第22話 折り返し電話

 自宅に戻ると偶然にも、隣家から津村佳苗が現れたのが分かった。いや、偶然なんかじゃない。あの老婆は俺が来るのを見つけて、外に出て来たのだ。砂川はすばやくマスクをつけた。

 老婆は馴れ馴れしく話しかけてきた。

「なんだい、あんた、最近どこに行ってたんだい?」

「なにか問題でも?」ぶっきらぼうに答える。

「問題もなにもないさ。あんたの家から道路を挟んで、向かいの奥さんが亡くなったんだよ」

「はあ。そうですか」

「明日の午後六時にお通夜をするから、あんたも参加しな」

「なぜ、俺が?」

「あんたも福谷さんのとこには、こっちに引っ越してきた時に世話になったんだろ? 参加しな」

 砂川は溜息を吐いたあと、老婆を無視して家の敷地へと入った。

「待ちな!」老婆のうるさい声。「あんたの犬、どこにやったんだい? もしや、保健所に送っちまったんじゃないだろうね?」

 小うるさいババアだ。目にもの見せてやるか。

 津村に近づくと、胸倉を掴み上げた。頭は一つ分、こちらのほうが高い。

「なっ、なにするんだい?」

「うるせえんだよ、クソババア。黙ってろ」

「なんだ、その口の利き方は? 誰に言っていると思って――」

 ぐっと顔を近づけて、怒鳴り声を上げた。「黙れって言ってるだろ!」

 突然の逆襲に、津村は呆然としていた。胸倉から手を離すと、自宅の中に入った。荒浜へのイライラをあの老婆にぶつけることが出来たので、少し胸がスカッとした気分になった。

 自宅へとわざわざ戻ってきたのは理由があった。リビングのテーブルに置いていたクロスボウを取りに来たのだ。クロスボウを背負って出歩く馬鹿もいないだろう。

 久保木の殺害がニュースになっていないかどうかが不安になり、テレビの電源をつけた。リモコンを操作していくと、画面に見慣れた風景が映し出された。

 容姿の整った女性アナウンサーは、神妙な顔でニュースを読み上げていた。

「美容院を経営している久保木英彦さんが、行方不明になっている事件で、警察は捜索を開始しました」

 次に、画面右側のテロップに、「近隣住民の声は――」と白い文字で表示された。

 画面に首から下が映し出された。胸が張っていることから女性だと思われた。制服を着ているので学生だろう。

 学生はマイクを向けられて答えた。

「よくその美容院で髪を切ってもらっていました。こんなことが起きるなんて、信じられないです」

 リポーターは尋ねる。

「失踪するような動機はない? なにか思い悩んでいたりとかは?」

 学生は首を振った。

「ありません。すごく明るい人で、わたしにも積極的に話しかけてくれる良い人でした」

 砂川はテレビを前に、鼻で笑った。

 あの屑が良い人だと? 馬鹿じゃねえのか。

 どうして、女共は、顔が良い男は善人だと思い込むのだろうか?

「早く見つかって欲しいです」涙声で、学生。「ほんとうに良い人で――」

 砂川は思わず噴き出した。そして、言った。

「俺が! 俺が殺したんだよ! あの屑野郎を! この手でな!」高笑いをして、砂川。「なにが良い人だ? あの屑野郎は麻友に種を植えつけ、挙げ句の果てには托卵しようとしたんだ! 顔だけで人を判断するんじゃねえ! 腐れ阿婆擦れが!」

 いずれ、警察の捜索は、この周辺をくまなく調べ終えるだろう。やがては、麻友の死体と共に見つかり、俺は指名手配犯となる。

 逃げるなら、今だ。



 クロスボウを解体したあと、なにに仕舞おうかと迷った。台座のサイズが大きく、バックパックの容量を圧迫してしまう。

 家の中を彷徨いて、適当なものを探した。玄関口に、仕事の付き合いで使っていたクラブケースがあることが分かった。台座を持ってきて、中に入れてみると丁度良いサイズ感だった。これなら問題ないだろう。

 他の部品と一緒にクラブケースの中に入れると、バックパックと一緒にソファの上に置いた。

 久保木の捜索はすでに始まっている。すぐに逃げたほうがいいだろう。

 車に乗って逃げようかと逡巡した。しかし、一つ問題があった。

 高速道路や一般道路には、Nシステムといわれる装置が取り付けられている。正式名称は「自動車ナンバー読み取り装置」という。主に犯罪捜査のために使われており、運転者の顔とナンバーを撮影し、盗難車両や指名手配犯の場合は、すぐに付近の警察署や交番、パトカーに通報される仕組みになっている。

 子供の頃、地元に指名手配犯がいる、という噂が流れたことがあった。

 犯人は、近くの幹線道路にあるパーキングエリアで逮捕された。犯人がNシステムの網に引っかかるとすぐに警察に通報があり、僅か数秒という短時間で出動したのだという。設置自体がされたのは、一九八七年頃と聞かされていた。当時よりは精度も映像の鮮明さも向上していることだろう。

 県外に出るまで車を使うのはどうか、と思った。しかし、Nシステムに保存された映像をもとに、行動している場所を逆探知された場合、すぐに逮捕されてしまう。警察がそこまでするかは分からないが……。案外、自転車で逃げたほうが捕まりにくいのかもしれない。

 しかし、自転車の交通規制が強くなっている今、交通ルールを破れば、警察に捕まる可能性もある。どちらにせよ、車で逃げる方法は考えられなかった。車を使うなら、自分の車であってはいけない。

 誰か、協力者を募れればいいのだが……。

 思い浮かんだのは、子供の頃に、一緒に遊んでいた小谷修平という男だった。あいつなら、匿ってくれるかもしれない。高校時代の悪友で、万引きやホームレスに対する暴行行為など、悪行の限りを尽くしていた。電柱にワイヤーを巻いて、加藤邦夫を病院送りにしたエピソードを話してやると、すごく嬉しそうに笑っていたのを覚えている。

 携帯のアドレスに、実家の電話番号があった。電話番号に連絡を入れると、少し経ってから、年のいった女性が電話に出た。恐らく、母親だろう。偽名を使い、小谷に用があると伝える。

 小谷は近くのアパートで一人暮らししているという。すぐに連絡を寄越すように言う、と母親は言ってくれた。

 電話を切ると、ふう、と一息つき、天井を見上げた。

 今日はまだ、逃げなくてもいいかもしれない。捜索が始まってすぐに、あの入り組んだ場所にある麻友と久保木の死体を見つけるとは、考え難かった。

 しかし、明日には必ず出発する。警察犬の嗅覚を舐めてはいけない。そうやって油断して、指名手配犯は捕まっていくのだから。

 小谷から折り返して電話が入るまでが暇だった。暇潰しが出来そうなものを探す。

 壁掛けテレビの下に、DVD・CDケースを見つけた。通販で何本もDVDを購入しながら、まだ見ていないものがいくつかあった。

 映画でも見ながら、ゆっくりと折り返し電話が来るのを待とう、と思った。焦っても仕方がないのだから。

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