第41話 ホテル

 二時間半ほど車を走らせて、目的のホテルに辿り着いたようだ。途中、体が疲れ切っていて睡魔に負けそうになった。老人が裏切って警察に突き出されるがあったので、なんとか堪えた。

「どうにも眠そうじゃないか? え?」と老人。「お前が眠っていたら、警察署に送り届けてやったのに」

 大橋の声で現実に引き戻された。実質、意識だけは眠っていたといっても過言ではない。

「なんだって? よく聞こえなかった」

「着いたぞ。ここがウチの息子が経営しているビジネスホテルだ」

 ドアを開けて外の景色に視線を巡らせると、雪が降っていた。道路一面を埋め尽くしていて、アイスバーンになっているところもある。つるつると滑るので注意が必要だった。

 「ビジネスホテル月光」と書かれた、縦長の黄色の看板。「月光」の部分は青い文字だ。煤けた煉瓦造りの建物で、かなり古いものを改装して造られたように思えた。

「県庁から車を走らせて約三分。周辺には一番街アーケード街や国分町などが建ち並んでいる。立地はかなり良い方だ」

「儲かっているのか?」

「どうかな……。まぁまぁじゃないかな。近くには東北大学もあるし、スキーをするために宿泊している客も多いだろう」

 大橋がホテルの玄関に入っていこうとするので、砂川は引き留めた。

「待て」

「どうかしたか?」迷惑そうな表情。

「俺についてはどうなっている? どう息子に説明した?」

「遠い親戚の一人だと説明している。問題ない。裏切ることはあるまいよ。もしそうなれば、息子が殺されてしまうんだからな」

「……」信じていいものだろうか。

 二人は自動ドアを抜けて、ホテルの中に入った。フロントの男性がこちらに視線をやった。大橋が頷いた。

 息子と言われる男が言った。「やあ、父さん。久しぶりだね」

「ああ。久しぶり」

「その人が遠い親戚とかいう……ええと」

「岡松和利さんだ。わたしも世話になった人だから、面倒を見てやってくれ」

「宿泊期間は一週間だったよね?」

「ああ、そうだ」大橋はこちらに視線をくれたあと、代金などを支払った。彼は砂川の肩を叩くと。「じゃあ、上手くやれよ。一週間もあれば、逃げる準備も出来るだろう」



 砂川はビジネスホテル月光に身を寄せた。フロントにて、管理人であり老人の息子である大橋正勝から、部屋のキーを受け取る。部屋番号は四〇四号室だった。

「ありがとう」

 目だけでにっこりと笑うと、チェックインを終えた。フロントを横切って、エレベータに乗り込む。玄関口から、スキーに行っていたと思われる大学生たちがやって来て、部屋のキーを受け取っていた。大橋の言葉が思い出される。じゃあ、上手くやれよ。

 エレベータの「開」のボタンを押して、大学生たちがやって来るまで待った。

 十秒ほどして、彼らがやって来る。自分たちが来るまで待っていたのだと気付くと、彼らのうち一人が「ありがとうございます」と言った。

 エレベータの扉が閉まり、筐体は上昇する。大学生は男子学生のみで、女子学生は一人もいないようだった。

 砂川が大学生の時もそうだった。いつも男友達とだけでつるんでいて、女友達が一人もいない。もちろん、彼女も。スキーに行っても、遊園地に行っても、むさ苦しい男ばかりだった。ただ、楽しかったという記憶だけは残っている。今頃、あいつらはなにをしているのだろうか。殺人犯として、指名手配されているのを見て、なにを感じ、思ったのだろうか。あいつは俺の元同級生だと、触れ回っているのだろうか。きっと、そうだろう。

 三階に到着すると、先程の大学生たちが下りていった。砂川が乗ったエレベータは四階に昇った。そこで下りて、廊下に出る。きょろきょろと辺りを見回すと、予想通り、監視カメラが設置されているのが分かった。つまり、部屋の中に入るまで、その一挙一動が筒抜けということだ。注意しなければ。

 廊下の突き当たりには窓があり、そこから外の風景を見下ろした。大橋の車が止まっていた、狭苦しい駐車場。乗ってきた車は、もうそこにはない。

 本当に、警察に通報されないだろうか、と心配になる。

 しばらく考えて、大丈夫だと思った。大橋老人なら、信用してもいいかもしれない。彼が裏切るような人間には見えなかった。

 廊下を抜けて、四〇四号室の扉を開ける。洋室タイプでシングルの部屋だった。全室脱臭スプレーが使われており、清潔感が漂っている。壁際に大きなベッドが一つあり、その先には机が一つ。小さな昭明と卓上時計、ティッシュなどがテーブルの上に置かれている。

 話によると食事はつかないそうなので、注文するか、外に出て食べるしかなかった。ホテル周辺は飲食店が多いが、指名手配されていることを考えると入店は難しいだろう。

 しばらくして、部屋を出た。フロントの係員に鍵を渡すと外に出る。薄らと雪が降っていた。寒冷な東北地方ということもあり、道路は雪で覆われている。天気は悪く、案の定、曇天。街灯が少なく、下を見て、転ばないように歩かなければならなかった。

