第30話 警官

「夜道を一人で歩くのは危ないよ。例え、阿部みたいなブス女でもな」と、小谷がさも可笑しそうに言った。「ほうら、もうすぐ追いついちゃうよ」

 街灯の少ない夜道は、ほぼ真っ暗だった。唯一の光源と言えば、民家から漏れ出る明かりくらいのものだろうか。

 阿部はようやく、跡をつけてくる大型車に気付いたらしく、鋭い視線をこちらに向けてきた。

 彼女が走りだそうとしたので、スピードを上げて、横に並んだ。

 ドアを開けて、阿部を取り押さえた。男二人組で、身長一五〇センチ程度の女を組み伏せるのは、いとも容易かった。

「離せっ、離せよっ! 誰か、誰か!」

 叫び声を上げようとするので、口の中に丸めた雑巾を入れてやった。熟れた様子で、小谷が脅した。「声を上げるんじゃねえ! 殺すぞ!」

 車の中に押し込むと、ドアを閉めた。こつ、こつ、という足音が、ドアの前を通り過ぎて行った。どうやら、前方から通行人がやって来ていたようだった。少しでも手順が遅れれば、犯行が発覚していただろう。

 彼女は、口の中に猿轡をされたまま、渾身の力で手足を振り回し、小谷の拘束から脱出しようとする。小谷は必死で抑えながら、砂川に言った。

「砂川、やれ! 絞め殺せ!」

「わ、分かった」

 砂川が阿部を組み伏せて、小谷が紐で首を締め上げる予定だったのだが、スケジュール通りには進まないらしい。動悸が早鐘のように打っている。紐を持つ両手が震えている。

 大丈夫だ。俺なら出来る。そうやって、久保木も殺したんだ。俺なら出来るはずだ。

「――!」

 砂川の存在に気付いたらしく、なにやら叫び声を上げ始めた。猿轡のために、なんと言っているのかは聞こえない。彼女の首に太い紐を回すと、力を込めて締め上げ始めた。

 阿部は、苦痛に顔を歪ませて、紐を外そうと激しく頭を前後させた。その拍子に、猿轡が口の中から吐き出された。

「だ、誰か、助けて――」

 悲痛な叫び声。彼女は泡を吐いて事切れた。肛門括約筋が緩み、尿が音を立てて、肛門から流れ出してくる。

「うわっ、汚え!」小谷はそう言って、傍から飛び退いた。支えられていた死体はぐらりと揺れて、フットレストに崩れ落ちた。「おい、ふざけんなよ! マジで!」

 小谷は怒り狂っているようだ。

「どうした?」

「俺の車だよ! 阿部の尿まみれだ! 高かったんだぜ、この車!」

「ああ。そういうことか……」

「そういうことか、じゃねえぜ! 弁償しろよな! 俺ン車が……! そんな!」

 二人で揉めていると、フットレストに倒れている阿部の死体は、蒼白していき、やがて冷たくなり、死斑が現れ始めた。これで、面倒な輩を殺せたと思うと、砂川は幾分かほっとした。あとは、事前に掘っていた穴に阿部の死体を棄てて、また埋め直せばいいだけだ。



 二人はいざこざを起こすことを止め、現実を冷静に判断することにした。砂川はパワーウィンドウをスライドさせて、外に人がいないかを確かめた。街灯の少ない、暗がりの夜道。人がやって来ている様子はない。パトカーのサイレンも聞こえない。小便の臭いだけが、ツンと鼻を刺してくる。

「一旦、外に出て、トランクを開けてくる。そのあとに、死体をそこに運ぼう。それでいいな?」

 小谷は如何にも不承不承の様子で、頷いた。「しゃあねえな。ちゃっちゃっとしろよ」

 ドアを開けて、すぐに閉める。トランクを開けると、かなりのスペースがあるように見えた。小柄な彼女なら、中に入るだろう。

 運転座席をノックして、OKの合図を送る。もう一度、外の様子を窺う。冷たい風が吹く音しか聞こえない。人はやって来ていないようだ。

「大丈夫だ。今ならいけるぞ」

「分かった」

 小谷が車から出てきて、二人は死体を外に担ぎ出し、トランクの中に入れた。下半身は尿でびしょ濡れになっており、触るのはさすがに躊躇した。しっかりとスカート越しに足を持つと、膝と顎が接触するような格好にして、トランクの扉を閉めた。

