第20話 薄明

 薄明を迎える頃には、砂川はすでに覚醒していた。寝たのが午前二時頃で、起きたのが四時半。結局、二時間ほどしか眠ることが出来なかった。

 目的の銀行ATMの開く時間が、八時四十五分なので、その間に朝食を済ませておくことにした。マスクと眼鏡をつけ、財布を持って部屋の外に出る。

 受付の女性職員に鍵を渡すと外に出た。車の通りが少ない時間帯であるので、空気は澄んでいて、皮膚がピリピリするほど冷たかった。道路には所々にアイスバーンが出来ていた。

 歩いていると、前方から五十代過ぎくらいの、大柄な男性がやって来ているのが分かった。ジャージを着て、運動靴を履いているので、きっとウォーキングだろう。

 男はこの時間帯に出会うとは思わなかったらしく、目を見開いた。通りすがってから、なんとなく振り返ると、男もこちらを振り返った。数秒間、険悪な睨み合いが続いた。ふと、見てみると、男の右腕に刺青を見つけた。失うものはなにもないので怖がっているわけではないが、面倒事に巻き込まれるのは御免だった。視線を外すと速やかに立ち去った。

 目的のコンビニに入ると、ほっとするほど室内は暖かかった。砂川は弁当や好きな炭酸飲料を籠に入れると、列に並ぼうとした。

 レジには、けばけばしい金髪の男と、スウェットを着た茶髪の女が、腕を組んでいた。二人はこちらを振り返ると、大声で笑った。

 女が言った。「見て、あいつ。変装してるみたい」

 男が笑った。「ホンマや。あかんやろ、こいつ」

 二人はレジを済ませると、小馬鹿にした顔で、コンビニから去って行った。

 変装してるみたい……。

 その言葉が、何度も脳裏で反響した。

「お客様? レジどうぞ」店員が言った。

「あ、はい」

 会計を済ませてから、すぐにトイレへと向かった。水面台の鏡前に立ち、自分の姿を目視する。

 そこに立っているのは、世間がイメージしやすい、不審者像そのままの男だった。あのヤンキー女が言うことも一理ある。今度からは変装を工夫しようと決めた。

 少し考えてから、良い変装方法を思いついた。ATMから金を引き出す時、この格好で行こうと思っていたが、銀行職員に怪しまれる可能性が高いだろう。

 ドンキホーテのようなディスカウントストアに行き、変装道具を探してもいいかもしれない。

 中年男性風に、髪を半白に染めようと思い、店内で髪染めを探した。しかし、黒染めしか見つからなかった。




 二十四時間営業のドラッグストアの店内へ入った。レジに立つ店員が「いらっしゃいませ」と蚊の鳴くような声で言った。半白の髪染めや、その他必要なものを見つけると購入した。今回はレジに並ぶにつれて、なんらトラブルはなかった。そのあと、ディスカウントストアに向かい、つけ髭とプラスティック製の反っ歯を購入した。

 ホテルに帰り、受付から鍵を受け取って、自分の部屋にへと戻る。このビジネスホテルはチェックアウトの時間が午前十時なので、その間に髪染めを済ませておかなければならなかった。目まぐるしくやらなければならないことが増えていき、頭が混乱してくる。しかし、やらねばならない。ここで足を着くわけにはいかなかった。

 髪染めの方法を失念していたので、持参したノートパソコンで検索した。流れを頭の中にインプットすると、作業を始める。失敗は許されなかった。もしも失敗すれば、先程のような連中に、指をさされて笑われることになるだろう。

 バックパックの中から、汚れてもいい服を探した。数年前に買った、少し古くさいニット。これを使うことにしよう。

 ニットを着て、風呂場に必要なものを運んだ。ビニール手袋をつけて、手首を輪ゴムで止める。髪の生え際や眉毛など、ヘアカラー材がつかないように、リップクリームを塗り込んでいく。

 説明書に書かれている通りに染材を作り、えりあし、後頭部、側頭部、前髪、頭頂部の順で塗っていった。作業している途中、これで間違っていないのかが不安になった。しかし、風呂場から出て確認することは出来ない。染材が床に落ちてしまうからだ。

 購入した櫛を使い、髪全体に染材を馴染ませていく。そのあと、両手を使って頭全体を揉んだ。これで、髪の根元まで行き渡っただろう。

 次は髪全体をラップで覆い、その上に、さらにタオルで覆った。十分ほど経過すると、それらを外して、鏡を見ながら染まり具合をチェックした。問題がないことが分かると、もう一度、ラップやタオルを巻きつける。

 説明書に記載されていた時間が経過したので、ラップを外して染め具合を再チェックした。微妙に黒い部分が残っているような気がしたが、チェックアウト時間が午前十時なので、これで妥協することにする。

 乳化処理を終えると、染材を洗い流してから、シャンプーとトリートメントをした。作業の途中で、やり方を失念することトラブルもあったが、時間をかければ、なんとか思い出すことが出来た。

 最後に、髪を乾かせば終わりだった。

 鏡で見る限り、なんら問題ないように思えた。携帯電話のカメラを使い、側頭部や後頭部の写真を見ても、きちんと染めることが出来ていた。やはり、やれば出来るのだ。

 腕から外して、机に置いていた腕時計で時間を確認する。午前九時四十分。そろそろチェックアウト時間がやって来る。

 髪染めに使ったものを、コンビニのレジ袋に詰めて、しっかりと口を縛ってからバックパックに入れた。染めた髪を受付に見られないよう、ディスカウントストアで購入したニット帽を被る。眼鏡は外し、マスクはつけておいた。外に出たら、ニット帽とマスクは外すことにする。

 部屋から出て、エレベータに向かって歩く。あることに気付き、あっと声を上げた。すぐに部屋に戻り、冷蔵庫の中から久保木の指を取り出す。

 危なかった。これを忘れていたら、警察がやって来ていた。

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