目が覚めたのは、午前五時過ぎだった。日頃の習慣として、この時間帯に起きるようにしていたからだろう。
月が落ちて、太陽が闇を薄めつつある。そろそろ始めようか。
ランドクルーザーの扉を開けて外に出た。昨日の雨によって露がかかった雑草を踏み締める。三ヶ月前のことがありありと思い出された。不倫した妻を殺害し、そのあと思い人が経営していた旅館に行ったあと、自殺するつもりだった。しかし、俺は今、こんな山奥にいる。警察の追っ手から、一時的であるが逃げ切った。まさか、こんなところまで来るとは思わなかった。
貧血状態がまだ長引いており、頭の芯がぼんやりとしていた。砂川は右手で自分の頬を叩き、自らに喝を入れた。こんなところでくたばってたまるか。
「俺は、こんなところでは死なない。死んでたまるかよ」
口に出してそう言う。頭で考えたことを言語化することで、より強くそう思えると聞いたことがあった。
森の中を分け入って、腕にフィットしそうなサイズの手頃な棒切れを探す。冬というともあり、ナメクジのような気持ち悪い虫は冬眠状態にある。それだけが幸運だった。
雨で湿気っていたが、丁度良いサイズものを見つけた。警官に撃ち抜かれた左腕――肘関節から手までの長さだ。
車内に戻ると、バックパックの中を漁った。見つけた。洗濯したばかりの綺麗なシャツ。拾ってきた棒きれを副木にして、シャツを包帯代わりにして固定、そして三角巾のようにした。これで安静にしていれば、傷口が広がることもないだろう。
さて、これからどうしようか。生憎、バックパックの中に食料はない。数日間はなにも食べなくても耐えられるだろう。しかし、一週間以上ともなると話は変わってくる。
走らずに、ただこうしてエンジンを稼働している間でも、ガソリンは消費してしまう。暖房もなしにこの森の中にいることは難しいように思えた。さらに、貧血によってかなり具合が悪いときている。
ガソリンメーターを見ると、かなり少なくなっていた。このまま稼働し続ければ、やがては動かなくなってしまうだろう。昨日の晩、暖房をつけたまま寝た所為だった。我ながら勿体ないことをしたと思う。一日くらい、暖房なしでも車中泊出来ただろうに。
ダッシュボードをちらりと見やる。中には、警官から奪った拳銃があり、まだ銃弾は残っている。
後部座席に移り、クロスボウの状態を確認する。
砂川の心に、深い失望が舞い降りた。
クロスボウの弦が切れてしまっている。壊れてしまった――。
警官と戦っている時に、クロスボウを地面に落としたことを思い出した。
いつまでも決心は固まらなかった。そうして、時間ばかりが過ぎていった。
俺は一体、どうなってしまうのだろうか。不安ばかりが膨張し、心を覆い尽くしていく。ただひたすらに、闇の中で藻掻き苦しんでいるイメージだった。ただ確かなのは、死という名の追っ手だけが、警察よりも早く、着実に迫っているということだ。
この森に逃げ込んでから、十四日間が経過した。その間はなにも食べなかった。バックパックの中に入っていたミネラルウォーターをちびちびと飲んで、飢えを凌いだ。いっそのことなにも食べずに、このまま餓死したらどれほどいいだろうとさえ思った。しかし、死ぬことは叶わなかった。
心は暗黒に支配されていた。死のイメージだけが際限なく広がって、心を真っ黒に染め尽くしていた。
それとは対照的に、その日はすこぶる晴天で、眩い光が空から射し込んできていた。あらゆるものがはっきりと見えて、ただの雑草でさえも、深い陰影を湛えていた。
砂川はもう限界だった。
ダッシュボードの中から拳銃を取りだして、こめかみに宛がった。引き金に置いた指が、小刻みに震えている。
何度こうしただろうか? 一度として、引き金を引くことは出来なかった。勇気が出なかった。誰だって、死にたくはないだろう。
砂川にとっては、死そのものが恐怖ではなかった。死へと至る直前に訪れる、猛烈な痛みこそが恐怖だった。
「いたいのはやだ」と、砂川は赤ん坊のように言った。どうすればいいのだろうと、そればかりを考えていた。
ガソリンメーターは零を指し示しており、車内は凍えるように寒かった。もうランドクルーザーも動かない。このまま動かないでいれば、本当に死んでしまう。
死にたくない……。
砂川は遂に決心すると、バックパックを背負い、拳銃を隠し持った。扉を開けて、久しぶりに外の空気を吸った。栄養失調になりかけており、持ち上げる足が重かった。どこかで車を拾おう、と思う。この森から市街地に行くのはあまりにも遠すぎる。
