第3話 涙

 気持ちを落ち着けてから、なにをするべきかを考えた。まずは寝室から出て、ベランダの窓側に干してあるタオルを手に取り、血のついた包丁を包んだ。こうすることで、血が床に落ちなくなる。

 ふと、振り返ってみると、自分が歩いたところに、点々と血の痕が落ちていることが分かった。まずい、と思い、血のついた上着と長ズボンを脱ぎ捨てた。

 一階に下りると、リビングの扉を足で押し開けて、中に入った。水道台で綺麗に包丁を洗う。手や指にまとわりついていた血は、水を薄い赤色に染めていく。

 手を綺麗に洗ってぬめりを洗い落としたあとは、蛇口を捻って温かい水を出した。最初、熱すぎる水が出て来たので、蛇口を少し左に回して、温度を下げた。丁度良い温度になると、手や包丁をもう一度洗った。

 問題は、麻友の死体をどのように処理するか、ということだった。

 解体して、山に捨てに行けばいいのではないか? 穴を掘っている時なら、人に見つかっても逃げることが出来る。

 いや、待て。そんな単純な行動で、警察の目を誤魔化せるわけがない。警察が最初に疑うのは夫だ。目の据わった刑事たちは、自分を犯人だと決めつけて、尋問を行うだろう。奴らは聞き取りのプロだ。あの手この手で、こちらの矛盾点を突き、形勢を崩してくるはずだ。

 分かりきっていることだ。逃げるしかない。

 まずは、あの女の死体をどうにかしよう。放置しておけば、腐臭を嗅ぎつけた蠅や虫などが寄ってきて、近所で騒ぎになる可能性がある。少し考えてから、死体を隠しておく場所を思いついた。

 リビングの開け放たれた扉の先には、深い闇が続いていた。二階の寝室には、自らが殺した妻の死体がある。

 突如として、悲しみの感情が湧き上がってきた。膝を着き、激しい嗚咽を漏らす。

 なあ、麻友。俺がお前になにをしたって言うんだよ? 俺は毎日、お前のために働き、少ない小遣いでやりくりしてきたじゃないか。お前を養ってきたのは、一体、誰だと思っているんだよ?

 あの女は、俺をチビと嘲笑い、久保木よりも劣っていると決めつけた。どちらにせよ、殺すしかなかった。あの時殺していなければ、麻友に嗤われた悔しさを、死ぬまで噛み締めていかなければならないからだ。やるしかなかったんだ。

 しかし、その代償はあまりにも大きすぎる――。

 砂川は闇の中に一歩を踏み出した。

 その瞬間、ゾクリと悪寒が走った。なにかひんやりとしたものが、背中を這いずるような感触があった。幽霊だろうか。

 恐る恐る、背後を振り返る。

 そこにはいつも通りのリビングとキッチンが広がっているだけだった。去年買った壁掛けテレビ。炬燵。砂川が買った小説が詰まった本棚。下の段にいくにつれて、麻友の雑誌や漫画の類が増え始める。背の低い棚の上には、二人の写真が並べられている。

 麻友と不倫した久保木の姿が浮かんだ。

 俺が仕事に出かけている間、二人はこのリビングで逢瀬を重ねていたに違いない。俺と麻友の写真を見て、ほくそ笑んでいたに違いない。あのチャラチャラとしたロン毛野郎、必ず殺してやるからな。

 久保木への殺意を噛み締めながら、二階へと上った。奴への怒りに駆られている間は、殺人を犯した後悔と恐怖を忘れることが出来た。感情が鈍麻しているようだ。

 寝室へ続く廊下に立った瞬間、太股がぶるぶると痙攣した。心臓が破裂せんばかりに脈打っている。

 あの部屋には、麻友の死体がある。べっとりとベッドやカーペットに張りついた血の海が広がっているのだ。それを目視する覚悟が、俺にあるのだろうか?

 ゆっくりと歩を進める。鼓動が耳の裏で聞こえる。

 やるんだ。やるしかないんだ。自分でやったことは、自分でけりをつけなければ。

 寝室に入ると、やはり、ぐったりとした死体が、ダブルベッドの上に転がっていた。

 砂川は、深い溜息を吐いた。逃げたとしても、いずれは捕まる。

 「自殺」の二文字が脳裏で明滅した。確か、倉庫の中にロープがあったはずだ。それで首を吊れば、全てが終わる。

 人生を諦めかけた時、麻友の嘲弄が木霊した。あの女と久保木は、俺に托卵する計画を立てていた。俺――砂川耕司という存在を軽んじて、侮蔑していた証拠だ。

「分からないとでも思ったのか? え? 糞尼が」

 肩をいからせながらベッドの上に登り、麻友の顔を思い切り蹴りつけた。黄色がかった歯が折れて、カーペットの上にころりと転がった。

「分からないとでも思ったのか? え? バレないとでも思ったのか?」

 もう一度、麻友の顔を蹴りつけると、鼻の骨が折れる感触があった。鼻梁は左にねじ曲がり、鼻孔の奥から鼻血がたらりと垂れてきた。

 砂川は、さらに大きな声で叫んだ。「分からないとでも思ったのか?」

 膝を着くと、右手の中指を突き立てて、麻友の右眼に突き刺した。ぐちゅり、と気味の悪い音がした。ずぶずぶと眼窩の奥に沈んでいく。

 指を引き抜くと、白みがかったべとべととした物体と、少量の血液がこびりついていた。汚れをシーツで拭い取る。

 原型を留めていない妻の顔。これでは、猟奇殺人鬼のようではないか。

 砂川は首を振った。

 俺は、異常者じゃないんだ。全部、この女が悪いんだ。そうだろ? だって、この女は、俺に托卵しようとしたんだから。

 部屋を出た。階段を下り、キッチンを抜けて風呂場に入る。熱いシャワーを浴びたかった。服を脱ぎ捨てて、洗濯籠に放り込む。

 風呂場の扉をしっかりと閉めると、水漏れしないかどうか、扉を何回か押して確認する。水栓を回して、温度調節をしてから、シャワーフックにかけて、頭からシャワーを浴びた。

 よく考えてみれば、俺は仕事から家に帰ってきたばかりだった。明日も仕事があるが、外出する気は毛頭もなかった。

 熱い水が頭部から爪先にかけて流れていく。

 筋肉の緊張が解れたためか、今まで意識してもいなかった「死」のイメージが明確なものとなって、砂川のもとへ現れた。「死」とは即ち、物理的な苦痛の先にあるものを意味している。その先には一体、なにが待っているのだろうか?

 シャンプーで頭を洗い、体の汚れをボディソープで洗い落とし、水で泡を流す。

 びしょびしょの体のまま、風呂場の外に出て、階段を上がった。

 ベランダの窓際にある物干しスタンドから、干していたバスタオルを手にして、顔を埋めた。柔らかい感触。

 体中の水気を拭き取ると、一階に下り、もう一度、風呂場に入る。ドライヤーで髪を乾かしながら、今後の予定について思考する。

 明日は仕事には行かず、近くの旅館に行こう。そこで美味いものを食べて、ビールを飲んで、温泉に入って、一泊したあと、家に戻るのだ。

 そして、久保木の野郎が働いている美容院に押し入り、なんらかの方法で奴を殺害する。そのあとは電車にでも飛び込んで、自殺すればいいだろう。

 なぜだか、目尻から涙が溢れてきた。

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