 砂川は掌に手を近づけてから、顔を背けた。

「うへえ、ひどい臭いがしやがる」

 二人は運転座席と助手席に戻ると、目的の場所に向けて発車した。事前に穴は開けてあるので、死体を埋めるだけでいい。人を殺すより、何倍も楽な仕事だ。

 車は闇に包まれた退屈な道のりを走り抜けながら、エンジン音を喚き立てていた。さすがのSUVであるからして、馬力はなかなかだが、排気音が凄まじかった。

「そろそろ、目的の場所に着くな」砂川はなんとなく言った。

「ああ。小便女ともおさらばだぜ」

 砂川は笑った。「違いねえ」

 想定外のことが起こった。闇の中で煌々と輝くコンビニ傍の道路――そこにパトカーが二台ほど止まっており、警官が道路を塞いでいるのが見えた。

 砂川は目を剥いた。「どういうことだ?」

 小谷は乾燥して割れた唇を舐めた。「恐らく、女子高生が行方不明になった事件のあとから、犯人を捕まえるために、検問を設けたんだろう」

「ヤバイじゃねえか。一旦、コンビニの駐車場でUターンして、もとの道に戻ろう」

「それしかないな」

 駐車場に入ると、いやにコンビニから漏れ出てくる昭明の光が、眩しく感じた。さっきまで、街灯のない暗闇の中にいたからだろう。暗闇の中の殺人。死体はトランクの中。そして、警官がすぐ傍にいる。

「コンビニの中に入って、適当なものを買ってから、また車に戻ろう。それで誤魔化せるはずだ」と、小谷が言った。

 砂川は頷いた。それしかないだろう。

 二人は何気ない風を装って、コンビニの中に入った。振り返ると、検問にいる警官は退屈そうに路面を見つめていた。警官たちの手には赤いLED誘導棒がある。制服の上に、車のライトを反射するベストを着ており、その他にも拳銃ホルスターや無線機、警棒、手錠ケースなどを身につけているようだ。

 仮想敵にしていた相手が目の前にひょっこりと現れて、ひどく手持ち無沙汰にしているのを見ると、なんだか笑ってしまいそうになった。連中、かなり頭が鈍そうだし、大丈夫かもしれない。

 コンビニで商品を物色してから外に出ると、検問から警官の二人組がこちらに歩いてくるのが分かった。なにか用だろうか。

 警官が言った。「免許証と身分証を見せて」

 どきり、と心臓が跳ね上がりそうになる。砂川と小谷は顔を見合わせた。

「分かりました」

 苦労して試験を受けて手に入れた、小谷将と書かれた免許証。そこには将の顔写真ではなく、堂々と自分の顔写真が貼り付けてある。この警官たちは、砂川耕司という名を知らない。俺のことをなにも知りはしないのだ。

 警官は二つの証明書を驚くほど念入りに、そして、顔写真と顔が合っているかどうかを何度も確認していた。

 血圧が急激に上昇しているのを直に感じる。もしも、整形しているとバレたら? トランクの中を見られたら? 阿部茜の死体を見られたら?

「ちょっと車の中を見せてもらうよ」

「なにか、事件でもあったんですか?」小谷が平静を装って言った。

 警官は二つの証明書を返した。片割れの警官が質問に答えた。

「近くの高校に通う女子高生が、行方不明になったんだよ。それで、誘拐されたんじゃないかってことで、検問をやってる」

「そうだったんですか。なんだか怖いですね」

「ははは。すぐに終わるよ」

 車のロックを解除すると、警官はドアを開けて、座席のシートを漁り始めた。フットレストには阿部の小便が染みついている。消臭剤を振りかけたが、どれほどの効果が見込まれるかは分からない。

 少し経ってから、二人の警官はドアを閉めて、外に出て来た。

「今から、どこに行こうとしていた?」

「ちょっと、ここのコンビニまで」

「へえ。兄弟で仲良く?」

 兄弟? 砂川は首を傾げたくなったが、書類上は兄弟になっていることに、今更ながら気がついた。

「ええ。ちょっと腹が減っていたもんで」

「そう」

 腹の張った大柄な警官は、こちらに興味を失っているようだった。それもそうだろう。免許証と身分証、車内までチェックして、他になにを確認しようというのか。

 もう一人の警官は車の後部に回り込むと、トランクに手を当てた。

 まずい。その中には、赤ん坊のように丸まった阿部の死体が――。こうなったらやるしかない。ダッシュボードの奥に隠した小型ナイフで、二人の警官をめった刺しにするんだ。刑務所にぶち込まれるのは御免だ。なんのために、ここまで頑張ってきたと思ってやがる? 色々なものを乗り越えてきた。全部、全部、あの阿婆擦れ女が悪いんだ。あいつが不倫さえしなけりゃ、こんなことにはならなかったんだ。自分の名前も顔も捨てて、警官と鉢合わせすることにはならなかったんだ。そうだ。全部、あの女が悪いんだ――。

「トランクの中にはなにが入ってる?」

「雪山で使うスノーボードです」小谷は砂川を指差して。「こいつと俺の、二人分」

「……」警官は無言になった。

「開けて見せましょうか?」

「いや、いいよ。長く拘束して悪かったね。君たちも犯人には気をつけて。かなりヤバイ奴らしいからさ」

「分かりました」

「行こう」と、太った警官が、もう一人の警官に言った。二人はもとの場所に戻って、また検問を始めた。

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