第21話 世の中、金と知恵
ホテルを出て少し歩いたところに、タクシーを見つけた。運転手は砂川の姿を目視すると、自動で後部座席の扉を開けた。中に乗り込む。運転手はスキンヘッドで、でっぷりと肥えており、腹が妊婦のように突き出していた。着ているスーツはぱっつんぱっつんだ。
「どこまで?」
「近くのみずほ銀行」
「はいよ」
タクシーはエンジン音をふかして発進した。交通の流れに乗り、目的の銀行に着いたのは午前十時十五分だった。
銀行に着く間、運転手はバックミラーをチラチラと見ながら、こちらの様子を窺っていた。
「なにか?」砂川は棘のある声で言った。
「いいや、なんでもありません」
なんでもないなら、チラチラこっちを見るんじゃないよ。携帯電話の画面を鏡の代わりにして、自分の容姿を見る。二重瞼に高い鼻。輪郭はシュッとしている。少しばかり張り出していたエラは切除され、猿のように突き出していた唇は整形によって、Eラインを保っていた。
運転手が、まだこちらの顔を見ているような気がした。整形してから、人の目が気になって仕方がない。これでは挙動不審に思われる。意識的に治していくしかないだろう。
目的の銀行に着くと、金を支払って外に出た。
そこから五百メートルばかり歩いたところに、図書館に隣接した公園があることを事前に調べていた。
平日ということもあり、公園には小さな子供を連れた父親らしき男と、ベンチに腰かけて本を読んでいる老人しかいなかった。
公園の公衆トイレに入ると、バックパックの中からつけ髭と反っ歯を取り出して、身に着けた。髪を半白に染めたため、つけ髭をつけていてもなんら不自然ではない。髭によって口元は隠されているが、反っ歯をつけていると奇妙なリアル感があった。
トイレを出ると、偶然、小さな男の子がこちらにやって来ていた。砂川の顔をちらりと見たが、特に怪しんだ様子はなかった。そのまま床置小便器の前に立ち、ズボンとパンツを下ろして小便を始めた。父親と思われる男は、公衆トイレの出入り口で男の子を待っていた。
図書館の中に入った。大きなバックパックを背負っているのは不自然であるので、有料ロッカーの中に入れておいた。ロッカーの鍵はなくさないよう、ジーンズの右ポケットにしっかりと入れておく。
ポケットの中の感触を確かめながら、財布を手に図書館の外に出る。ジャケットのポケットの中には、ビニール袋に包まれた久保木の指が入っている。
なんら問題なく、銀行の中に入った。運が悪いことに、ATM前には、数人の列が出来ていた。
列のうち何人かが砂川を振り返った。心臓の鼓動が早くなる。
大丈夫だ。気にするな。人の視線を気にしすぎるな。挙動不審になるんじゃない。
視線を彷徨わせているのも不自然なので、ポケットから携帯電話を取りだして、メールを打っている振りをした。彼らにとって、今の自分は、どこにでもいる中年男性に過ぎないのだ、と言い聞かせる。
ATMが自分の番になった。後ろには老婆が一人立っている。
このATMはICキャッシュカードの生体反応機能があり、センサーに指を翳す必要がある。ジャケットのポケットから、指の入ったビニール袋を取り出すのを見られては、そこで全てが終わってしまう。
まずは、ICカードを挿入する。問題は次だ。
ポケットに手を突っ込んで、久保木の指を右手で握った。老婆に見えないようにして、ビニール袋を取り出す。すばやく指をセンサーに翳したあと、もう一度ポケットに突っ込んだ。老婆はフロントのテレビを見ていた。手早く済ませなければ。
問題なく本人確認が終わり、四桁の暗証番号入力画面が表れる。久保木の携帯電話に保存されていた、みずほ銀行の暗証番号を入力する。
取引金額は、一日の限度額である百万円にした。これで確定する。
ATMは大きな音を立てて震えて、三十秒ほど経過したあとに、百枚の一万円札を吐き出した。老婆に見られないよう、すばやく財布に突っ込むと、銀行の玄関へ急いだ。
ふと、フロントに目をやると、受付の女性がこちらを見ていることが分かった。視線を無視して、銀行の外に出る。
