第40話 根っからの役者
「どこへ向かっている?」
「……」
老人はなにも応えなかった。拳銃の底で肩を思い切り叩くと、苦しそうに呻いた。「分かった。だから、やめてくれ」
「どこへ向かっていると聞いている」
「警察署だ。そこで罪を償いなさい」
「余計なことをするな」砂川は銃口を、老人のこめかみに宛てた。「本当に撃ち殺すぞ」
車は警察署前で停車した。老人が騒いでも、外には聞こえない。しかし、警察関係者がやって来るのは都合が悪かった。早く、こいつに言うことを聞かせなければ。
「罪を償いなさい」老人は繰り返して言った。「気が楽になるぞ」
砂川は鼻で笑った。
「十秒数える。それまでに出発しろ。さもなくば撃ち殺す。外に逃げられると思うな。ドアはロックされている」
「君にわたしを殺すことは出来ない。君は悪人には見えない。根はきっと真面目だろう」
「十」
「わたしは神学校卒でね、牧師の経験がある。悩みがあるのなら、話を聞こう。きっと、気持ちが楽になるはずだよ」
「八……七……」
「頼むから助けてもらえんかね? 君は家に着いたら、わたしと妻を殺し――」
「四……三……二……」
「わたしと妻を殺して、警察に見つかったら、またどこかに逃げるんだろう? 罪の意識は君にはないのか。こんなことをすれば、君を産んでくれたお母さんが悲しむぞ――」
「一」
引き金に置いた指に、力を込めた。本当に撃ち殺してやろうと思った。
「零」
「わ、分かった。発進する。分かったって」
老人はマニュアル車のやり方で、車を発進させた。
「そうだ。最初からそうしていればいいんだ」
老人の額には、汗が滲んでいた。
「きちがいだよ、君。本当にきちがいだ。頭が狂ってる」
「狂ってなどいないさ。ただ、本気なだけだ」
前方に、警官たちの姿が見えた。手には誘導棒を持っており、鋭い眼でこちらを睨んでいた。制服の上に着ている重そうなベストが、ヘッドライトの光を反射して光っている。
「ほら、天罰が当たったんだ」老人はニヤリと笑った。「君はもう終わりだよ」
老人は検問前でブレーキを踏んで、それからいくつかの手順を踏んで停車した。警官が近づいてきて、窓を指の関節でコツコツと叩いた。パワーウィンドウが下がっていく。
「窓を開けて」警官の声。
老人はパワーウィンドウを下げた。
「名前は?」
「わたしは大橋洋一」老人は、しゃがれた声でそう言った。しかし、しっかりとした発音だった。「悪いが、助けてはもらえんかね? 隣の男は拳銃を持っている。確か、ニュースで見た犯罪者だ。そう。砂川耕司。妻と間男を殺して、逃走中の男だ。道の途中でヒッチハイクをしているところを捕まって、無理矢理車の中に――」
警官は本気でそう言っているのかを分かりかねる様子で、もうひとりの警官になにかを伝えていた。他に検問をされている車のエンジン音や排気音、人々の話し声や喧噪で、なんと言っているのか、よく聞き取ることが出来ない。
「おい、余計なことをするな! 窓を閉めろっ!」
砂川はパワーウィンドウを上げたあと、左腕を支えている副木を取り去った。なんとか指は動くので、運転出来そうだ。老人を後部座席に蹴り飛ばすと、運転座席を奪い取った。
その瞬間、警官がホルスターから拳銃を抜き取ったのが見えた。
砂川は数メートルバックしたあと、アクセルを踏んで、警官たちに対して勢いをつけて突っ込んだ。ヘッドライトが割れて、車内が衝撃が走った。老人の悲鳴。二人の警官は吹き飛ばされて、驚くほど遠くの位置に落下した。撃たれた左腕の傷口がジクジクと痛んだ。包帯代わりにしていたシャツに、また血が滲み出してくる。