凹凸だらけの舗装道路を抜けて、一キロほど歩いたところに交差点があった。左腕の出血は止まっていた。肉が腐っていくのではないかと恐怖していたが、腕を動かすことが出来るので、どうやらその心配はないらしい。
ヒッチハイクを始めて一時間半。車の通りが少ないこともあるが、通り過ぎて行く車はみな、冷たくあしらうように走り去っていく。まるで、嘲笑われているような気分になった。このホームレスが。誰が車に乗せてやるか。
それから一時間以上粘って、とうとう気力が尽きた。車に轢かれないよう、道の端――車道外側線の内側に座り込んだ。足が疲れており、棒のようになっている。早く、なにか栄養のあるものを食べたかった。バックパックの中には金だけはある。マスクで顔を隠せば、コンビニくらいには入れるだろう。
それから十台以上の車が通り抜けていった。サイレンの音が遠くから聞こえてくると、砂川ははっとして立ち上がった。パトカーがやって来たら、声をかけられるかもしれない。折角森を下りてきたのに、また凍えるような車内に戻るのは御免だった。
頭の中で、怠慢な気持ちが切り替わるのを感じる。
次だ。次で決めよう。次に来た車で決める。どんなに屈強な男が乗っていようと、構わない。次で決めるんだ。
緩やかな坂の上から、くすんだ灰色の軽自動車が近づいてきているのが分かった。ドライバーは年配の男性。ひどく痩せていて、生っ白い肌。これなら、言うことを聞かせるのは簡単だろう。
道路の真ん中に進み出て、止まるようにサインを送った。車はけたたましいクラクションを鳴らしたあとに、ゆっくりとスピードを落として、やがては停車した。
よぼよぼの老人は、さも不快そうに顔を歪めた。胡散臭いホームレスにヒッチハイクされたと思っているのだろう。
車を奪おうと思っていたが、左腕を怪我しているので上手く運転出来ない可能性があった。現に、指は動かせるものの、ビリビリと鈍麻したように感覚がない。運転ミスで死んでしまっては元も子もないのだ。
助手席の扉に手をかけると、老人は今がチャンスだ、とばかりにアクセルを踏んだ。砂川はさせるか、と思い、サイドミラーを掴んだ。ずるずると引き摺られる形になり、車は徐々に減速した。
老人が言った。「なんだ? 一体、なにがしたいんだ? サイドミラーを離せ。離せったら!」
車は一時停止した。砂川はすかさず扉を開けると、助手席に乗り込み、老人に銃口を向けた。
ルームミラーに自分の姿が映った。森に逃げてから十四日間も狭い車内に籠もっていたために、ホームレスと言われても仕方がないほど、ひどい見てくれになっている。汗を吸って黄ばんだシャツ。血塗れの手。左腕を怪我しており、三角巾で吊している。髭は生え放題で、唇の周りを覆い尽くしている。目の周りはひどく黒ずんでいて、ひどい隈。明らかに栄養状態が悪化していることが見て取れる。
「な、なんなんだ。お前は一体――」
「俺が言った通りにしろ。命令に逆らうな」
緊張のあまり、老人の喉仏が上下するのが分かった。
「わ、分かった。と、とりあえず、その拳銃を下ろすんだ。分かったな?」
銃口をさらに強く、こめかみに押しつける。
「あんたを殺して、車を奪ったっていいんだ。俺の言う通りにしろ」
「わ、分かった。分かったから。一体、どこに行けっていうんだ? 頼むから殺さないでくれ――」
「あんたの家はどこにある? 言え」
「この近くだ。二キロほど先にある」
「何人家族だ?」
「わたしと妻の二人だ。老いぼれをいじめて楽しいかい?」
「そこに連れて行け」
老人が車の外に出ようとしたので、扉をロックした。
砂川は声を凄めた。こいつには舐められてはいけない。「早く車を出せ。撃ち殺されたいのか? え?」
「いいや」老人は首を振った。「分かった。わたしの家までお前を連れて行けばいいんだな?」
「そうだ」
「金ならやる。わたしと妻の命だけは――」
「早くしろ」
「わ、分かった」
老人は車を発進させた。これで一つ、パズルのピースが嵌まったような感覚はあった。地獄のような状況からは脱せたのだ。
砂川は強く拳銃を握り締めた。俺はこの老人と妻を殺せるだろうか? なんら罪もない人々を――。
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