少し歩いてから、銀行のほうを振り返った。
銀行職員が追ってくる様子はない。大丈夫だ。
図書館に舞い戻ると、ロッカーに鍵を差し込んで解錠した。バックパックを取り出して、財布を丁重に仕舞った。バックパックを背負う。
そのまま、近くの駅に向かうことを決めた。
本当はタクシーを使いたかったが、出来るだけ貴重な金は温存しておきたかった。
この百万円は、最愛の人に届けることにする。
駅の中に入るとすぐに切符の券売機に向かった。そこには人だかりが出来ており、外国人が多く見受けられた。やかましい中国語やら韓国語、英語などが飛び交っている。
中国語を喋っていた三人の女が、こちらを指差してなにかを言っている。口元はにやけていて、あまり良い印象を抱けない。
相手にするな。
一旦立ち止まり、バックパックの中からマスクを取り出して着用した。マスクくらいつけていても、不審者扱いされる心配はない。今は花粉症の時期である。
券売機で切符を購入すると改札を抜けた。切符売り場に座っている駅員が、改札を抜けていく人々をつぶさに観察していた。タダ乗りされたくないからだろう。
駅のホームで列に並び、電車がやって来るのを待った。銀行の時と同じように携帯電話を使って、メールを読んだり、文字を打っている振りをする。
数分後、けたたましい走行音と共に電車がやって来た。電車の中に入り、まずどこに行こうかと迷った。席は空いている。しかし、前の席にいる人々に顔を見られることになる。丁度空いている席はくたびれたサラリーマンの隣。前には若い女が数人。出来れば、若い女には関わりたくなかった。
こんなにビクビクしていてどうする? 俺は警察から逃げることになるのだ。こんなことでは駄目だ。
砂川は空いている席に座り、また携帯を操作している振りを始めた。飽きてくると、窓の外を見たりして、時間を潰した。目的の駅に着いたら、なにか文庫本を購入しようと思った。
次の駅に着くと、若い女たちは黄色い声で喋りながら、電車から出て行った。ほっと一息つく。
目的の駅に到着したのは、乗り継ぎも含めて一時間半以上経ってからだった。
電車から降りると購買で、文庫本を数冊購入した。深い意図はなく、特に選別もしなかった。
荒浜が経営している旅館「あらはま」まで、五キロメートルも離れていた。腕時計で現在時刻を確認すると、午後一時を回ったところ。小腹が空いているが、どこかの店に立ち寄るのは避けたかった。前のファミレスと同じことになりかねない。
彼女に会いたいと強く思っていた。彼女なら、整形した自分を受け入れてくれる気がした。
バックパックを背負い直すと、徒歩で歩き始めた。タクシーは節約のために敢えて使わない。
途中、コンビニでサンドイッチと缶コーヒーを購入して、食べながら歩いた。歩いていると体が熱くなってきて、背中が汗ばんでくる。脇もやんわりと湿っていた。
旅館に着いた時は、午後二時を過ぎていた。
マスクを取り、ありのままの姿で旅館の中に入る。予想通り、荒浜がやって来た。
彼女なら……最愛の彼女なら、自分だと分かるはずだ。そう確信していた。
「いらっしゃいませ。一名様ですか?」
荒浜は天真爛漫に、なんら罪悪感もなくそう言った。
砂川の中で、なにかが壊れたように思えた。この女の首を絞めて、殺してやりたくなった。
なぜ、俺だと分からないんだ。なぜ、なぜ、なぜ――。
彼女は表情を強張らせた。
「あのー……、お客様?」
「……」
砂川は自動ドアを抜けて、旅館から出た。
結局のところ、彼女は俺が俺であると分からなかった。つまりは、そういうことなのだ。あの女は、その程度の女なのだ。
ジャケットのポケットに入れていた、封筒に入れた百万円。こんなもの、もう必要はない。金なら貯金していたものがある。
大きな川を跨ぐ橋を通りかかった。ポケットから封筒を取り出して、札束を引き抜くと、川に放り投げた。
札束はバラバラになり、風に飛ばされて水の中に落ちていってしまった。
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