どこかから発砲音が聞こえた拍子に、フロントガラスに罅が入って、粉々に砕け散った。尖ったガラスの破片が、砂川と老人を襲った。大橋は悲鳴を上げながら顔を膝に埋めた。砂川は目に破片が突き刺さらないよう、顔を背けた。
前方には検問中の一台の車。その右横には、パトカーが一台止まっており、挟まれるように赤い三角コーンと「検問中」と書かれた看板が置いてある。後方に車はない。しかし、Uターンするほどの余裕はない。
いきなりアクセルを吹かせたので、若干、車体がよろめいたが、砂川は気にすることなく発進した。車とパトカーの合間――二台の車にぶつかりながら、三角コーンと看板を跳ね飛ばして、突き進もうとした。
しかし、上手くいかなかった。いくつかの三角コーンが吹き飛ばされたうえ、パトカーのトランクにめり込んだ。テールライトが粉々に割れた。
砂川は扉を開けて、道路に飛び出した。
拳銃を向けていた警官が、こちらに向かって発砲してきたのが分かった。乾いた発砲音が、空に木霊した。銃撃が砂川を襲い、腹の脇辺り――シャツが赤く染め上げられた。こちらが応戦すると、銃弾は警官の腹部に命中し、哀れな叫び声を上げて倒れた。
銃弾が命中した箇所から、血が噴き出してきてひどく痛んだ。また、しつこいようにサイレンの音が聞こえてくる。老人は後部座席で縮みあがっていた。今なら逃げられただろうに。
砂川は老人の車に乗り込むと、Uターンをして、元の道に戻った。パトカーがやって来ないよう、出来るだけ遠くまで車を走らせた。
「よう。よくもやってくれたな。お陰でこのザマだぜ」砂川は皮肉にそう言った。
「この、殺人鬼め! 恥を知れ! 恥を知るんだっ!」
「黙れ」
停車すると、銃床で大橋の頭を思い切り殴りつけた。このまま殺してやろうかと思ったが、まだ利用価値があることに気付いていた。
「座席を替われ。言ったようにするんだ」と、砂川は命令した。
二キロほどいったところに、大きな川があった。その上を鉄橋が走っている。太陽の光を反射して、水面が輝いていた。一瞬、その煌めきに視線を奪われたが、すぐに老人の監視に移った。この大橋という老人は、目を離せばなにをしでかすか、分かったものではないからだ。
「君は警官を三人以上も殺した。捕まれば、きっと死刑台に送られるだろう」まるで、断罪する裁判官のような口振り。「君は死刑になる。自殺するより、もっと恐ろしいことだ。いつ何時、自分が殺されるのではないかという恐怖に怯えながら、刑務所の中で長い時間を過ごすのだ。それはなににも勝る恐怖なのだ」
「俺が死刑になることを怖がっているのだとしたら、それは大きな勘違いだ。何人、警官を殺そうが、俺は罪悪感なんて覚えない」
「人殺しめ!」
車は住宅街の中に入っていった。周辺には新築の綺麗な建物が建ち並び、この老人の家も、そのうちの一つだと思われた。舗装された走りがいのある道路が続き、汚れのない真っ白なガードレールがその上に立っていた。粉々に砕かれたフロントガラスを見て、人々は驚愕に目を見開く。通報される前に、どこかにこの車を止めておきたかった。
人々の視線は、心配しているというよりも、馬鹿にするような好奇の目で溢れていた。退屈な日常に舞い降りた、おかしな車。それを食い入るように、ニタニタと笑いながら眺めている。卑しい連中だ。
「見てみろ」と砂川は言った。「俺はあの野次馬共と、本質的にはなにも変わりはしないのさ。あんたは俺を人殺しだと罵るが、あいつらだって、警察に捕まらないとなれば、気に入らない奴を真っ先に殺しに行くだろうぜ。違うか?」
「違うね」
「まぁ、善人ぶったあんたには、分からないだろうがな」
