第29話 日本社会の縮図

 本免許試験が終わると、合格者の発表まで、しばらくの時間があった。受験者たちはひどく手持ち無沙汰にしている。その多くが高校生や大学生であり、なにもかも気に入らないといった表情で携帯をいじっている。

 人混みの中で、視線を感じた。高校時代、図書室にいる時にいつも感じていた、纏わり付くような視線。その方向を見やると、想像通り、あの女がいた。

 阿部茜。醜い容姿のため、ありとあらゆる人々に馬鹿にされ、笑われてきた女。街で擦れ違った人々にさえ、嘲笑される有様だ。

 しかし、あの女は俺の命を握っている。行方不明になった久保木の捜索が行われている今、いずれは二人の死体が見つかる。そうなった時、俺は全国に指名手配されるだろう。奴がどんな行動を起こすかは目に見えている。

 それから少し経ってから、試験場の職員がやって来て、電光掲示板前に集まるように言った。自分の番号が表示された。安全運転の講習とビデオを見て、そのあとに自分の顔写真が添付された免許証を渡された。

 免許証を手にした時、砂川は密かな達成感と優越感に震えていた。

 難易度の高い一発試験であるので、試験に落ちてしまった者も数多い。その中で、他の受験者以上のプレッシャーと緊張感に晒されながら、試験にクリアし、この免許証を手にしたのだ。

「随分と嬉しそうじゃない」

 ねちねちと湿ったような声。阿部だ。

「なんか用か?」

「別にい。やけに嬉しそうだなあと思ってえ」

 阿部の顔には、確実なイニシアティブを握っているという優越感が透けて見えていた。

「わたしがさ、砂川くんが整形したこと、他の人たちに教えたらどうなると思う? ねえ」

 この女、俺を脅すつもりか。「どうなるんだ?」

「あんたが整形したって、周りの連中にバレるんだよ。そうなったらあんた、その日から白い目で見られ始めるよ。ヒヒッ、わたしみたいにね」

 警察に追われる身になる前に、この女はいずれ殺しておかねばならない。逃げている場所をリークされては、失踪に支障が出る。ここは、こいつの掌で踊ってみてもいいかもしれない。

「どうすれば、誰かに言わないでいてくれるんだ?」

「ヒヒッ」阿部は、我が意を得たり、という表情になった。「金を寄越しな。とりあえず、五十万円。それで一旦は許してあげるよ」

「なるほど。でも、俺は今、金がない」

「なら、他の奴にバラす」

「分かった。明日まで待ってくれ。明日の午後七時。前に出会ったブティックで待ち合わせるのはどうだ」

「ヒヒッ。いいよ。あんた、高校時代にあたしをいじめてたのに、今度はあたしがあんたをいじめてるんだからね。人生って面白いね。骨の髄までしゃぶり尽くしてやるからな」

「……」

 砂川は、必死で笑いを堪えなければならなかった。こいつ、どこまでも馬鹿だな。

「それじゃあ、砂川くん、お先にい」

 阿部はニタニタと気味の悪い笑みを浮かべながら、猫背の姿勢で試験場の外に出て行った。

 家に戻ると、砂川と小谷は夕食を食べながらニュース番組を見た。近場のコンビニで購入したメンチカツ弁当だった。もさもさとした肉の食感で、ほとんど油の味しかしない。

 明日の午後七時に、あのブティックの前で、阿部と接触する予定になっている。しかし、それからどのようにするかは、詳しくは決めていなかった。

「今日、本免許試験の会場で、阿部に会ったんだ」

「へえ」と、小谷はぶっきらぼうに応えた。「なにかあったのか?」

「脅された」

「脅し? あのひ弱な女が?」

「ああ。完全に主導権を握っている表情だった。もしも、明日までに五十万円用意しなければ、俺が整形していることを、周囲の人間にバラすらしい」

 小谷は鼻で笑った。

「阿部の奴、随分と態度がデカくなったものだな。俺だったら、すぐにぶん殴ってるわ」

「どうすればいいと思う?」

「言ったろ? あの女を殺すんだ。それしかねえ」

「……」

「他の連中に、お前がこの街にいることをバレたくねえんだろ? だったら、それしか方法は残されていないじゃねえか」

「それもそうだな。殺して、どこかの山に埋めれば、それで終わりってわけだ」

「分かってるじゃねえか」

 そう言って、小谷はなんでもない表情で、弁当箱からメンチカツを摘まみ、口の中に放った。

 また、そうやって自分の事情で人を殺し、罪を重ねる……。しかし、それしか生き抜く方法はない以上、やるしかない。阿部を殺して、山に埋めに行く。ただ、それだけ。それだけなんだ。