 近くのコンビニに辿り着くとすぐに、店員が挨拶をしてきた。雑誌コーナーに行き、雑誌を探す。有名なものを手に取って開く。久保木や麻友が殺害された事件について、大々的に取り上げられていた。顔写真つきで、どんな子供であったか、どんな学生時代を送ったか、など。この記事の先には、下世話な欲望を抱いた沢山の読者がおり、自らのプライバシーを検閲しているのだと思うと、ゾッとした。

 俺はこの先、どこに行けばいいのだろうか、と思う。猶予は一週間出来た。仙台市は広く、人口も多い。よほどのドジを踏むか、昔の同級生から連絡がない限りは見つかることもないだろう。

 誰か、協力してくれないかと思う。昔の同級生……。中学や高校時代の連中は駄目だ。そう考えると、一人しか宛は思いつかなかった。

 富山佳織。中学に上がる時、引っ越す前に住んでいた地元で、隣に住んでいた年上の女の子だ。佳織姉ちゃんと呼んで、砂川は慕っていた。彼女なら、協力してくれるだろうか。高校生の時に一度だけ会って、連絡先を交換したまま、一度も会っていない。助けてくれるかは分からない。行く先がない以上、電話を入れてみる賭けに出てみてもいいかもしれない。

 もし、彼女が裏切って、警察に通報したら?

 砂川は雑誌から顔を上げて、窓の外を見た。夜の帳は落ちているが、道路に積もっている雪が街灯を反射して、妙に明るかった。回転灯を点滅させながら、パトカーが道路を駆け抜けていく。

「……」

 冷静に考えれば、通報するのが普通だろう。佳織姉ちゃんは小谷と違って、半グレというわけではないのだから。

 雑誌を持つ手が小刻みに震えた。

 結局、自殺という道しかないのではないだろうか。俺が生きていても、他の人々に迷惑をかけるだけだ。いっそのこと、拳銃で自害して――。

 彼女の声が聞きたいと思った。裏切られてもいい。殺人犯だと罵られてもいい。最後に彼女の声が聞ければ――。

 雑誌を手に、他の棚に移る。カップラーメンを手に持つと、レジのカウンターに差し出した。怪しまれている様子はなかった。ホテルへの帰り道は、ひどく心細かった。



 目が覚めたのは、午前六時丁度だった。昨日はぐったりと疲れていたので、昼まで寝ているのではないかと思っていたが、習慣という名の呪いには勝てないらしい。

 私服に着替えてから、ホテルサービスを頼んだ。食堂で食べることも出来るらしいが、人々の視線に晒されることは、出来るだけ避けたかった。ボーイが朝食をトレイに載せてやって来て、扉をノックした。

 マスクと眼鏡を着用して、扉を僅かばかり開いた。

「朝食です。岡松さん」

「ああ。ありがとう」

 都合の悪いことに、朝食を持って表れたのは、大橋の息子だった。

「オヤジの遠い親戚とのことですが、普段はなにを?」

 後にしてくれ、と追い払おうとしたが、職業を尋ねることくらいは普通だと、自らに言い聞かせた。

「記事を書いている。フリーライターなんだ」

「記事? あの逃亡犯についてですか? 確か、仙台市内に潜伏していたとか」

 それは俺のことだ。

「そう。そんなところだよ。じゃあ」

「はい。失礼致します」

 ドアを閉めてから、まずいと思った。フリーライターという職業柄、一日中、部屋に籠もっているわけにもいかないだろう。あの男は、取材のためにここにやって来たのだと思っているはずだ。

 テーブルの上にトレイを置き、朝食を食べ始めた。電話ではアレルギーがないか尋ねられたあと、卵料理はオムレツ、ポーチドエッグ、フライド・エッグ、エッグベネディクトから選べると言われた。よく分からなかったので、オムレツを注文しておいた。他には、トースト、サラダ、フルーツ、コーヒーだ。食べ終わったら、またボーイを呼んで、皿やトレイを取りに来てもらってもいいが、また大橋の息子がやって来て、根掘り葉堀り聞かれるのは避けたかった。あの男、俺を怪しんでいる様子がある。

 朝食を食べ終わるとトレイに皿を載せて、食堂に戻しに行った。係員はトレイを受け取ると、「ありがとうございました」と言った。砂川はペコリと頭を下げると、食堂を後にした。

 部屋に戻った。携帯のインターネットで検索をかけると、ビジネスホテルのそばにショッピングセンターがあることが分かった。中にはスーパーや本屋、映画館があるらしい。ここなら、いくらでも暇が潰せるだろう。警備員に通報される可能性もあるが、変装をしていれば見つからないように思えた。

 黒いダウンジャケットを羽織ってから、これはまずいと気付いた。

 昨日の夜に見ていたニュース番組で、砂川耕司が身に着けている衣服について、イラスト付きで詳しく説明されていたからだ。ダウンジャケットはもちろんのこと、眼鏡、マスク、ジーンズ、バックパックなど。監視カメラの映像をもとに、作成したに違いない。大橋の息子の懐疑的な視線も、分からないではない。自分も同じ立場なら、怪しいと思うだろう。新しい服を新調しなければ。ジャケットはこれしかないので、羽織らずに出かけるしかなかった。

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