顔面を化粧で白く塗りたくった、明るい髪の女子高生。スカートの丈は短く、少し視線を下げてみれば、汚らしいパンツが見えることだろう。轢かれないと思っているのか、道路に体を乗りだして、携帯のカメラをこちらに向けていた。撮影をして、どこかの動画サイトにでもアップロードするつもりだろうか。
「見てみろ。あの女の阿呆面。甘やかされて暮らしやがって。痛い目を見せてやらないといかんようだな」
大橋が握っているハンドルを、少しばかり左に動かした。すると、車のサイドミラーが、女子高生の手に命中した。女はけたたましい悲鳴を上げて、携帯を取り落とした。
「ざまあみろ」
砂川はせせら笑った。
大橋はこちらをちらりと見たあと、呆れたような深い溜息を吐いた。
「本当に下らないよ。君は何十年も生きてきて、社会というものをなにも分かっちゃいないのさ」
「それはあんただぜ、じいさん。なにも分かっていないのはあんたなんだ。社会というものは、迫害される立場に立ってものを考えなければ、本質はなにも見えやしないのさ。あんたは違うだろ? あんたは裕福そうに見えるし、困っているようには見えない」
「困ってるさ。君に拉致されてる」
前方に検問が見えた。大橋がアクセルを踏もうとするので、運転座席から追い出して、そこに乗り込んだ。
砂川は尋ねた。「自宅はどこだ?」
恐る恐るといった様子で、老人はパワーウィンドウの向こう――立派な和風建築の建物を指差した。
「この家だ。なあ、頼む。わたしたちを殺さないでくれ。頼む。なあ、頼む――」
「それは無理な話だ」
家の駐車場に車を止めると、老人の襟刳りを引っ掴んで、ドアを開けて外に出た。
「鍵はどこにある? 早く寄越せ」
「……分かった。とりあえず、君の命令に従おう」
大橋はポケットの中から、家の鍵を取り出すと砂川に渡した。老人を引き摺る形で玄関に立つと、ドアを開けて中に入った。
家の中には生活臭が充満していたが、どこか上品な気風を湛えていた。リビングの奥からは、紅茶の芳しい薫りが漂っている。そこに、この老人の妻がいるのだろう。
土足で上がり框に登ると、リビングの中に入った。
「茂子、逃げろっ!」
ひ弱な老人が飛びかかってきて、何発かパンチを繰り出してきた。
「邪魔するな!」砂川は叫び声を上げると、大橋の顔面を思い切り殴り飛ばした。彼はテーブルにぶつかって、顔を苦痛に歪ませて小さく呻いた。上に乗っていたコップが床に落ちて割れた。どうやら、茂子という老婆は、この部屋にはいないらしい。紅茶を作ったのを忘れて、どこかに出かけてしまったのだろうか?
大橋は殴られた箇所を手で押さえながら言った。「茂子は軽度の認知症を患っているんだ。きっと、紅茶を作ったのを忘れて、二階の自室で寝ているんだろう」
砂川はなにも言えなくなってしまった。この大橋という老人が、他の連中のようには見えなくなっていた。これでは、俺が単なる悪人だ。
老人は床にひれ伏して懇願した。
「頼む。わたしと妻を見逃してくれ。なんでもするから。頼む――」
砂川は首を振った。
「駄目だ。俺は顔も割れている上に、どこにも逃げることが出来ない。あんたらを殺して、警察にバレるまで、この家に潜伏する必要があるんだ」
「わたしの息子は、ビジネスホテルの経営者なんだ。わたしが話を通せば、そこに泊まるように手配出来る。もちろん、代金はわたしが代わりに払う。それで手を打ってくれないだろうか?」
隠し持っていた拳銃の銃口を、哀れな老人に向けた。
「そんな戯れ言を俺が信じると思うのか?」
「本当だ。本当のことなんだ」老人は涙を流していた。「信じてくれ。わたしが君に出来ることはそれしかない」
「……」
「君だって、妻を殺したくて殺したわけじゃないんだろう。不倫されて、カッとなって仕方なくやってしまっただけなんだ。美容整形をしたのだって、警察の追跡から逃れるためなんだろう? 君は言わば、被害者だ。警官や罪もない人を殺したのは、罰せられるべきだが……」