 午前零時を回った頃に、小谷が声を上げた。

「それじゃあ、そろそろ出かけるか」

「え? どこに?」

「決まってるだろ。山に穴を掘りに行くのさ。阿部を殺してから芋蔓式に、犯行を進めていったんじゃ、予想外のことが起きた場合、対応出来なくなっちまうからな」

 寝ようと思っていたので瞼が重かったが、彼に従うことにした。自分のことであるのに、小谷に任せてばかりというわけにもいかない。ダウンジャケットを羽織ると、彼に続いて玄関で靴を履いた。

 小谷は辺りを窺いながら、ゆっくりと扉を開けた。

「……よし。玉城のばあさんはいなそうだな」

「こんな時間にいるのか?」

「ああ。控え室で休んでいることがあるんだ。見つかったらトラブルになりかねない」

 足音を殺して、鉄製の階段を降りる。カン、カンと寂れた音が鳴った。

 ぐるりと建物を回り込み、小谷の自家用車――ランドクルーザーに乗り込む。この車の中で、行方不明になっている女子高生は殺された。そう考えると、薄ら寒くなる感覚があった。

「どうした?」小谷が異変を感じたらしく、尋ねてきた。

 砂川はなんでもない、という風に首を振った。

「ここで、あの女子高生は殺されたんだなって思ってな」

「ああ」小谷はどうでもいいといった感じだった。「お前、もしかして、幽霊とか信じている口か?」

「いんや、信じちゃいないが」

「幽霊はな、幽霊を信じている人の前にしか現れねえんだよ。その程度のもんさ。もし、幽霊が実在するなら、俺はとっくの昔に呪い殺されてる」

 砂川は笑った。「それは違いないな」

「そこは否定しろよ」と、小谷が突っ込んだ。

 ランドクルーザーが発進した。



 翌日の午後七時。

 小谷が運転する車は、目的のブティック前をゆっくりと通り過ぎた。すでに閉店している店の前には、野暮ったいだぶだぶのジャケットを羽織った女が一人立っていた。小洒落た服を着たカップルがその女を見て、けたたましい笑い声を上げた。

「見てみろよ、あの服」

「ダッサ」

 高校時代は言われっ放しだったが、歳を重ねるにつれて、妙な方向性の度胸はついたらしい。阿部はカップルに突っかかると、大声で喚き始めた。

 一度Uターンして、ブティックが見える位置――道路の端で車を停車した。カップルとのいざこざはまだ続いており、カップルの男は、今にも阿部を殴りそうな形相をしている。

「あいつ、高校時代は単なるサンドバックだったのに、言い返せるようになったんだな」小谷が感慨深そうに言った。

「ああ。きっと、引き籠もっている間に、いじめっ子たちに対する言い訳を、頭の中で捏ねくり回していたんだろうよ」

 男は思い切り阿部を突き飛ばすと、女と共に、小走りで逃げて行った。

「ふざけんじゃねえ! 待て、コラ!」阿部はチンピラ言葉で叫び声を上げている。通りかかった人々は、クスクスと笑いながらその様子を見ていた。動物園の檻の中で発狂する猿を見るかのような目つきで。

 日本社会の縮図を見ているようだった。意地の悪い者が弱者を虐げ、弱者は悪事を成すことが正しいと考え誤り、悪の道に染まっていく……。腐った性根の連中が群れを成し、街の中を、肩を切って歩いて行く。どいつもこいつも、死んだほうがいいように思えてきてならない。

 高校に入学したての頃、阿部は肌色が良く、目の下の濃い隈もなかった。もっと活き活きとしていて、友達を作ろうと積極的にクラスメイトたちに話しかけていたはずだ。

 しかし、女子生徒たちはあぶれ者には容赦がない。女同士のいじめは苛烈である。門脇真希子と樫原千賀が中心となって、徹底的に阿部をいじめ抜き、嫌がらせを続けた。

 いじめは阿部がクラスメイトである限り、永遠と続いた。次第に目の色は失われていき、肌色は悪くなり、脂ぎった髪はぼさぼさになっていった。吹き出物も多く見られるようになったと思う。

 その様子を見て、クラスメイトたちは安堵感と優越感を抱いていた。自分は、こいつとは違う、と。言わば、阿部は教室のエンターテインメント的存在であった。

 午後七時半を回ると、砂川がやって来ないとようやく気付いたようだった。肩を怒らせて、元来た方向に歩いて行く。

「行こう」と、小谷が言った。

 彼女が歩いて行く方向に、車を走らせていく。

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