第2話 嘲弄

 寝室から飛び出すと、凄まじい勢いで階段を下った。リビングを抜けて、キッチンに入る。カウンター上の包丁差しから、包丁を抜き取ると二階に駆け上がった。ここまでは、まだ、明確な殺意はなかった。

 麻友は包丁を見ると、狼狽えた表情になった。悲鳴を上げるかと思った。しかし、彼女が作った表情は、小馬鹿にした笑みだった。

「へぇ。そんなものを使わないと、女一人組み伏せられないんだね」

「なんだと?」

「安成先生に、あとでメールしておくわよ。あんたが包丁を持って、脅してきたってね」

「てめえ、俺を舐めてるのか? 殺せないとでも思っているのかよ?」

 喉の奥から出てきた言葉は、思いがけないほどに弱々しかった。

 麻友は、嘲弄した。

「あんたって、本当に貧弱よね。久保木さんは逞しくて、マッチョで、あんたみたいなもやしより、よっぽど男らしいんだけどね」

 砂川はなにも言わなかった。髪の毛が怒りのあまりに、逆立っていくのを感じる。

「あの太い腕に抱かれていると、心の底から安心するのよ。あの人に抱かれてから、わたしは本当の女になったのよ」

 この女、殺す。殺意が頭をもたげた。

「あんたと子供が出来ないのも、あんたが男として劣っているからなのよ。ちなみにわたし、妊娠しているから。あんたと離婚したら、久保木さんと結婚するんだからね」

 麻友の子宮には、悪魔のような赤ん坊がとぐろを巻いているように思えた。久保木は彼女をそそのかして、種を植えつけたのだ。

「もともとは托卵する計画だったんだけどね。あんたが雇った探偵に、ラブホテルから出て来るところを見られちゃったから。あれは完全にあたしの失敗だったわ」

「……俺が」

「は?」

「俺が男として、あの屑より劣っているだと? お前が専業主婦をやっていられたのも、全部、俺のお陰なんだぞ」

 麻友は、再び嘲弄した。鳥のようなけたたましい笑い声だった。

「関係ないわよ、そんなの」言葉を切って、麻友。「ねぇ、分かってた?」

「なにがだ?」砂川は包丁を強く握り締めた。「どうした、言ってみろ」

「わたしがあんたと結婚した理由よ。言っとくけどね、わたし、地元ではかなりモテたのよ。それなのに、あんたみたいなチビとお見合いした理由よ」

「俺がチビだと……?」

 殺意が明確なものに変わりつつあった。刑務所にぶち込まれようが構わない。しかし、何年間も養ってきた身として、率直な意見を聞いておきたかった。

 砂川は冷静を装って言った。

「金のためだろう」

「その通り!」

 麻友は黄色い声で笑った。

 妻に存在を否定され、裏切られた男は、すでに動いていた。彼女ははっきりとした殺意を感じたらしく、カーテンのかかっていない窓際からベッドの上に登り、砂川を迂回して、部屋の外に逃げようとした。歩幅の関係もあり、すぐに女に追いついた。

「あっち行けよ!」麻友が叫んだ。「誰か、誰か助けて!」

 彼女を突き飛ばすと、包丁を突き立てた。臍の下――丁度、子宮がある位置だった。

 やかましい悲鳴が鼓膜を震わせた。麻友の口元を手で塞いだあと、何回も首、胸、腹を刺した。刃が体の中から出し入れされる度に、血の噴水が飛び出してくる音がした。気がついた時には、ベッドの上に血の海が広がっていた。

 全部、全部、全部、この女が悪いんだ。この女が悪いんだ――。

 手から包丁を取り落とした。今後のことを考えても、彼女の死体を解体し、山に埋めに行くという案は現実的とは思えない。妻が行方不明になった場合、警察の矛先が向くのは間違いなく夫である。まして、妻の不倫により、離婚協議中ともあれば。

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