「……」
「わたしを信じてくれないだろうか? 車のフロントガラスが割れていることも、なんとか誤魔化す。君を警察に突き出したりはしない」大橋は語気を強めた。「わたしを、信じてくれ」
砂川は少し考えたあとに言った。
「分かった。あんたを信じる。殺さない」
「良かった――」
「ただし、嘘をついていたり、警察にチクった場合は、あんたの息子を殺す。これでいいな?」
「わ、分かった。それでいいだろう」
本当のことを言っているか分からないが、これで交渉成立のように思えた。この罪のない老人を殺せるほど、自分には勇気はなかった。
大橋家の駐車場には二台の車があり、その一方のフロントガラスは粉々に砕かれていた。そしてもう一台。老人の説明によれば、妻が認知症を患う前に乗っていた車なのだと言う。
二人はドアを開けて外に出て、傷がついていない車に近づいた。砂川は左腕を怪我しており、大橋がビジネスホテルまで運転する約束になっていた。
「検問を上手く躱してくれよ」と、砂川は言った。「もう二度と銃撃戦は御免だ」
大橋は深く頷いた。「分かっている。もしも危なくなったら、君はわたしを殺すんだろう?」
「そうだ」
「なら、検問に引っ掛かるわけにはいかない」
砂川は少し気になることがあった。
「あんたの嫁さんは認知症だと言っていたが、あんたは車でどこに出かけていたんだ? 遊びに行っていたわけでもないんだろ?」
「今日は茂子の誕生日だったんだ。新しい着物が欲しいというから、大きなデパートに買いに行っていたんだよ」
「……そうか。なら、悪いことをしたな」
「ああ。全くだ。君と同じように、わたしも面倒事は御免なんでね」
不意に、声が聞こえた。「大橋さーん」
声の方向に視線を向けると、向かいの家から、七十過ぎの男が歩いてきているのが分かった。黒い着物を身に纏っており、かなり裕福そうに見える。手には回覧板を持っていた。
男はフロントガラスが割れた車を見て、心底驚いたようだった。
「お、おい。どうした? この車。まさか……」はっと息を呑む。「逃亡犯と警察の銃撃戦に、巻きこまれたんじゃなかろうな? もしそうだとしたら――」
大橋は首を振った。「違うよ。交通事故に遭っただけさ。わたしはツキがないんでね」
「交通事故? どんな?」
「寝不足で、電柱に突っ込んじまったのさ。それでこの有様だ。全く――」砂川のことをちらりと見る。「本当についていないよ」
「大丈夫なのかい? 怪我は?」男は大橋の顔を見る。「顔が痣だらけじゃないか。早く病院に行かないと」
「分かってる。これから行くところさ」
男は砂川のことを見た。探りを入れるような、疑り深い目だった。「この人は?」
砂川の心に緊張が走った。隠し持った拳銃を握り締める。もしも、下手なことを言えば、ここで二人共撃ち殺してやる。
「従兄弟の耕司くんだよ。事故した時に偶然会ってね、ここまで助けてくれたんだ」
「なんだ。そうだったのか。てっきり、この男が逃亡犯なのかと」
「どうしてそう思うんだい?」
「だってこの男、マスクと眼鏡をしていて、如何にも怪しそうじゃないか」
大橋は笑った。額には汗が浮いていた。
「そんな失礼なことを言うものじゃないよ。それじゃあ、回覧板は受け取るから。病院に行かなければならないのでね、これで失礼するよ」
「ああ。それじゃあ」
男は回覧板を渡すと去って行った。
「危なかった」大橋は腕の袖で汗を拭った。「これで一安心だ」
「あんた、根っからの役者だな」砂川はニヤッと笑った。
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